戦前の日本の思い出

 戦前の子供の頃の日本はまだ貧しい国であった。東北地方は毎年のように冷害に苦しめられ、娘を売らねば生きられない小作人たちも多かった。日本の人口は当時7千万人と言われていた。今よりはずっと少なかったが、それでも、こんな小さな島国で、こんなに沢山の人を養えるわけがないのは当然と言われ、移民政策が取られていた。五・一五や二・二六事件なども農村の貧困が背景にあったとされる。

 神戸に移民館があり、国が援助した事業に、貧しい農村の次男坊や三男坊が応募して、神戸から移民船に乗って遠路はるばる、南米のブラジルやペルーなどに渡って行った。ところが、満州事変を経て、日本が満州に傀儡政権を作り、満州への進出が進むとともに、今度は満蒙開拓団と称して、満州への移住が推進され、村ごと移住したような例もあった。

 その頃から「満州は日本の生命線」だとよく聞くようになり、開拓団を守るために馬賊や匪賊の討伐をしたという話も聞かされた。「東洋平和のためならば」という歌もあった。地図を開いたら、満州は日本から遠く離れた大陸にあるのに、どうしてここが日本の生命線なのか不思議だった。五族共和の国などと言われ、それぞれの民族の代表として、満州人、中国人、朝鮮人、蒙古人、ロシア人の各1名からなる子供使節団が来て、一緒に六甲山のドライブをしたことがあった。

 一般の国民の生活レベルも低かった。一汁一菜、日の丸弁当などとよく言われたが、それさえ満足に食べられない人も多かった。子供達も、タンパク質不足で身長は低く、痩せていて、鼻が低く、青っ洟を垂らし、虫歯は当たり前、手は霜焼けあかぎれ、といったところが平均像であった。寄生虫を持つ子も多く、学校では定期的に検便が行われ、肝油を飲まされてりしたものであった。

 また当時は海外へ出稼ぎに行かねば食えない日本人も多く、「からゆきさん」などと言われて、東南アジアからインドネシアに至る、あちこちの娼館へ流れていった日本の女性も多かった。男では、南洋の島々でのアホウドリの糞に由来する燐鉱石の採掘や、オーストラリア近辺での自然の真珠貝採取の出稼ぎのことなども聞かされていた。

 国家としても日本はまだ貧しく、外国貿易も貧弱で、国の収支のバランスも輸入超過で、これら出稼ぎ労働者や、移民の海外からの送金で、何とか収支のバランスが取られていたようである。当時の輸出品といえば海産物や絹織物に陶器などがあったが、高級品はわずかで、日本製品は「安かろう、悪かろう」で通っていた。名古屋にいた親戚の貿易商も瀬戸物の輸出をしていたが、何かの「おまけ」にでも使うようなガラクタなども扱っていた。

 戦後のことになるが、1960年頃アメリカにいた頃、敗戦国の日本とアメリカの格差を嫌という程見せつけられたものであった。アメリカのものは何でも大きかった。人も大きければ、家も、車も、冷蔵庫も全て大きい。おまけに西瓜や茄子まで大きかった。仕事のボスが安物のボールペンを「これは日本製だろう」と言って、見たらmade in USAと書いてあったこともあった。

 戦前に戻るが、学校で地球儀を見せられ、アジアの大陸から離れて、赤く塗られた小さな島が日本だと教えられたのは良いが、「地球はこんなに広いのに、君たちはよくぞ、この小さいが立派な日本に生まれたものだ。有難いことだと感謝しなければならない」と言われたが、地球儀には日本より遥かに大きな大陸や国も沢山あるのに、どうしてこの小さい島国が特別に良いのか分からなかったことを覚えている。

 1940年頃、まだ鳥取県で、筒っぽの着物を来て、裸足で通学する姉弟を見たことや、大阪の郊外の農家の子の中にも、小学六年生で修学旅行へ行く時に、始めて汽車を見たという子供のいたことなども忘れられない。何処のお寺や神社でも、お祭りがあったりすると、入り口などには必ず襤褸をまとった乞食が何人かはいたものであった。

 戦争が終わって、廃墟になったようなこの国に、大勢の人たちが帰ってきて、それこそ食べることにも事欠いたが、それも暫く経つと、人口が急増したのに、昭和20年代のうちには米が余るようになったのには驚いた。やがて高度成長時代になり、いつの間にか日本もすっかり変わってしまった。今では貧しかった戦前の生活の実態を知る人も殆どいなくなってしまったが、戦前の日本は、今の若い人たちには想像も出来ないような、貧しい庶民が生活していた国であったことも覚えておくと良いであろう。