ポケモンスリープ(ポケスリ)

 SNSを見ていたら、OECD経済協力開発機構)の調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間22分で、33カ国中最も短いという結果だったとなっていた。日本人は睡眠時間まで削って熱心に働いている表れかと思ったら、米シンクタンクの試算では、睡眠不足による日本の経済損失は年間約15兆円にも上ることになるそうである。

 睡眠不足で仕事の効率は上がらず、過労で健康を損ない、長時間労働は返って経済損失につながるということであろう。

 そう思いながら読んでいくと、その記事はどうも株式会社ポケモン(東京都港区、代表取締役社⻑:石原恒和)の広告のようなものらしい。世界累計1000万ダウンロードを達成したスマホ向け睡眠ゲームアプリ「Pokemon Sleep(ポケモンスリープ)」なるものがあるようである。

 これの世界7カ国のユーザー10万人以上を対象とした国別平均睡眠時間のデータでも、プレイ初期7日間の睡眠時間は日本では平均5時間52分で、これも最下位という結果だったようである。

 世界の平均睡眠時間*と比べて36分睡眠時間が少なく、ここでも日本は他国に比べ睡眠時間が短いということが分かった。しかし、3カ月以上アプリをプレイした日本のユーザーのユーザーデータを算出すると、プレイ開始時と比較し、1カ月プレイすると平均睡眠時間が約30分、3カ月以上プレイすると約1時間10分長くなったという。

 驚きの結果に、『Pokémon Sleep』の監修にも携わった睡眠学の世界的権威、柳沢先生も「『ゲームは睡眠を妨げる』という社会認識を覆すもの」だとコメントし、「日本人もやれば出来るんだ」と驚く結果となったそうである。

 日本のユーザーに対しアンケートを実施したところ、3カ月以上プレイしているユーザーの約83%が朝起きるのが楽しみになったと回答し、約88%は睡眠習慣の改善を実感したと回答したそうである。

 このポケスリのようなものはおそらく若い人向きであろうが、不眠に悩む高齢者が多いことを考えると、興味のあるお年寄りも試してみられると良いかも知れない。不眠解消とともに、若返るかも知ません。

 

人も町も変わってしまった

 ずっと日本に住んでいるので日々出会う人々は殆どが日本人である。ことに近隣で出会う人たちはいつも変わらぬ同じような人達だと思ってたが、ふと気がついてみると、いつの間にか今の日本人は昔の日本人とはすっかり変わってしまっているのに気がつく。

 つい昨日も家から出て散歩に行こうとすると、向こうから夫婦が揃ってジョギングして走ってくるのに出くわした。はて今日は休日だったかなと思ったが、まだ金曜日である。それから買い物などをして帰ってこようとすると、また別の揃いの黒装束をしたジョギング中のカプルに出くわした。

 まだ冬なのに平日にジョギングしている夫婦を二組も見るとは驚きであったが、気がついたのは、二組とも男の方がやたら背が高いことであった。もともと日本人は背が低い人が多く、身長160センチの私でも極端に低い方ではなかった。昔なら電車の中で見ていて、ドアに頭がつかえるような人を見ると「へー高いなあ」と驚いたものであったが、最近はそんな男性はいくらでもいるし、女性でもつかえんばかりの人さえ多くなっている。

 それに、昔なら夫婦で一緒にジョギングしている人など先ず見なかったが、最近は週末に川辺の遊歩道に行くと、必ずと言って良いぐらい誰かが走っているし、カプルも混ざっている。さらには遊歩道を走るサイクリングも多い。グループを組むなり単独で次から次へとと走っていく。橋の近くの狭い部分の道など歩いていると、猛烈なスピードで迫ってくる自転車に危険を感じることさえある。

 しかも、ジョギングにしてもサイクリングにしても、今はそれなりに専用の服装をしなければいけないかのように外見を整えるのが特徴で、普通の普段着のままでは、走ったりサイクリンしてはいけないような雰囲気である。それにあちこちにスポーツセンターができて、機械で体を動かしている人も多い。

