「もう10歳若ければねえ」とは母が晩年よく言っていた言葉である。遠い昔のことになるが、戦前、母の里は貿易商のようなことをしていたので、周囲にアメリカへ行ったことのある人もおり、母の兄もアメリカへ行ったりしていた。
そのようなこともあり、母は若い時から海外へ行ってみたいという夢を秘めていたのではなかろうか。父と結婚したのも、銀行員ならひょっとして将来アメリカへ行く機会も出来るかも知れないといった淡い期待が伴っていたようである。何かの機会に、母が漏らしていたことがあった。
実家か、親戚だったか知らないが、母のよく知っていた女中がアメリカに付いて行って、帰ってから英語を喋るのを聞いて、語学はそこに住みさえすれば覚えられると思ったようで、「あの女中でも英語が喋れるようになったのだから、アメリカに行って、そこに住みさえすれば英語は覚えられる」と思っていたようである。
ところが、母の生きた時代が悪かった。大正時代に結婚し、子供達を育てたが、大正デモクラシーの時代も瞬く間に過ぎ、昭和の大恐慌から、日本は次第に軍国主義の国になり、「東洋平和の為ならば」だとか言いながら、満州事変や支那事変を起こして侵略戦争を始め、泥沼に入ったままに、とうとうアメリカにまで宣戦布告して、破滅への道を突き進んでいってしまったのであった。
もう海外旅行などの夢は吹っ飛んでしまった。戦中戦後の過酷な時代は、生きるのに精一杯であった。戦後何年も経って、日本の高度成長が進み、世の中が落ちついてきた頃には、子供達も一人前になり、生活のゆとりも出来てきたが、その時はもう老いがやって来て、外国まで行くには、年を取り過ぎてしまっていた。国内の旅行が精一杯であったのであろう。
子供や孫たちが海外に行ったりするようになって、海外旅行を奨められても、いつも「単なる旅行では分からない。そこに住んで見なくてはね」「もう十年若ければ行けるんだったがね」と答えるばかり。「まだ行けるよ」と言っても、同じ答えが返ってくるだけで、とうとう海外には行けないままに、96歳の生涯を閉じてしまった。
母はおそらく、一生いつかアメリカへでも行ってみたいとの思いを抱いていたのであろうが、生きた時代が悪かったとしか言いようがない。私がアメリカへ行っている間、娘を預かっていてくれたし、娘たちがアメリカに住むようになって、その話もよく聞くようになっても、もう少し若ければ行ってみたかったのにと、残念に思い続けていたのであろう。
もう母が死んでから二十年以上も経ち、こんな話も殆ど忘れかけていたが、最近、テレビを見ている時に、山岳登山の映像が映っているのを見て「もう一度行けたらなあ」と若い頃を思い出してふと呟いたら、女房が「もう無理よ、もう少し若ければねえ」と答えたので、思わず母の言葉を思い出して、二人で「もう十年若ければねえ」と唱和することになったのであった。
いつしか一世代がたってしまったのである。今では、私が歳のために、行動が制限された状態になってしまっている。日常生活に不便はないが、本格的な登山とか、ヨーロッパやアメリカなどへの外国旅行はもう体力的に無理なようである。残念だが仕方がない。母の無念も思い出しながらもう諦めている。