三つ子の魂百までも。

 私が育ったのは戦前から戦中、戦後にかけての、まだこの国が貧しい、物のない時代だった。1929年の大恐慌や、東北地方の凶作で娘を売らねば食べていけない人も多くいた様な時代であった。その後育ち盛りの頃が、中国への侵略戦争、なし崩しに続いた世界大戦。ファシズムの嵐が吹き荒れ、「大日本帝国」に踊らされ、最後に原爆まで喰らって戦争が終わった時には、国中が焼け野が原になり、、浮浪児や餓死者に溢れる地獄の様な時代だったのである。

 当然今の様に、物が豊富にあるわけではなかった。世界的にも、大量生産、大量消費の時代はいまだ始まりかけている位の時代でもあった。戦前の貧しかった時代には、外国に出稼ぎにったり、移民したりした人たちの仕送りで漸く国の財政バランスが取れるような状態であった。

 まだ稲作農業が主要産業で、殆ど全てを、人手に頼る循環社会の様相が強かったので、何でも節約し、物を大事にし、使えるものはとことん最後まで使うのが当然のことと感じられていた。

 米は収穫後の稲藁は、蓑に、草鞋に、肥料にと、全て再利用されっていたし、籾も緩衝材などとして用いられていた。食器やお櫃、陶器類なども使えなくなるまで、いつまでも利用された。まだ使い捨ての日用品などなく、何でも修理出来るものは修理して、とことん使うのが仕来たりであった。衣類も繕ったり、作り直したりするのが当然であった。

 当然、まだ使える物は取っておく。まだ利用出来るものは、とことん利用するのが当然のことであった。つぎを当てたズボンやシャツ、靴下などは当たり前であったし、包み紙や新聞紙、紐や輪ゴムなどは、再利用のため保存されていた。

 まだプラスティックがなかったので、ガラスのビールやサイダーの瓶は洗って再利用されたし、その木製のケースは、やはり木製のみかん箱などと共に、机や踏み台その他に広く再利用されていた。

 医療に用いられている使い捨てのプラスチックの注射器や点滴の管なども、ゴムとガラスしかなかったので、シンメルブッシュと言われていた器で沸騰消毒して、何度も再利用されていた。人糞さえも、下水に流すのではなく畑の肥やしに利用されていた。

 そんな時代に育ったので私は「三つ子の魂百まで」と言われる如くに、この年になってもこのような昔の癖が治らないようである。 例えば、衣類などは、外行き用、内用と分けて、古くなった物や傷んだ物は内用として利用し、新しい物や、平素あまり使わないような物は大事に保存しがちとなる。

 贈答品や、買ってきた品物のデパートなどの包み紙は、そっと大事に破らぬ様に開いて、伸ばし、いわえていた紐や輪ゴム、紙袋の類もいつか使えればと思って、捨てられないでとっておくことになる。Amazonの箱や、本の包装ケース、お菓子の箱なども捨てられないで取って置きたくなる。

 衣類なども、一旦もう着なくなっても捨て難い。ケチと言われても、いつの日にか着るかもしれないようななものは、その日までとっておきたいことになる。

 もう使う予定もなく、ゴミの山と分かっていても、捨てなさいと言われても心残りがする。郵便物や広告で送られてくるプラスチックの袋なども、時に何かの分別に使うと便利なことがあるので、とっておくと忽ちいっぱい貯まる。チラシで裏が白紙のものを見ると、つい小さく切ってメモ用紙にしたい衝動に駆られる。

 それにある時期、食品のプラスチックの器などを用いてリサイクルアートを作ったりしていたので、その絡みで、余計にガラクタが集まるので、余計に捨てられない。私の部屋や屋根裏部屋はそういったガラクタで満たされる。もう歳からいっても、そろそろ見切りをつけて、不要なものは捨てた方が良いとわかっていながらも、なかなか捨てられない。今でもいつか使えそうなものは、やっぱりとっておこうかということに傾き勝ちである。

「三つ子の魂百までも」という通り、若い時からの癖は本当に死ぬまで治らないもののようである。