 これらは比較的若い人達のことであるが、今度は住宅街に入ってみると、そこはもうすっかり老人の街と言っても良い。ショッピングカートやシルバーカーを押して歩いている人が続いているかと思えば、その後から杖をついた老人が行く。その後を今度は歩行車が続き、さらにその後を腰の曲がった老婆が両手に買い物を入れた袋をぶら下げて、ヨボヨボと歩いているといった感じである。

 また、犬の散歩をしている人も増え、犬友達ができて路上で話し込んでる人もいれば、ペットの子犬を赤ん坊のように大事に抱えている。乳母車に乗せた犬を推している人もいる。幼児の施設外活動で保育員に付き添われた幼児の列に出くわすこともあるが、少子化のためか、園児や学童を見かけることは少ない。

 この街の人口は今はまだ保たれてはいるようだが、少子高齢化ですっかり老人の街になってしまい、働き盛りの人たちが仕事に出たしまった後は、子供の声も聞こえず、静まり返っている。そんな街で出会う人々もいつの間にか昔とはすっかり変わってしまっている。

 人々の行動パターンも昔とは違っているし、背格好や顔立ちまでが、もう昔の日本人からは大分ずれてきている。もう戦後も長くなるので、今では老人までが背の高い人が増え、太った人も多くなっている。顔貌も昔の日本人に多かった鼻ぺちゃで、平べったい”おかめ顔”の人が減り、鼻が高くて彫りの深い顔立ちの人たちが優勢になってきている。

 時代劇をみる時などは、演じる俳優などの人物像などは、少し割引いて昔の人物像を想像した方が良いのかも知れない。

 

あまりにも情けない日本政府

 昨2023年11月29日に米軍横田基地所属の米空軍CV22オスプレイ屋久島沖で墜落し、搭乗していた8人全員が死亡した。

 その後米軍は23年12月6日に世界中に配備する全てのオスプレイの飛行を停止し、事故原因を調査していたが、今月8日、特定の部品の不具合が原因だったとして、安全対策を列挙し、運用停止措置を解除した。ただし、部品の名称などは明らかにしていない。

 日本国内での飛行再開については、日米両政府間で「引き続き緊密に調整する」としていたが、防衛省はその後、沖縄県や東京都など41自治体・関連団体に事故原因や安全対策について説明したということで、14日には沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場で午前中から、米海兵隊MV22オスプレイが次々と滑走路を離陸したようである。

 木原稔防衛相は15日の記者会見で、米軍のオスプレイの、那覇市の市街地上空の飛行の再開について「運用能力を回復するための一連の段階的かつ慎重なプロセスの一環として基本的な飛行を行ったもの」との認識を示し、容認する考えを示すとともに,自衛隊オスプレイの再開をも許可した。

 那覇市上空は、航空管制上の出発・進入経路が設定されており、木原氏は「従来、普天間飛行場周辺で設定されているルートを飛行した」と説明。「米軍オスプレイが今後求められる任務に対応するため、基本的な技能の練度を回復した上で、順次基本的な任務やより高度な訓練を経ていく」と述べたそうである。

 屋久島沖を含め、これまでのオスプレイ事故による死者は65人になる由である。ただし、「10万飛行時間あたりのオスプレイの事故率は1.93%と海兵隊の全航空機の2.45%を下回っているし、フィリピン航空2.47%、大韓航空2.58%など民間航空機より低率だともいう。

 しかし、世界中で飛行を3ヶ月も停止しなければならなかった措置から見ても重大事故だったことがわかる。事故原因の究明もないままの運用再開は、米軍の兵士の命の軽視もあるが、

日本にとっても、幅広い住民の安全に関わることであり、再会には十分な理解が求められるものである。それを詳しい原因を伏せたまま、米軍から言われるままに飛行再開を容認する日本政府の態度はあまりにも情けない。

 沖縄県の玉城知事は「(飛行再開は)到底納得することはできず、認めることはできない」としているのは当然であろうし、事故のあった鹿児島県の塩田康一知事も13日夜、「防衛省からの説明は事故原因、安全対策について、県民が理解するのに十分な、分かりやすい情報提供ではなかった」とするコメントを出している。

 国民の安全を保障する根拠もないままに、アメリカに言われるままに、ただ、容認し、追随していくだけでは、政府はあまりも国民に対して無責任ではなかろうか。国民の生命を守るのが政府の基本的な使命である。日米安保条約地位協定の制約があるにしろ、米軍のいかなる都合があるにせよ、少なくとも日本政府は事故の詳細や処置の詳細を知り、国民に説明した上で飛行再会を了承すべきではなかろうか。

