学術会議任命拒否問題はどうなっていくのか

 学術会議任命拒否の問題については新聞でも大きく取り上げられ、国会でも問題となり、学会や大学関係だけでも950を超える団体が抗議の声を上げているが、政府はそれらを無視して、学術会議のあり方が問題だとして、学術会議の見直しに問題をすり替えて、この問題をやり過ごそうとしている。

 この問題の世論は、発表当時はSNSなどへの投稿も多かったが、日を追うごとに書き込みは減少し、残念なことに、「説明不十分」ということでは56%の人が認めているものの、「問題と思う」人が37%に対して、「問題と思わない」人の方が44%と凌駕しており、政府は国会でも、まともに答えられないにも関わらず、この問題に対する反対の声が盛り上がらない現状がある。

 現在強くなってきている社会の分断のもとでは、エリートクラスからはみ出した普通の人達にとっては、学術会議の問題は関心外のことであり、中にはエリートに反感や妬みを持っている人さえ少なくないことがこの問題の反対の弱さに関係が深いようである。

 それを良いことに、政府は初めから、任命拒否の理由についてまともに答えられず、法的に追求されて違法なことが明らかになっても、言を左右して答えず、国会での追求で説明の矛盾や法的な違反を追求されても、頑なに野党の学術会議の見直しなどの問題にすり替えて、強引に無言のまま、この問題を乗り切ろうとしているようである。

 しかし、これは単に学術会議の問題ではなく、現時点はこの国の民主主義にとって重大な分岐点となることを知るべきである。戦前の京大の滝川事件を彷彿とさせるものである。この時には同学の教授たちの辞職などをも伴う強い反対があったが、その二年後の津田左右吉を辞任に追いやった事件では、最早世論の盛り上がりもなく、やがて、なし崩しに軍部の独裁体制になっていった歴史を忘れるわけにはいかない。

 独裁も、戦争も、ある時、突然始まるものではない。一段一段と積み重なっていって、ある時点で気がついた時には、最早、誰も引き返し得ないところまで来ていて、皆で破滅に向かわざるを得なくなったのがかっての大日本帝国の運命であったのである。

 今も既に、自衛隊は長年かけて戦争の出来る軍隊となっており、敵基地攻撃さえ準備されようとしている。破防法や秘密保護法なども成立している。憲法よりも上位の日米安保条約地位協定も続いている。その下での憲法改正についても、今まさに、そのための国民投票法の審議が国会ですすめられようとしている。

 最早、破滅に導かれたあの戦前の社会の空気をひしひしと肌で感じさせられるようになりつつある。この国は再び国民をあの破滅に導こうとしているのかと恐ろしくなる。

 私は歳から言っても、もう長く生きてはいないであろう。しかし、私の子や孫の世代の同胞が、再びあのように惨めな惨禍に会うことには耐えられない。何とかまだ間に合ううちに、平和な生活を続けられるような手立てがないものかと願って止まない。