「台湾有事」と言ってなぜ軍備を拡大し戦う準備をしなければならないのか。

 最近の世界の情勢を見ていると、ウクライナの戦争や、ガザでのホロコーストが契機なのか、日本でも「台湾有事」だとか、そのための沖縄の軍事要塞化だとか、敵基地先制攻撃など再び戦前のような空気が広まりつつある。

 しかし、アジアでも実際に戦争を起こさなければならないような矛盾が高まっているのであろうか。どうもわざわざ作られた敵対的態勢に組み込まれている感じがしてならない。アメリカの一極支配が陰り、中国をはじめとするBRICSやアフリカの台頭で世界のバランスが変化し始めてきていることが背景にあることは押さえておかなければならないが、そうかといって今直ちに戦争をしなければならないような切羽詰まった矛盾は考えにくい。

 「台湾有事」がしきりに唱えられるが、日本もアメリカも台湾は中国の一部だということを今も認めているのである。従って、最悪なことを考えて中国が台湾に攻め込んだとしても、日本が危険を犯してまで、それに介入して戦わねばならない必然性は何もない。むしろ平和的な解決を図るべく外交的な努力をするべきであろう。

 中国との間には台湾に近い尖閣諸島の領有権争いがあるが、これは小さな国境問題で、例え話し合いが出来なくとも、そのために国をあげて戦争するようなことは考えられない。現在、中国が日本に攻めてくるような両国間の矛盾もないし、政治的、経済的に日本が中国から圧力を受けていることもない。中国は日本が古くから多くのことを学んできた国でもあるだけでなく、現在も経済的にも最大の貿易相手国でもある。争うより、友好関係を固めた方が日本の将来の発展のためにどれだけ良いかは誰が見ても分かる。

 そんな国が発展してきたからと言って、アメリカが政治的経済的にその発展を抑えようとして軍事的に圧力をかけようとしているのに協力しなければならない必然性は何もない、日本にとって得られるものも何もない。

 日本がアメリカの属国なので、アメリカの圧力に屈してそれに協力しなければならないことは理解出来るが、いざ実際に戦争にでもなった時のことを考えると、日本が最前線に押し出され大きなダメージを受けても、アメリカは不利とあらばいつでも逃げることが出来る立場にあることを考えておくべきであるろう。

 ウクライナの戦争と同様、アメリカは大量の武器を売って大儲けするかも知れないが、日本はその犠牲になって取り返しのつかないダメージを受けることになるであろう。

 日本が中国と戦わなければならない必然性は全くない。アメリカに反対してでも、何処かで今の路線を変えねば、再び悲惨な目に遭うことになるであろうことを知っておくべきであろう。

地域の画廊巡り

 近頃はどこの市や町にも小さなギャラリーや画廊があり、地域のアーティストや美術愛好家たちの発表の場所になったり、友人知人の交流の場所になったりしている。

 私の住んでいる池田市にも、小林一三記念館・逸翁美術館や、カップヌードルミュジーアム池田、市立歴史民俗資料館など比較的有名なものの他、池田市の中央公民館、市民ギャラリーいけだ、ギャルリVEGAなどが池田駅やその周辺にある。

 また隣駅の石橋阪大前駅の近くには画廊ぶらんしゅやGuliGUliの画廊、隣町の川西には駅にギャラリかわにし、駅のすぐ近くには画廊シャノアールというのもある。以前は散歩や用事のついでに、気軽に歩いて訪れていたものであった。

 更には、近隣の伊丹や豊中、少し足を伸ばせば宝塚にも、いくつも美術館やギャラリーがあり、良さそうな催し物があればなるべく訪れるようにしてきた。

 歳をとって足も衰えてくると、もう遠方の美術館などへ行くのは諦めなければならないし、京都や大阪、神戸などの大きな美術館にも、行き帰りの行程を考えると、どうしても足が遠のき勝ちとなる。

 そんな時に、近くのギャラリーは大きな助けとなる。池田駅の周辺のギャラリーには散歩の時にでもいつでも立ち寄れるし、月に一度はギャルリVEGAでクロッキーの会にも行っている。書道や手芸その他の展示のこともあるが、いろいろな絵画の同好会や個展などには、時に興味深い作品を見ることが出来るのも楽しみである。知人の作品が並ぶような時には欠かさず赴いている。