 アメリカに言われるままに、ただ黙々とそれに追随するだけしか能がないのは、あまりにも情けない。日本政府こそ沖縄県に同調すべきでであろう。アメリカの植民地、属国、従属国から抜け出す方法はないのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漫画家鳥山明氏の死

 先日メディア一斉に鳥山明氏の死を報じた。まだ68歳で急性硬膜外血腫による突然の死亡だったということである。

 その名を見て一体どういう人だろうか分からなかった。説明に「ドラゴンボール」の漫画で一世を風靡したとあったので、「ドラゴンボール」という名は聞いたことがあり、漫画かアニメでかなり有名な人だったのであろうことが分かった。どうも世間ではあまりにも有名な漫画家ようである。

 私も漫画は子供の頃から親しんできた方で、「のらくろ」や「タンクタンクロウ」、「冒険ダン吉」などの漫画を読んだし、手塚治虫は中学校のクラスメートだったので、戦争中から自作の漫画を見せてもらったりしていた。戦後も手塚や長谷川町子、赤塚不二雄その他の漫画は結構見ていた方であった。

 それでも鳥山明と言われても分からなかった。「ドラゴンボール」と聞いてそんな漫画もあったなあと思い出したが、名前だけで実際に見たことはなかった。「ドラゴンボール」の他にもいろいろな作品を描いて随分有名な漫画家だったらしいが、私は何も知らず、死亡広告で初めて名前を知り、驚かされたことになったわけである。そんな有名な人が同じ社会にいて、死亡の知らせで初めて知ったことはショックであった。

 いつしか、もうこういう時代になってしまったのだなと思わざるを得なかった。これまで私が親しんできた名前の人たちは、いつしかもう殆ど死んでしまっていて、近頃新聞やメディアを賑わせている人たちは、いつの間にかもう私より若い人たちばかりになってしまっているのである。

 かって自民党菅首相が沖縄へ行って「私は戦後生まれなので、沖縄戦のことは知らない」と言ったのを聞いて、もう日本の政治家には戦争の記憶もないし、戦後のアメリカ支配のこの国しか知らないのだなと思ったものだったが、いつの間にか時が流れ、戦争も戦後の生活も、高度成長の時代さえ知らない若者までが増えていることを思わざるを得なかった。

 同じ日本人だと思っていても、何となく同じような世間が続いている積もりでいても、実はいつしか人はどんどん入れ替わり、今実際に出くわしている人々はもう皆新しい時代の日本人であり。もう戦争を知っているような人はわずかに生き残っているだけで、その人たちもやがていなくなってしまうであろう。

 一世を風靡した漫画家が私よりずっと後で生まれ、この世で活躍し、皆に惜しまれながら、私よりも先に、まだ68歳だかで急に亡くなってしまったということである。自分が年をとったことを自覚させられたとともに、時代の変遷を強く感じさせられた次第であった。

元横綱白鵬を助けよう!

 新聞報道だけだから詳しいことはどこまで当たっているかわからないが、相撲界では時々不祥事が起こっている。大相撲の取り組みや勝敗についてでなく、それを運営する相撲協会に関するものである。どうも未だに尾をひく部屋制度やその上に立つ大元の相撲協会という時代遅れの閉鎖社会に問題があるように思えてならない。

 一頃もてはやされたハワイ勢が姿を消してからもう長くなるが、その後一人もハワイ勢がいなくなった経緯もわからないし、一時もてはやされた貴乃花も、横綱をやめてから相撲界の改革を唱えながら、相撲界から完全に締め出されてしまい、一族郎党全て姿を消してしまったという歴史があるところに、今度の白鵬の事件である。

 元白鵬宮城野親方が育てた弟子の元幕内の北青鵬の暴力問題で、管理責任を問われ、相撲協会の臨時理事会で「委員」から階級の最も低い「年寄」への2階級降格と3ヶ月の20%報酬減額の処分を受けたと報じられている。部屋の運営を担う師匠の立場も追放され、同一門の親方衆が協議したが、部屋を現場のまま存続させるのは難しいことになったようで、所属力士らは伊勢ヶ濱一門に転籍させれるようである。

