古新聞紙

 今朝も早くから家の周りを廃品回収の軽トラックが回っていた。市のゴミの分別回収で新聞などの燃えるゴミの日には、市の回収車より早くに、個人的な業者の軽トラックが何台もやって来て、戸外に出された古新聞を回収していく。古新聞の需要によって来る軽トラックの台数が変わってくるようである。ただ彼らの狙いは新聞紙だけのようで、一緒に出されているダンボール紙などは見向きもして貰えない。

 現代ではこのようにして、各家庭に配達された新聞は読まれたら、そのままビニールの袋に入れられてしばらく保存され、回収日が来たら持っていかれることになるわけだが、我々の子供の頃は今とは違って、古新聞はただ回収されるのではなく、貴重な資材であり、殆どフルに利用されていたものであった。

 今はどうか知らないが、昔はどの部屋の畳の下にも、必ずと言ってようぐらい、古新聞が敷かれていたものであった。そして最近は、これも流行らなくなったが、年末にはどの家でも畳を上げて大掃除をするのが恒例であった。

 畳を上げた時にその古い新聞がひょっこり顔を出すことになるのである。古い日付の新聞なので、ついそれに目をやることになる。すると、もうすっかり忘れていたような何年も昔の新聞の見出しが目につく。つい懐かしく思い出したりして、その記事を読むことになる。そこで大掃除がストップしてしまう。「いつまでそんなもの読んでるの。早く仕事をしなさい」と怒られて、仕事を再開するというのが筋であった。

 また、当時はまだ今のようにビニールなどのプラスチックの袋がない時代だったし、まだスーパーもコンビニもない時代だったので、肉や魚、野菜などはすべて市場や個人商店の肉屋さんや魚屋さん、八百屋さんで買っていたが、これらの店での品物の包装はすべて古新聞紙であった。

 それ以外でも何かを包むといえば、先ず新聞紙が用いられたもので、古新聞はそのために保存もされていたのである。新聞紙はその他にも用途は広く、果物や割れ物の包装にも用いられたし、くしゃくしゃに丸めて箱詰めする時の緩衝材などとしても利用された。

 また、炭や薪を使った竃や風呂釜などで火を起こす時に、着火剤としても重宝されていた。子供は新聞紙を折り紙のように使って、模型の飛行機を作って飛ばしたり、兜を折って、それを被ってチャンバラゴッコに興じたりもした。

 その他、いろいろなことに用いられたが、珍しいものでは、戦後の物のない時には、新聞紙をそのままくしゃくしゃに皺だらけにして、背中のシャツの間に挟むと防寒に役立つというので、利用されたこともあった。

 もう一つ、忘れてならないのは、トイレットペーパーや鼻紙にも広く利用されていたことであろう。予め、新聞紙をA5かB6ぐらいの大きさに切って揃えて、平たい編み籠などに入れて、トイレに置いて使用していたものである。

 それに関して忘れられないのは、我々の小学校では毎日の新聞で、天皇や皇族の写真が載っていたら、その記事を切り取って袋に入れて溜めておき、決まった日に学校へ持っていって、集めて校庭で、それを燃やす行事が行われていたことであった。

 当時は天皇は現人神で、大阪の学校でも宮城遥拝をするぐらい、天皇は雲の上の存在だったので、恐らく皇室の写真が載っている新聞紙で汚いものを包んだりしては不敬に当たるからという趣旨だったのであろうあろう。ましてや、天皇の顔で尻を拭いてはバチが当たるということを想像した人がいたのであろう。

 今から考えれば馬鹿げたことだが、戦前の社会の一面を表す象徴的な行事の一つでもあったのであろう。同じ新聞紙でも時代によって扱われ方は違って来るものである。