 ただ、GuliGUliの画廊は足場が悪く、レストランの傾斜した庭の庭石を辿って行かねばならないこともあって、レストランを利用した時に一度行った以外には、これまで訪れたことがなかった。ところが先日女房の90歳の誕生日祝いで訪れた時、丁度その日から新しい展示が始まるというので食後にギャラリーも覗いてみることにした。

 松田彰という人の個展であったが、この人は東日本大震災の直後から、思い立って毎日欠かさず18cm四方の紙に白黒のアブストラクトの絵を描き始め、これまでに全部で4千枚以上になるそうだが、それを床や壁に並べて展示されていた。並べてみると、それがまた全体として白黒の面白い表現になっていて思わず引き込まれた。

 バリ島に魅せられて、近年は始終バリ島へ行ってられるそうだが、会話も弾み、「一緒にバリ島へ行きましょうや」という話にもなった。バリ島は同じインドネシアでも、イスラムと違い、ヒンズーの影響が強く、また違った景色や風習があり、話しているうちに興味をそそられ、以前にった旅の印象が蘇った。彼の曰くに「関空へ着いた途端に、同質性の日本人ばかりを見ることになり、がっかりする」と言っていたが、よく分かるような気がした。

 また、階下の部屋では、女性の作家がマダガスカルのラフィアという木の繊維で、日本の蓑に似たものを作っている展示もあったが珍しいので興味が湧いた。

 さらにこの日は、Guli Gulからの帰途、石橋で画廊ぶらんしゅにも寄ってみた。ここでは黒田峰夫という人の彫刻展をやっていた。手足のないルコルビジェに似た細長い人物の彫刻展だったが、天井の高いこの画廊にもぴったりの大きさの展示でびっくりさせられたが、以前にもここで展示をしたことのある作家で、それに合わせて上での展示だったようである。

 ローカルな画廊巡りも、当たり外れは大きいが、時に結構面白い作品や作家に会えるので楽しいものである。

ある蕎麦屋さん

 阪急の池田駅のすぐ近くに小さな蕎麦屋さんがあることは以前から知っていた。駅前から市役所の行くショートカットになる道筋なので、時々その前を通るものの、何処にでもあるような場末の蕎麦屋だと思って、いつも通り過ぎていた。

 ところが昨年ニューヨークに住んでいる上の娘が帰って来た時、亭主と一緒に出掛けて帰ってから、どう見てもその蕎麦屋で蕎麦を食べて来たようで、美味しかったと言っていたが、あんな店でそうかなあと思っただけで忘れてしまっていた。

 それが今度はロスに住んでいた娘が帰ってきており、それをたよりに一人の孫が来たので、桜を見に五月丘公園に行ったが、時間的にもう午後1時半も過ぎてしまっていたので、孫の希望もあり帰途その店に立ち寄った。

 入り口は裏びれた場末の蕎麦屋の感じだが、入って見ると中は客で一杯、席は2階しかないという。どしたものかと思っていると、入り口に近いカウンターに座って、まさに食べ始めようとしていた女性が私の歩行車を見て、自分の親も足が悪いのだからと言って、親切にも席を譲ってくれたので、感謝して四人揃ってカウンター席に並ぶことが出来た。

 店は小さいが、我々が入った後も客は次から次とやって来て、いつも満席のようである。最近はSNSを見てくる人が多いので、そんな関係かも知れない。カウンターの中では、調理人が一人で切り盛りし、従業員の女性三人が調理場や客周りのことを務め、その他に会計も任されているう若い男性が一人いた。

 昼の定食のようなものを注文したが、まずは前菜に何か知らない美味しい和物が出て、次いでお蕎麦は4種類、塩をかけて食べる蕎麦に続いて、桜の花を練り込んだ真白な蕎麦とせいろ蕎麦.、最後が太い噛み出のある蕎麦であった。最後に、これも少し変わったアイスクリームのデザートまでついていた。変わっているだけでなく、なかな美味しく、上の娘の言った意味がわかり、この店を見直した。

