今は昔、戦争中の話、それも既に敗戦の色濃く、大日本帝国がもはや最期まで追い詰められてきていた頃の思い出である。
教育とは恐ろしいものである。何も知らない白紙の子供にとっては、どんなことでも教育されれば、まるで乾いた砂に水が滲み渡るように入っていく。それが全てなので、他のことは全く知らない。
そんな状態の16歳の子供は、教えられるままに、豊原葦の千穂秋の瑞穂の国は万世一系の天皇が治める神国を信じていた。その大日本帝国の掲げる大東亜共栄圏や八紘一宇の理想を妨げる米英両国に対する聖戦には、恐れ多くも天皇陛下の御為には醜の御盾となって、一命を投げ打ってでも戦わねばならないと真剣に考えていたのだから、今から思えば笑止に耐えないことであった。
旧制度の中学校の4年生の夏、クラスでも一番小さな子たちのグループである第4班で、運動神経も鈍く、ひ弱で、およそ軍人向きとは言えない私が、親にも内緒で、海軍兵学校の入学試験を受けたら合格してしまった。
後からそれを知った親はどう思ったか知らないが、時代は反対出来るような世相ではなかった。「お前が海軍に行くようになったら日本もお終いだな」と漏らしたのが、当時としては許容される限界の言葉であったのであろう。学校も急迫しつつあった戦況下で勉強どころではなく、春から勤労動員でアルミ工場へ行って飛行機の燃料タンクの仕事の手伝いをしていた。
そのうちに年が変わり昭和20年となると、3月の大空襲で東京、名古屋、大阪、神戸と一晩おきぐらいに、大都市は次々と皆焼け野が原になって行き、学校も我々の学年だけが4年で卒業ということのなったが、卒業式も出来なかった。
そして4月初めには江田島へ行って海軍兵学校へ入校した。早速、制服などの支給があったが、夏の制服は本来の白は目立つというので、カーキー色に染められており、シンボルの短剣は輸送の途中で空襲で焼けてしまったそうで、配られなかった。
入学後しばらくは、それでも正規の授業があったが、次第に戦況が悪くなり、分隊ごとに生活を共のする生徒館を間引きして半分にし、ベッドを二段ベッドに改造し、やがては兵学校ごと山に横穴を掘って地下壕に移そうとしていたらしく、壕へ入って、鑿で爆破用の穴を掘る作業などをしたこともある。
カッターの訓練や棒倒し、水泳訓練などは出来たが、乗艦実習は空襲や機雷を恐れて瀬戸内海で夜間に1日ぐらい行っただけ。あとは海軍なのに、陸戦の訓練、第4匍匐や爆雷を以って敵の戦車のキャタピラに突っ込む訓練などもした。そのうちに校内で腸チフスが発生して、若い医官が大勢やって来て、検便や隔離その他の騒動もあった。
ラジオのニュースなどは、相変わらず大本営発表で、どこそこで敵の戦艦や航空母艦などを轟沈や撃沈などと繰り返していたが、戦況はどう見てもわが方に不利、やがて沖縄の地上戦も終わり、「沖縄では皆は最後までよく戦った。将来沖縄の人々には特別のご配慮を」という電文が最後になった。
どう考えても日本は不利である。ラジオが言うようにアメリカの軍艦をいくら撃沈しても、アメリカの軍艦は次々と出てくる。太平洋の島から日本軍が転進したと思ったら、すぐ後からもうアメリカの飛行機が飛び立ってくる。呉の沖で艤装中の天城という航空母艦があったが、アメリカの飛行機が「松の木が枯れて航空母艦が姿を現した」とビラを撒いていったこともあった。
その頃からラジオなどでは「最後の決戦、最後の決戦」と繰り返すようになった。それと同時に神州不滅、天佑神助、神風が吹くなどという。「変なことをいうな。最後の決戦なら日本軍がアメリカに攻め込んでからのことではないか」と思わずにはおれなかった。
日本国中焼け野が原だし、軍艦は皆島影に隠れて殆ど動かない。本土決戦に備えてと言っていたが、実際は重油がないから動けなかったのであろう。そして、7月末には呉の大空襲があり、真珠湾攻撃どころではない、壕へ避難していて出て来て見れば、江田島の湾内にいた連合艦隊の旗艦になっていた重巡の大淀も巡洋艦利根もともに沈んでいたし、あちこちの島影に隠れていた軍艦も殆どが沈んでしまっていた。皆浅瀬に係留されていたので、沈んで水を被っていても、艦橋や煙突、マストなど、上部はそのまま無様な姿を現していた。
もうこうなると、誰が見ても、どう見ても勝てるとは思えない、しかし神州不滅の日本が負けることは考えられない。大人だったら、心の中では負けると分かって最後の決戦といったのであろうが、私には負けるという言葉がなかったのである。誰も面と向かっては負けるとは言えない環境であった。勝つとは考えられないし、そうかと言って負けるとは考えられないジレンマ。結論は「どうにかなるだろう」ということしかなかったことを今でも覚えている。
そして8月6日がやって来た。雲ひとつない気持ちの良い朝であった。朝の自習時間で皆静かに本を読んでいた。突然ピカッという閃光が走ったような気がしたと思ったら、次いでガタッと地面が揺れたような感じとともに、ドンという地響きのするような音がした。空襲かな。一寸違うようだし、何だろうと思って、皆が教室から飛び出して遠くを見ると、原子爆弾による原子雲がむくむくと上がっていくところであった。
初めは新型爆弾で、日本軍が台湾で使ったので、その報復だなどとの説明があったが、やがて原子爆弾だということが判り、今度空襲があればこれを被って逃げろと、目の部分だけをくり抜いた白い布の袋を配られた。閃光による被害を防ごうとしたものであったようである。
こうして、どんどん追い詰められて、とうとう負けるという言葉を聞いたのは天皇の玉音放送を聞いてからであった。校長が「我々の時代には大きな間違いをしてしまった。どうか君たちの世代で何とかそれを取り戻して欲しい」というような話をされた。それでも元気の良い上級生の中には日本刀を抜いって「帝国海軍はまだ戦う、貴様たちは故郷に帰っても、最寄りの特攻基地へ行け」と檄を飛ばす者もいて、私も半ば同調していた。
こうして兵学校も解散となり、それぞれ出身地へ帰ることになったが、これでやれやれ大阪へ帰れるといった気持ちとともに、それまでの支えがなくなってしまい、ただ呆然とするばかりであった。途中で宇品から広島駅まで原爆の被災地を歩いた時の経験も忘れられない。惨めな惨めな敗戦の記憶であった。私の中ですべてのものが失われていくのを感じた。
戦後も長い間、天高く伸びていく入道雲を見ると広島の原子雲を思い出し、花火大会の中へ行くと3月14日の大阪大空襲の空中から降ってくる焼夷弾を思い出したものである。