また8月6日がやって来る。いつの間にかもう75年も経ってしまったが、未だに、つい先日のような気さえする。当時のことを知る人も殆どいなくなったので、参考までに私の細やかな体験を記しておこう。
私は当時、広島から約20Km南にあった、江田島の海軍兵学校にいた。1928年(昭和3年)生まれで、大日本帝国に純粋培養されたようなものだったので、およそ軍人向きでない、チビでひ弱な少年だったにも関わらず、今では考えられないことだが、本気で天皇陛下の御為には命を投げ出してもと思って、海軍士官を目指し、敗戦の年の4月に入学したところであった。
戦局はますます悪くなるばかりで、殆どの大都市が焼け野が原となり、沖縄も占領され、7月末の呉の空襲では、重油不足で周辺の島影に分散して係留されていた軍艦が殆ど皆撃沈され、アメリカの飛行機にわがもの顔に跳梁され、海軍なのに、殆どが陸戦の訓練ばかりとなり、「本土決戦」「最後の決戦」が強調されるようになっては、やがては自分も特攻攻撃で死ななければと追い詰められつつあった。
そんな8月6日午前8時15分、雲一つない夏空が広がっていた。我々は朝の自習時間で、分隊毎に教室で、それぞれに勉強している時だった。突然、教室中にピカッとする閃光が走った。何だろうと思っていると、すぐに、今度はどーんという地響きするような音がして、地面が揺れる感じがした。
これは空襲かと思って皆が外へ飛び出した。そこで見上げる空に見たのは、もくもくと立ち上がっていくあの原子雲であった。北方の広島で何かが起こったに違いなかった。その時には、まだ原子爆弾で大変な被害が起こっていることは分からなかったが、その巨大な原子雲の様は目に焼き付いて、未だに鮮明に残っている。
原爆のことをピカドンと言うようになった由来は、実際に被害にあった人たちの体験によるもので、まさに、20キロも離れた江田島でも、ピカッと光った後にドーンと来たのだから、広島市内での体験が如何に強烈、悲惨なものだったかが想像出来る。
教官のはじめの説明は、日本軍が台湾で特別な爆弾を使ったので、その報復に大型の爆弾を落としたのだという、訳の分からない説明であったが、やがて原子爆弾だということが分かった。そこで急遽準備されたのが、眼の部分にだけ穴の開いた白い袋が配られ、今度空襲があれば、これを被って逃げろと言われた。白い布で強い放射線の閃光を反射させて、壕に退避することぐらいしか手段が考えられなかったのであろう。
それまでは海軍の夏の制服は白だったので、白は目立って標的になり易いということで、国防色に染められたのに、今度は急に真っ白な袋が配られたのを見て、何か違和感を感じたものであった。
それからやがて敗戦、復員ということになる。敗戦の詔勅を聞かされた後も、日本刀を抜いて「帝国海軍は最後まで戦う。貴様たちは帰っても最寄りの特攻基地へ行け」などと檄を飛ばす上級生もいたが、8月25〜6日頃に復員ということになった。カッターに分乗して、曳航されて宇品まで行き、そこから原爆後の広島市内の焼け跡を通り抜けて広島駅まで行き、そこから無蓋の貨物列車に乗って大阪まで帰った。
宇品から広島駅まで歩いた原爆で焼け野が原になった広島は惨憺たるものであった。右側にずっと続く比治山まで、何処までも一面に焼け焦げた赤茶色の焼け跡が見渡す限り続いていた。大阪などでの焼け跡と違い、何か微かな匂いが漂っていた。燐の焼ける匂いだという人がいた。誰も人のいない荒涼とした静寂が支配していた。
原爆症で下血して死んでいった人を見て、赤痢と思ったのか、焼け跡に、焼け残って折れ曲がった鉄棒に「生水飲むな!赤痢が流行っている」と書かれた紙切れがぶら下がっていた。また、誰もいない焼け跡を、上半身裸で原爆光線にやられて赤と白のまだらになった皮膚をした二人が、肩を抱き合うようにふらふらと歩いて行く後ろ姿が見られた。「国破れて山河あり」という漢詩はこういうことなのかとつくづく感じながら歩いたことを覚えている。
原爆をこの目で見た経験は、戦後、原爆について色々騒がれるようになったこともあって、いつまでも繰り返し思い出された。夏に入道雲が高く湧き上がって行くのを見る度に、つい広島の原子爆弾を思い出して目を背けたくなることが長年続いた。
余談だが、それから数十年も経ってからの話で、何かの機会に、アメリカの友人と話している折、原爆の話になり、実際に見た経験を告げて、序でに冗談の積りで、そのためにこんなに禿げちゃったのだと言ったら、その友人が本気にとって、こちらが慌てたようなこともあった。
もう75年も前のことになるが、未だに原爆のことは鮮明に覚えている。こういうことは決して繰り返されてはならない。しかし原爆の非人道的な特殊性を考慮しても、原爆が落とされるまでの経緯で、日本が侵略戦争をした事実も無視してはならない。原爆の被害を訴えるなら、南京の虐殺などの日本軍が犯した犯行をも共に考えなければ、世界の人々の賛同を得られないことも知るべきであろう。