知人の展覧会を見に天王寺美術館を訪れた序でに、公園の横の茶臼山町、堀越町から少し足を伸ばして、四天王寺を見てから悲田院町のあたりを散策して来た。
戦争中から1960年まで、茶臼山町に住んでいたので、懐かしい所なのである。天王寺公園はかって住友家の屋敷があった所で、そのすぐ横に住友の社宅があり、そこに住んでいたわけである。その一画の突き当たりが我が家で、すぐ向かいが住友病院の院長の社宅、隣りは住友生命に勤めている人の家だった。
この家での思い出は、何と言っても、1945年3月13日の夜の大阪大空襲である。阿部野橋というターミナルから近い、言わば町の真ん中なので、ここらの空襲も激しかった。あの空襲の夜の景色はもう2度と見られないし、見たくもない。
空一面から火が付いた無数の焼夷弾が降って来たのである。まるで一斉に打ち上げられた花火の真下にいるような感じである。空中から火が降ってくるのである。たちまち居並ぶ家屋に火がついてあっちもこっちも燃え始めたのであった。
東隣の家は一時落ちた焼夷弾を消し止めたと言っていたが、結局、焼失してしまい、北側の大きなお寺の伽藍も燃え出したが、どうすることも出来ず、ただ傍観するうちに燃えて崩れ落ちた。そのうちに南の方の家にも火がつき、警防団の人に「火に囲まれるのでに逃げて下さい」と背突かれて、すぐ西の慶沢園の石垣をよじ登って、庭を抜け、美術館の地下へ逃げた。
時々外へ出て、美術館から周囲を見てみると、空が赤く染まり、見える限りあちらもこちらも火の海であった。松屋橋通りから公園に入るあたりにあった武道館もみるみるうちに燃え上がり、焼け落ちてしまった。これでは我が家も焼けてしまっただろうなと思いつつ、朝になって恐る恐る家の様子を見に帰ったら、幸運にも我が家の一画だけがかろうじて焼けずに残っているではないか。
しかし、家の後ろに回ってみると裏の塀は壊されており、そこから見ると我が家の北側は何もなくなり、今まで見たこともない光景。はるか向こうに上本町6丁目の近鉄のビルが見えるではないか。そこまでずっと一面の何もない茶褐色の焼け野が原が続いている。四天王寺の室戸台風で倒れた後に、折角再建された五重塔も燃えて、なくなり僅か6年の命で終わってしまった。
近くの広い通りまで出て、南の方を見ると、8階建ての近鉄百貨店(当時はまだ大鉄と言っていたような気がするが)の建物は残っていたが、骨格はそのままで中はすっかり焼け、どの窓の上にもは黒い煤がついていた。
天王寺界隈だけでなく、大阪の中心部が殆どこの空襲で焼かれてしまい、一夜のことで全く変貌し、見渡す限りの焼け跡になってしまった。焼けて黒ずんだ蔵だけがポツンポツンと見えるだけで、あとは一面の茶褐色の瓦礫や燃え残った立ち木やガラクタの廃墟であった。
戦時なので出来るだけ被害は隠し、小さく発表されるので本当のことはわからないが、あれだけの広さの街が焼かれたのだからかなりな人数の人逹が命を落としたり、傷ついたりしたに違いない。
大阪中が焼き尽くされた感じで、今でも覚えているが、一面の焼け野が原の中を御堂筋だけがまっすぐに伸び、ガスビルと、本町のイトマンのビルだけがぽつんと寂しく残っている光景であった。
当時はそれでもまだ、何も知らない「神国」の少年は「鬼畜米英何者ぞ、天皇陛下のために皇国はまだまだ戦うぞ」と戦意を燃やしていたが、この日本中の都市爆撃で戦の趨勢は決まったようなもので、あとは特攻作戦や最後の決戦、天佑や神風だけが頼りの負け戦で、急速に敗戦に向かわざるを得ない運命だった。
この空襲で焼け野が原になったすぐ後に私は慌ただしく3月末には江田島の海軍兵学校に行ってしまったので、それから後敗戦後しばらく経つまでの大阪の様子はわからない。
父が「お前が海軍に行くようになったらもう日本もおしまいだな」と言った通り、4ヶ月で敗戦となり、復員して秋に家族の疎開先であった赤坂村を経て茶臼山に戻った。
その頃にはもうアメリカの占領軍が美術館や椎寺町あたりにあった焼け残った青年会館だったかを接収して宿舎にしており、ジープに乗ったアメリカ兵があちこちで見られるようになり、パンパンと言われた売春婦などもうろつくようになっていた。
天王寺の駅前から阿部野橋、市大の方へ下るあたりは闇市と化して大勢の人が集まり、傷痍軍人や浮浪児の靴磨きなどが目についた。学校もなく仕事もないし、急激な社会の変化について行けず、虚ろな顔で闇市をうろついたり、食料の買い出しに行ったりしていた。
天王寺駅から四天王寺までの歩道には、お大師さんの日には、経木書きの出店がずらりと並んだりしていたものであった。それこそ食うや食わずの貧しい戦後の生活が続いていた。
もう70年も昔のことで、今では戦争のことさえ知る人は少なくなったが、戦争だけは絶対するべきではないことを今の現役世代の人たちに伝えたい。
その後朝鮮戦争が始まり、米軍の下請け仕事も出来、徐々に復興が進むとともに花火なども打ち上げられるようになってきたが、花火を真下で見ると空襲の夜が思い出されて嫌な感じが長く続いたものであった。
それから早くも70年、いつの間にか経ってしまい、もう戦争のことも戦後の混乱も知らない人が殆どである。天王寺界隈も今では当時とは想像もつかないほど変わってしまった。
近鉄百貨店が増築して大きくなり、アポロビルや都ホテル、ご馳走ビル、天王寺駅ビルなどが整備され、立派な市大病院なども出来たが、それすらいつし変わって、あべのハルカスやQずモールなども出来、もう昔の面影は殆どなくなってしまった。
茶臼山町の我が家のあたりも、いつの間にかラブホテル街に変わり、それも時代とともに大型化し、小さい所は立ち行かなくなったのか、潰れて駐車場になり、古い家を利用した料理屋や宗教団体の建物などに置き替わり、昔の住民も住居も殆ど残っていない。
もうここらの空襲のことや戦後の闇市のことすら知っている人はいなくなり、古い住民でも代替わりで昔のことはわからないであろうが、空襲で焼け野が原になった光景を思い出す毎に、戦争だけはするなよ。庶民は犠牲を強いられ、惨めで辛いだけで、何も得るところはないよと言い伝えたい。