 料理人の主人は若い時に、何処かで食べた蕎麦がおいしく、それに惚れてあちこちで修行し、独立した人のようで、孫のカタコト日本語なども挟み、会話も弾んだ。すぐ近くに住みながらこれまで全く無視していたが、上の娘の来訪がきっかけとなり、今回の下の娘と二人目の孫の出現で、思わぬ発見があったことになる。

 もうすぐ入れ替わりで、他の孫たちもやってくるので、またこの店にも寄ってみようと思っている。

 

命に関わる三大奇景

 96歳ともなると、これまでに色々な景色に遭遇してきている。思い出してみると、多くは色々な場面での家族の姿、仕事上で出会した色々な場面、国内、国外の旅行で遭遇した様々な景色など、無数の光景が思い出される。しかし、そんな中で奇景としか言えないような、特別変わった、忘れることの出来ない景色を三つ挙げるとすれば、下記の三つということになるのではなかろうか。 

1)1945年3月13日の大阪大空襲

2)同年8月6日の広島の原爆投下

3)血小板数低下による自らの両脚全体の点状出血

 これらそれぞれについては、すでに書いているので委細は省略するが、先ずは、空襲の時には大阪市内の天王寺駅近くに住んでいたので、見渡す限りの黒い夜空から、一面に火が落ちてくる景色である。無数の焼夷弾が燃えながら、まるで花火のように、光り輝きながら落ちて来たのであった。見上げて、思わず一瞬、綺麗だなと感じたものである。

 それがその後のあの悲惨な街中を燃やし尽くした空襲の始まりであった。最後は周囲を火に囲まれて、濡れた毛布を被って、すぐ隣の天王寺公園の美術館に逃げた夜を忘れることは出来ない。戦後、近隣で花火大会があっても、長らく花火を近くで見ると、この空襲の夜を思い出して、怖くて近くでは見れなかったものである。

 2番目の広島原爆の時は、海軍兵学校の生徒であり、朝の自習時間、丁度8時15分に、突然窓がピカッと光って閃光が走り、何だろうと思ったら、次の瞬間のドンという強烈な響きが起こり教室が揺れる感じがした。何事だろうと思って、皆で校庭に出た時に見たのがあの原子雲であった。雲ひとつない晴れた空に、もくもくと空高く上がって行ったあの原始雲の姿は忘れることが出来ない。

 まさに原爆は”ピカドン”なのである。戦後も長らく夏になって、むくむくと空高く上がっていく入道雲を見ると、つい原爆を思い出してしまうのがどの位い続いたことであろう。

 そういう過去を背負いながら、いつしか96歳まで生きて来しまい、いったい自分の死はどんな形で来るのだろうかと思ったりもしていたら、3番目である。

 ある朝起きて着替えようとしてパジャマを脱いだら、思いもかけず、太腿の付け根から足先まで、両方ともに、びっしりと無数の点状出血斑で覆われていることに驚かされた。小さな点状の出血がまるで満天の赤い星空のように並んでいるではないか。思わず一瞬綺麗だな、何事かと思わずにはおれなかった。

 日が経つとともに、点状出血は次第に色が褪せ、今度はあちこちに、打ち身の跡のような紫色の斑状出血をも伴うようになり、薄汚くなって行った。これは血小板数の低下の印ではないか。それまでの毎年の定期老人検診の最後は昨年10月だったが、ずっと血小板数は正常だったので、自分に血小板の減少が起こるなど考えたこともなかったが、どう見てもそれしか考え難い。

 近くの医師を受診して調べてもらったら、やはり血小板数が千台しかなく、医師の方がびっくりして電話で連絡があり、再検してもやはり同じで低値で、早速に最寄りの病院への紹介、入院となった次第である。

 これも本当に突然出現した、一瞬何とも言えない美しい不安な光景であった。恐らく生涯忘れることは出来ない奇景であろう。

平和国家が武器を造り輸出する

 まずは日本国憲法(1946年公布、1947年5月3日施行)をみてみよう。国民主権、平和主義、基本的人権尊重を柱とするもので、その平和主義の基本となるのが第九条である。

