中学から高校を飛ばして大学へ行った世代

 コロナの流行で学校閉鎖が行われ、子供の学力低下や、仕事を持った母親の負担などが問題になっているが、この国のこれまでの歴史の中で、学校の勉強がもっと長い間止められて出来なかったことがあったことを忘れないで欲しい。

 それは我々の世代の中学校の時に起こったことであった。日中戦争がこじれて、第二次世界大戦となり、大量の兵士が海外に動員され、国内の人手が不足し、それを補うために、朝鮮人や中国人が連れてこられて強制労働などが強いられたが、それでも足らず、国民総動員法が出来て、老いも若きも動員され、1943年頃からは大学生の学徒動員ばかりでなく、中学生までが、勤労動員の名の下に、学業を放棄させられて、色々な作業に駆り出されるようになったのであった。

 我々1941年、日米戦争が始まった年に入学した中学生は、1943年の三年生の時から、この勤労動員につかされ、教師の引率の下、初めは空襲に備えた貯水槽掘りに半日動員され、1944年の4月からはもう学業は全廃で、殆ど毎日、朝から夕方まで一日中、学校ではなく工場に出勤して作業する生活となり、学校での勉強は全くなくなってしまった。

 行った先によって仕事は色々であったが、私の仕事は飛行機の燃料タンクを機械でプレスして成形したものを、そのままでは目的の場所にうまく収まらないので、ハンマーで叩いて隅のカーブを飛行機の収納場所にフィットするように修正するものであった。折角、機械で整形したものなのに、そのままでは利用出來ず、効率の悪い手作業で調整せねばならないようなことで、果たしてアメリカに勝てるのだろうかと、ふと不安がよぎったことを今も覚えている。

 そんな工場での仕事が1年間続き、戦局の悪化とともに1945年の3月には我々の学年だけ、4年で中学校卒業ということになった(当時の中学校は5年制であった)。大阪大空襲の直後ということもあり、卒業式もなく、中学校を追い出され、私は当時、江田島にあった海軍兵学校に行ったが、その年の8月には敗戦ということになったわけである。

 戦争が終わって翌年、旧制度の第八高等學校へ行ったが、戦後の混乱で、あまりまともな勉強る出来る環境ではなかった。それでもその後、何とか大学へ行ったが、現在で言えば、皆が一番しっかり勉強をする高校時代の年代を、すっかり飛ばして、今の中学校から高校を飛ばして、大学へ行ったようなもので、その後の人生でも、長く何処かに基礎的な教養に欠ける所を抱えたままだったような気がする。

 我々の狭い範囲の世代だけのことなので、あまり社会的に目立たなかったのであろうが、この成長期の重要な教育の欠落は、一生かかっても補えないような欠陥を我々に残したような気がする。二度とこのような欠陥世代を生まないためにも、何よりも国が戦争をしないこと、国の目的だけのために、安易に国民から教育の権利を奪わないことを願って止まない。