新聞の声欄に、立て続けにこんな投書が載っていたので興味深く読んだ。いずれも、世代は異なるが、若者から見た発言である。前者は私とあまり年の変わらぬ人の過去の戦争に絡む話で、後者は現在の話である。
両者は半世紀以上も離れているが、共に庶民と国家との関係を示している。かって庶民は、現人神の天皇陛下の臣下とされ、赤紙一枚で徴兵され、上官の命令は陛下命令と心得させられ、陛下のためには命を投げ出して戦い、天皇陛下万歳と言って死ねと強制されたものであった。八紘一宇、東洋平和、大東亜共栄圏などと言って侵略戦争を進めたことはまぎれも無い事実である。
そういう時代の日本人は、中国人や朝鮮人を「ちゃんころ」「ちょうせん」または「鮮(賤)人」と言って蔑み、「コーチセン、コーチセン、ピロてミタラ、ピルピンのプータで、パカみたい」などと言って一級下の人間として馬鹿にしたりしていたものであった。慰安婦の問題などは、敗戦時に軍隊が証拠隠滅のため書類などをすべて焼いてしまっているが、当時の情勢から見れば、当然過酷な状況を強いられたであろうことは容易に想像がつくことである。
日本人がいつまでも原爆被害を忘れてはならないのと同様に、朝鮮の人が植民地時代の悲劇を忘れられないのは当然であろう。法的なやりとりではなく、人道的立場から、日本政府はもっと謙虚であるべきである。
そして今また、アメリカ追随の安倍政府は、庶民の貧困化をもたらして大企業を守り、災害対策より軍備増強を優先し、自衛隊の配備を広げ、大量の武器を買い、憲法まで変えようとしている。若者が自分たちを「捨て駒」と感じるのも不思議ではない。
我々の世代はやがていなくなるが、後に続く世代が、再びあの無残な戦中、戦後の時代を経験することにだけはなって欲しくないと切望するものである。