昔の新聞紙

 今では各家庭に配送され、読まれた後の古新聞は、折り畳まれ、積まれて、各家庭で一定期間保存された後、ゴミの日に収集されて、処理され、家庭で古新聞紙が何かに利用されることは殆どなくなってしまった。しかし、昔の新聞は、その記事の内容だけでなく、読まれた後の古新聞紙も人々の生活に深く関わっていたのである。

 戦後間もない頃までのこの国では、貧しかったこともあり、読み終わった古新聞紙なども、今の様にすぐに纏めて捨てられたり、回収されたりすることはなく、どの家でも全て大事に保存され、再活用されたものであった。当時は大型の一枚の紙で、何処ででも手に入るものといえば古新聞紙ぐらいしかなかったので、何から何にまでに、広く用いられていたのであった。

 先ずは包装用に広く用いられていた。何かを包むといえば先ず古新聞であった。八百屋や魚屋でも、今の様に包装されているものは少なかったので、多くの商品がその場で店の人によって、古新聞に包まれて渡されていたし、他の小売店などでも、古新聞は商品の包装用に重宝されていた。

 陶器やガラス物などの割れ物を収納する時にも、緩衝材として重宝されたし、ガラクタ類を箱に詰める時に隙間の詰め物としても利用された。いろいろな作業をする時の汚れを防ぐ防護マットにも重宝されたし、絵や習字の下敷きなどにも使われた。

 折りたたんで袋や箱を作って、引き出しや箱の中の小分けや、小さな物入れ、屑箱代わり、たん壷などにも利用された。子供たちは新聞紙を折って兜を作ったり、飛行機を折って飛ばしたりもした。

 更に戦中戦後の物資不足の折には、古新聞は小さく切って、雑巾や布巾、鼻紙など、今のティッシュの代用にも使われたし、更にはトイレットペーパーにも利用されていた。どこにでも手近にあって、しかも万能とも言える新聞紙は貴重な存在で、特に引っ越しの時などには、フルに利用されたものであった。

 また、薪や暖炉の火をつける時にも、先ず新聞に火をつけて燃やし始めることが多かったし、戦後の暖房も何もない寒い冬には、古新聞絵をくしゃくしゃにして伸ばし、それを背中のシャツの間に挿入しておくと、いくらかでも暖かいと言って利用する人もいた。

 更には、古新聞紙は部屋の湿気取りの意味合いで、部屋の床の畳の下に敷かれて広く利用されてもいた。年末の大掃除の時には、畳を上げて陰干しをしてから元へ戻したものだが、畳の下に敷かれていた古い新聞紙を新しいのに取り変えるので、作業の途中で、出てきた古新聞の記事に惹かれて、つい読み始めては仕事の停滞を非難されたものであった。

 まさに新聞は、テレビもない時代には今より遥かに重要な情報源であり、社会生活にとって不可欠のものであり、今と違って紙面も薄っぺらで、広告も少なく、隅から隅まで読まれただけでなく、古新聞紙になってからも更にフルに活用されたのであった。

 新聞の記事の内容などについてはここでは触れないが、新聞と古新聞紙を結ぶ間の話として、一つだけ紹介しておきたい。

 当時は、上述の如く、国民向けの情報などは、新聞の他にはラジオぐらいしかなく、新聞の役割は今よりももっと大きかった。しかも大日本帝国の時代である。そこに天皇や皇室の載っている新聞記事が多かったのも当然である。そうした新聞が古新聞紙となり、切り刻まれて、トイレットペーパーとして、それで尻を拭く場面も当然出てくるであろうし、それほどでなくても、天皇の顔で泥を拭くことも起こりかねない。

 世は天皇が現人神の時代である。そんな恐れ多いことをしては罰が当たると考えた人がいたのであろう。我々の子供の時には、毎日の新聞を見て、皇室関係の記事を見たらそれを切り抜いて袋に入れて保存し、日中戦争開戦日の7月7日を記念した毎月7日の興亜奉公日に、それを学校へ持参し、学校でそれらを纏めて校庭で燃やすという行事が行なわれていた。

 この行事が私のいた学校か地域だけのことだったのかどうか、転校してからは記憶がないので分からないが、どれだけ広く行われていたのかどうか、戦争で物資不足が激しくなったため止めたのかなどは不明であるが、今から思えば、つまらないことに気を使っていたこともあった時代であった。