日本国憲法第9条:

第一項:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第二項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 これが日本国の国際関係における武力や交戦権の基本となる法的な決まりで、国が守らなければならない決まりであるり、今もそのまま生きているのである。

 ところが現実はどうであろう。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されているのに、

2014.7.2  

 私には法の解釈の詳細は分からないが、憲法の99条には「憲法尊重擁護の義務」として「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とも書かれている。

 それを踏まえるなら、常識から考えて、どう屁理屈をこねても、明らかな軍隊を持ち、先制攻撃も辞さず、武器を増強し、それを外国にまで輸出するということが、憲法に違反しないと言えるのであろうか。国務大臣も国会議員も憲法を擁護する義務を守っていると言えるのだろうか。

 常識から見れば、この現実と国民と政府の約束である憲法の矛盾はあまりにも大きく、誰が見てもおかしいと思うのではなかろうかか。それにもかかわらず、国民が政府の屁理屈を受け入れて、ここまで来てしまったのはなぜだろうか。

 今では、憲法の方を変えてまで、軍備増強、敵基地への先制攻撃を可能にしようと企みが進んでいるようだが、平和憲法のままで、平和に暮らす方が国民にとって遥かに良い方法で、何も軍備を増強しなければならに必然性はないのではないか。

 軽視されている周辺国との外交にもっと力を入れて、日中親善をはじめ、アジアの平和的発展に貢献することは十分可能であり、それこそ平和憲法の趣旨にも沿うことであり、国民の平和な生活を保障するものではなかろうか。憲法は平和をうたい、国民も平和を望んでいる。何もアメリカの尖兵となって軍備増強などする必要はない。

 平和憲法を持った国が大量殺戮の武器を作り、それを外国にまで輸出して儲けようとするなど許されざる憲法違反ではないか。いくらアメリカから言われたからとしても、世界情勢が変化して軍備増強が必要なのだと言っても、折角これまで国民の平和な生活を守ってきてくれた平和憲法を蔑ろにすることは許されるべきではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやって死ぬのが良いか

 突然ブログを中断してしまい、読者の方々には申し訳ありませんでした。

実は3月27日に以下の文を載せようと準備していたのですが、26日に近医の紹介状を持って病院を受診したところ、即刻、入院加療ということになってしまったのでした。病名は特発性血小板減少性紫斑病ということです。

 まさかこの年になって、こんな病気など考えてもいませんでしたが、診断はその通りだと思います。難病に指定されているぐらい原因不明で、治療困難な病気です。

 でも心配は無用。誰しもいつまでも生きれるわけではありません。例外なく、何かで、いつかは必ず死ぬものです。これで死ぬ過程が分かってきたようなものです。

 医師にも頼んで、医療よりも、残りの人生を楽しむために、一応の治療を受けて、5日間の入院で退院させて貰った次第です。

 今も入院前と変わらず、主観的には元気ですのでご安心下さい。またブログも続けさせていただきますので、よろしくお願いします。

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 人間誰しもいつかはこの世におさらばすることになる。96歳にもなるともうどう考えても残り時間は少ないと考えなければならないであろう。

 これまで87歳で軽い心筋梗塞にはなったが、その他は病気らしい病気もしたことがない。病気で医者にかかったこともない。ビオフェルミン以外に常用している薬もない。

 目が悪い、耳が聞こえない、脚がだるい、尿の出が悪い、その他ケチをつければ、いくらでも出てくるだろうが、大きなところではあまり問題がなく、食欲もあるし、よく眠れている。

 ほとんど毎日、腕立て伏せに始まるストレッチ運動やラジオ体操は欠かさない。晴れた日は略かかさず近くを散歩したりもしている。読書やパソコンなども欠かすことはない。自分なりのブログも続けている。

 それでも体は毎日、毎年、確実に老いていくし、今の生活がいつまでも続いていくものでないことも確かである。いつまで続くのか、どういう終わり方をするのか手掛かりになるものも掴めない。自分でも分からなかった。

