天皇の写真を焼かされた時代

 今年の「あいちトリエンナーレ」で、慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」とともに、天皇の肖像写真を焼いたとされた作品も問題となり、3日で展示中止となり、何とか再開されたが、河村名古屋市長が再開時にも「陛下への侮辱を許すのか」と書かれたプラカードを掲げて、右翼団体の人と一緒に座り込みをするようなことが起こり、文化庁補助金を不交付にしてしまった。

 日本会議神道連盟の多い安倍内閣の右傾政策の影響もあり、この国では今だに表現の中で天皇を扱うことをタブーとする傾向の強いことに驚かされる。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言われているのに、同じ人間なのに、新聞やテレビまで、今だに皇族というだけで、子供まで一般の「さん」でなく「さま」付けで呼ぶのが普通になっている。

 そんなことだから、天皇の写真が燃やされるというだけで、問題だと言われると同調しやすい人も多いのであろう。

 しかし、燃やす行為が必ずしも侮辱につながるものとは限らない。政治的なことは表現の対象となりやすいし、表現の見方、解釈はそれぞれ人により異なり、写真が燃やされることを取り上げて、一方的に侮辱だということにはならないであろう。同じ表現であってもその解釈はいろいろである。

 天皇の写真によらず、大切なものを燃やす動機も色々である。敗戦直後には大切なもの、具合の悪いものが大量に焼却された。それこそ天皇の写真である御真影だとか、軍旗などを始め、軍の機密書類、毒ガス兵器や俘虜取り扱い、その他の軍の解散によって公にされては困る書類は殆どすべて燃やされた。

 今でも国会などで、文書は廃棄されたとか、黒塗りのまま出されたなどと問題になっているが、その最たるものが焼却であろう。歴史を改ざんしたいので気に入らない本を燃やす焚書も、秦の始皇帝以来繰り返えされていることである。しかし、燃やす目的がそれとはには少し違った場合もある。

  我々が子供の頃、小学校では新聞に天皇始め皇族の人の写真が載ったら、切り抜いて保存しておき、決まった日に学校へ持って行って、そこで集めて、校庭で燃やすことが行われていた。

 何故だったのであろうか?当時の資源の乏しかった時代には、新聞紙は単にニュースを伝えるだけのものでなく、読み終わった古新聞は今のように纏めて捨てられたり、回収されるものではなく、広い用途で利用された貴重な資源であったのである。

 八百屋で大根や野菜を買っても、今のようにビニール袋があるわけではなく、新聞紙に包んで渡してくれたものである。他の商品でも新聞紙は広く包装紙として利用されていたし、適当なな大きさに切って、布巾や雑巾がわりにも用いられた。

 新聞紙で兜を折って、それを被ってチャンバラごっこもしたし、袋や箱も出来た。また、小さく切った新聞紙で、骨の部分を挟んで持って、リブの肉を食べた思い出もあるし、焼き鳥や鶏肉の足を食べるのにも使われた。

 その他にも古新聞はフルに活用され、畳の下にも敷かれたし、襖などの裏打ちに使われることもあった。貧しかった戦後には、大きな新聞紙を皺くちゃにして、シャツとシャツの間に挟むと、綿入れの代わりに暖かくなるとも言われた。

 しかし、そんなことより一番よく使われたのは、生活の必需品である便所紙である。今のようにトイレットペーパーのなかった戦前には、その代わりに、最も安上がりで広く使われていたのが古新聞を切ったペーパーだったのである。

 そこから、天皇の写真を新聞から切り取って燃やすべきだという発想が生まれて来たのである。恐れ多い天皇陛下の写真で尻を拭いてはバチが当たるからということで、天皇の写真は切り取って学校で集め校庭で燃やして、尻を拭くことなどの使われないようにしようとしたのであった。

 それが我々の子供の頃の常識とでも言うものであったのである。時代の変遷は激しいもので今ではもう遠い遠い昔の思い出になってしまったが、天皇の肖像を燃やすといっても色々あることも知っておくと良いであろう。