子供の頃の家での生活

 子供の頃にあったものを思いつくままに並べてみたが、沢山あっても、それぞれがそれぞれに色々な思い出に繋がっている。それも思いつくままに適当に拾い上げて書いてみよう。

 今住んでいる家は、親が死んでから立て直した家なので、母親用に造ったほぼ独立した和室が二部屋あるが、それ以外の我々が日常使っている部屋は全て洋間になっているので、何処にも畳もないし、 昔のような障子や襖もない。もちろん、鴨居も長押もない。天井は白い布張り?だし、床の間もない。生活様式が洋式になり、それにつれて、住まいもすっかり洋式になってしまっている。

 それでも、昔の和式も懐かしい。子供の頃の家は、どの部屋も畳敷きで、畳の数によって八畳の間とか、六畳の間とか言われていた。畳の部屋で一番懐かしいのは、新しい青畳に寝転がった時に、藺草の匂いがぷんと感じられたことであろう。しかし、畳は使っているうちに藺草の匂いは消え、だんだん黄色くなって、やがてすり減り、新しい畳に入れ替えることになった。

 畳のヘリは大抵黒や緑、あるいは模様の入った布が貼られており、部屋の畳の並べ方は畳数によって決まっていた。畳は床板の上に新聞紙を敷いてその上に敷くのが普通で、戦後の頃はBHCなどの殺虫剤も撒いたりしたこともあった。昔は何処の家でも、年に一度、大抵は年末に、畳をあげて、陰干しをする大掃除をしたもので、その時に、畳の下に敷かれた古新聞の記事が目に止まって、思わず読み出したりして、掃除の邪魔になると言って怒られたりしたものであった。

 当時の家は、大抵畳敷きの部屋が襖を隔てて並んでおり、必要に応じて襖を外すと二部屋を通して広く利用出来るようになっていた。敷居の上に乗った襖の上には鴨居があり、鴨居の下の高さに部屋をめぐるように長押が張り巡らされていて、その溝を利用して、我が家では「天高気清」と書かれた額が掲げられていた。壁の上の長押には着物やハンガーなどを掛けるのにも便利であった。そういえば、着物などを掛ける衣桁などというものもあった。

 部屋の庭側には、障子を隔てて縁側があり、その外側はガラス戸で、縁側になっていた。そこから縁石を介して庭へ降りれるようになっているのが普通だった。また、廊下の端にトイレがあることが多く、その入り口に近い縁側の外には、本来は手洗いのためであったのであろう、穿った石を乗せた背高い石が立っており、横には水を流す小石を敷き詰めた窪みが掘られていた。

 このように昔の家はオープンであった。ガラス戸や障子、襖を全て開け放せば、外からの風がそのまま入るようなものであった。夏には障子を外して御簾に置き換えたりもした。今ほど夏の気温も高くなかったこともあり、冷房がなくても、裸で団扇を使うぐらいでも、夕涼みが出来た。今のように熱中症など聞かなかった。

 その代わり蚊や蝿などが自然に部屋の中まで入り込むことになり、夜の安眠を確保するためには蚊帳が必須の生活必需品であった。光を求めて、蛾やかなぶんなども入ってきた。私は蚊が苦手だったので、夜になると早速蚊帳を吊って、その中に潜り込んで勉強などをしたものであった。

 逆に、冬の寒さは今の比ではなかった。日本風の家は隙間だらけなのに、暖房といえば、炬燵と火鉢ぐらいしかなかった。電気ストーブやガスストーブはまだ貴重なものであった。厚着をして、暖かいものを食べたり、熱燗を飲んで暖まる。風呂へ入って温もって早く寝ることなどが一般的な寒さ対策であった。

 従来の日本の家は基本的には南方系の建物である。柱で建物を支え、間は開けっぴろげな構造になっている。東北地方などのように寒さの厳しい地方でも同じであった。しかも、そんな所でもトイレは母屋と離れた戸外にあった。暖房は囲炉裏だけと言った所だし、そこで栄養の悪い高食塩食をとっておれば、、日本に特異的に多かった脳出血の原因となったのも当然であろう。 

 夜に勉強する時などは、丹前などを沢山着込んで、火鉢を抱え込むように座り、火鉢の上に手をかざしながら本など読んでいると、つい眠くなって、うとうとしだすと、手が下がり、「あちち」となって眼が覚めるということを繰り返したりしたものであった。そのうちにもう炭火が消えかかって寒くなり、仕方がないので、もう寝ようかということにもなった。

 火鉢にしろ、櫓炬燵にしろ、少ない炭火を長く持たすためには、炭火を灰でうまく包み込んでそっとしておくのがこつである。もう今では、五徳や火箸などを見たこともない人が増えたことであろう。その時代にはその時代の、生活の知恵のようなものがあり、それをうまく利用してそれなりに、その時代を乗り切って来たものである。

 それはそうとして、戦前の家には、大抵何処の家にも、神棚とか仏壇があり、座敷か何処かには御真影といって、菊の紋章のついた天皇と皇后の写真が飾られていた。我が家は転勤族だったのでそれほど立派な仏壇ではなかったが、小さいながらも、そこだけは別世界で、くすんだ金色に輝き、先祖の位牌が並んでおり、母親が欠かさず、お花や水とともに、炊いた飯の一部をお供えしていた。

 神棚は長押の上に小さな棚が拵えられており、そこに小さな社のファサードのようなものが置かれ、その前に神社のお札のようなものとお神酒を入れるのか、細い一対の壺が置かれ、こちらの方は、毎朝、父親が拝んでいたようであった。

 その他、今の家と最も違うのは風呂とトイレではなかろうか。もう五右衛門風呂と言っても知る人も少ないであろう。要するに大型の鉄の釜を風呂に使うわけである。下から火を焚いて湯を沸かしそれに入るのである。鉄の釜だから下は熱いので、釜の大きさにに合わせた丸い簀の子を浮かべ、その上に乗っかって、簀の子を沈めて抑えながら入るわけである。

 我が家の風呂は五右衛門風呂ではなかったが、外から薪で沸かす風呂だったので、薪割りから始まり、用意した薪を焚き口から入れ、新聞紙で火をつけて、鞴で火力を調整したりして、風呂を沸かすのが一仕事であった。湧き上がる迄に時間がかかるし、湯加減は聞かねば分からない。冷めないうちに次々と入浴するよう急かせたりと大変であった。

 最後に、家の中の設備で昔からの変化が最も激しいのがトイレだろう。戦前の汲み取り式の和式便所のことについては、話で聞いておられる人も多いだろうが、当時の便所は暗く、臭く、汚い所で、おまけに寒く、少しでも早く出たくなる所だった。

 便器にはぽっかり穴があいていて、下は薄暗く、便壺には蛆虫が這い、その上を蝿が飛び回っていた。便器と弁壺の間の横には汲み取り用の窓があり、昔は近在の百姓さんが時々、肥え樽を担いでやって来て、そこから肥汲みをして持っって帰り、畑の肥料にしていた。その汲み取り用の窓から侵入した泥棒がいたのには驚かされたものである。

 そう言ったトイレの環境の中で、腰掛けるのではなく、屈む姿勢で臨まなければならないのだから、到底長く留まることなど出来ない。戦後に来たアメリカ人が「日本のトイレは教育的でありませんね」と言ったものだった。トイレで新聞を読むなど考えられなかった。

 まだまだ書けばきりがないが、この辺でお終いにしておこう。