 ところが最近ようやくその手掛かりになる変化を見出すことが出来るようになった。昨年12月にトライウオーカーなるもので散歩の途中で転倒したのが始まりである。歩道を横切る溝の蓋の隙間にトライウオーカーの前輪が嵌頓し、軽い下り坂で、信号を渡るべく少し急いでいたこともあり、体全体がウオーカーに被さるように前方に転倒し、両大腿をフレームで打つことになったのであった。

 ただその場は、そのほかには何もなく無事に家へ帰り、2〜3日は安静にしていたが、どこにも外傷もなく、両太腿の腫れや痛みも軽く、また従来通りトライウオーカーで外出を繰り返していた。

 ところが正月過ぎに両大腿に打ち身の時の後に出てくるような大きな紫斑が出現、それが消えたと思ったら、ある朝、突然に両大腿の付け根から足の先まで小点状の出血班が出現し、それに続いて、あちこちの皮膚に打ち身もしないのに、小さな斑状紫斑が出没するようになり、時に起床時に口腔内にも出血したのか、鉄錆色の分泌物が見られるようになった。

 ただし、それもひどいものではなく次第に消えていくような感じで、大腿の点状出血斑も少しづつ変化し新たなも出現は見られない。体全体の様子も変わらないし、皮下出血などの様子から血小板減少だろうと考え、しばらく様子をみようと考えた。

 ところが次第に脚が重く、トライウオーカーで歩くスピードが遅くなり、ふくらはぎなどに身が入ったような感じがして、疲れ易く、階段を2階まで上がるだけでも、足の疲れを感じるようになってきた。

 そこで馴染みの近医で検査をして貰うことにした。以前から老人の定期検診では血小板数は正常であったが、少しづつ貧血傾向が進んでいたのを腎機能の低下のためと思っていたが、血小板減少を考えると、老人によくある骨髄異形成症候群で、そのために貧血も進んでいると考えた方が良さそうである。

 採血を済ませ、そのうちに検査結果を聞けばと思っていたが、翌日朝その医師から電話があり血小板が2千しかないということで再検、やはり少ないので、病院紹介ということになった。

 体の全体的な様子は必ずしも悪くなく、普通の生活ができているが、一度病院へ行って血小板輸血でもしてもらって様子を見た方が良いのではないかと思うようになった。

 

緊急時の情報弱者

 最近点状出血斑が急に両下肢に出現し、腕や体幹などのあちこちに小さな皮下出血の紫斑が見られるようになり、朝起きた時に唾を吐くと鉄錆色をしていたりすることがあり。これは血小板の低下が原因ではなかろうかと思い、検査をしてもらおうと近くの医院へ行った時のことである。

 待合室には既に5〜6人の先客がいたので椅子に座って待っていた。待合室にはテレビがあり、見ている人もいたが、音を落としているので、耳の悪い老人には何を言っているのか解らない。そこで持ってきた新書版の本を広げて読み始めたが、それも環境が薄暗くて読み難いので、半ば諦めて本を見たり、周りを見たり、ぼんやりしていた。

 するとやがて一人の座っていた人が立ち上がってテレビを見始めた。何の番組かなと思ううちに、すぐに他の人もテレビの近づいて見始めるではないか。何事だろうかと思ってよく見ると、それが先日東京で震度五だったかの地震を知らせる緊急放送であった。

 こちらは本を読むために老眼鏡をかけていたので、そのままではテレビの映像はボケてわからない。耳が遠いから音もはっきりとは聞こえない。かろうじて周りの人の動きで異変に気がついたのであった。眼鏡を外し、立ち上がってテレビの近くへ行ってやっと緊急放送が始まっていることを知り、その内容を理解したのであった。

 これまで気がついたことがなかったが、目や耳が悪いと、こういう緊急事態の時に、情報が一回り遅くしか伝わらないものだなあとつくづく感じた。

 若い人でも目や耳の悪い人、身体障害があったり、人とのつながりが悪い人などは、平時は何とか過ごせても、何か急な変化に見舞われたような時には、どうしても情報が遅れてしか伝わらず、難儀をすることになり易いのだなあということをつくづく感じさせられた次第であった。