安倍元首相が奈良で銃撃死されてから早1週間を過ぎたが、現場には未だに弔問客が後を断たないという。岸田首相は先日の記者会見で、秋に安倍元首相の国葬を行うと言っていた。
国葬については、戦後新憲法とともに法律の定めはなくなったままであるが、吉田茂元首相の場合に特別に行われているだけで、他には例がない。もし、安倍元首相が国葬になれば、戦後2例目となる。
今回は、安倍派の下村氏が国葬だと声を挙げていたので、恐らく、党内事情などを考慮して決めたのであろう。安倍元首相が過去最長の首相を務め、自民党の最大派閥の長を務めていたので、今後の党内バランスなどもあり、今回の非業の死を悼んで国葬にしようとする発想が生まれたもののようである。しかし、国葬とあらば、大々的に国民の税金を使って、海外からの要人の弔問などまで受け付ける国家的な行事となる。
しかし、安倍元首相については、最長の首相在任期間であったが、その間の首相の政治的功績は国葬に値するものであろうか。長かった在任期間にもかかわらず、アベノミクスによる経済の復活は遂に起こらず、今や新自由主義により人々の間の格差は広がり、円安が進んで、物価は上昇、人々の貧困化が拡がっているのが現状である。
この元首相はアメリカに言われるままに軍備ばかり増強し、国民の福祉や社会保障はますます制限し、国民の声に応える姿に乏しかった。その上特記されるべきは、森友学園、加計学園問題や、それに絡む公文書の書き換え問題で公務員の死まで招き、更には桜を見る会、その他の数々の疑惑案件を引き起こし、しかも、その説明もないまま、突然辞任するなど、国民に大きな疑念を残したままである。
こういう元首相に悲劇の死を遂げたからといって、国民の税金を使ってまで国葬をする意味があるだろうか。死者の霊を厚く弔うのは個人の内心の自由に属することであり、これと、国葬にするかどうかということは別の問題である。国葬にするということは死者の政治姿勢を国家として全面的に公認し、礼賛することになるのである。
国葬は国家としての世界に開いた国の行事である。殆どの国民の賛同があって初めて成り立つものであろう。岸田首相が発言するより前から、Twitterには国葬反対という書き込みがあがっていたし、首相の発言後には改めて、「国葬反対」とか「安倍晋三の国葬に反対します」「安倍晋三氏の国葬に反対します」「安倍元首相の国葬に反対します」というハッシュタグが出現しており、これらに賛同して国葬反対の声も多いようである。それについてのアンケート調査まであり、その結果は国葬に賛成がおよそ75%、反対が25%ほどであった。
多くの人が賛成しているが、およそ4分の1の人は反対していることになる。国葬などはするなら出来るだけ多くの人の賛同があって初めて成立するものである。哀悼の意は個人的な心情の問題であり、反対意見を押し切って強行するようなものではない。リアルの世界でも、国葬については自民党は勿論賛成であるが、野党でも、国民民主党は賛成、立憲民主党は再考を促し、共産党、社民党、れいわ新撰組は反対しているようである。
国葬は多くの反対意見を押し切ってまで強行するべきものであろうか。意見の分裂した中で行われる国葬は、反対する国民を愚弄し、末長く国民を分裂させることになり、決して死者を弔うことにはならないであろう。安倍元首相の数々の不祥事については、世界にも既に広く知れ渡っていることであり、そういう事実を無視してまで国葬を行うことは、日本という国家の品格を傷つけることにもなるであろう。
この際、安倍元首相の公式な葬儀をするなら、自民党葬としてでも行い、税金を使っての国費による国葬は絶対にやめるべきである。
なお、この安倍氏の国葬に関しては、朝日新聞の朝日川柳にも、次のようなものが載っていたので、参考までにここに転記しておく。
疑惑あった人が国葬そんな国
死してなお税金使う野辺送り
忖度はどこまで続くあの世まで
国葬って国がお仕舞いっていうことか
誰しも感じることは似ているようである。