 宮城野親方(元白鵬)が暴力を知りながら加害者に注意せず、協会への報告をおこたった点が問題とされたということらしいが、若い体を張った力士が集う所であるから、これまでも時々暴力事件は問題になって来ており、果たしてそれらの過去の事例と照らし合わせて妥当な処分であったのであろうか。

 というのも、近代の相撲の歴史を見て、現役時代の白鵬ほど日本の相撲界に貢献した力士はいなかったからであり、彼を中心としたモンゴル力士たちによって大相撲は生き続け発展し、今日の隆盛を迎えることが出来たのである。その不出世の元横綱を遇する仕方として果たして妥当であろうか。「恩を仇で返す」と日本人の倫理観まで疑われそうである。

 元貴乃花相撲協会の改革への意欲を、パワハラとしか取れない嫌がらせで潰し、相撲界から追い出した協会の歴史を見れば、今回の元白鵬に対する処分も何か陰湿ないじめのようなものが背景にあるのではないかとの疑いを払い得ない。

 処分された事件も相撲界ではこれまでもいくらもあったことで、とりわけ悪質とも言えない事件のようである。白鵬のモンゴル育ちのための文化の違いや、それによる判断のずれなども考慮すれば、相撲協会の判断はどう見ても正当化され難いのではなかろうか。

 どこまで当たっているかはわからないが、あまりにも厳しい協会の処分は、勘繰れば現役時代のあまりにも大きかった人気に対する反感や妬みなどが含まれたものではないかと疑われるし、モンゴル人に対する偏見なども関係しているのかも知れない。

 罪状と処分の酷さとこれまでの功績とを考え合わせる時、どうしても閉鎖された社会である相撲教会の側に大きな問題があるように疑われてならない。社会的には、この処分によってむしろ協会の閉鎖性、保守性が問われるのではなかろうか。第三者による冷静な判断を仰ぎ、相撲界を救ってくれた恩人に対する今回の処分が本当の妥当なものであったかどうか判断されんことを切に望む。

 大相撲のあり方についても問題になりながらずるずるとそのまま現在まで来てしまっているが、神事なのか、色町に結びついた遊興の世界なのか、それともスポーツなのか、何が一番中心なのかをいつかははっきりさせなければ、他のスポーツのような世界的なスポーツとはなり得ない。

 ここらで相撲協会の閉鎖的な権威主義を廃し、もっとオープンな組織に変えていかなければ大相撲の将来が危ぶまれる。そろそろ八角親方にも退場願って、もっとオープンで民主的なスポーツ世界として改組し、神事や遊興は付け足しと割り切ることが必要bなのではなかろうか。

消えない大阪大空襲の記憶

 また3月11日がやってきた。東日本大震災からもう13年も経つが、今でもTVで見た津波が押し寄せて来て、見る間に家々が飲み込まれて流されて行き、先に山の上に逃れた人たちが後から登ってくる人たちに「早く!早く!」と声をかけている姿。原子炉の上からヘリコプターが水をかける映像、原子炉が爆発して白い煙が舞い上がる姿などが、つい先日のことのように思い出される。

 それに、今年は元日の夕方から能登半島地震、テレビをつけたら突然「逃げてください!逃げてください!」と叫んでいるではないか。それに夕方になると、今度は羽田空港の旅客機の火事の映像が続き、輪島の火事も間に挟まれ、おとそ気分も一気に吹き飛んでしまったのであった。

 以来テレビは能登半島地震のことばかり、嫌でも地震のことばかりが気になるが、それとともに3月になると、私にとっては今でも思い出されるのが、1945年3月13日に深夜から14日未明にかけての大阪大空襲である。

 これについては、すでにあちこちで書いているので、ここでは詳しいことは全て省略するが、見渡す限りの空の端から端まで、まるで花火のように火の玉が降って来たこと、みるみるうちにあちからもこちからも火の手が上がり、どうすることも出来ず、一方的に火を浴びるだけで、天王寺公園の美術館に逃げたこと、朝が明けると、そこらはもう見渡す限りの焼け野が原で、あべのハルカスの所にあった大鉄百貨店も丸焼け、見渡す限りの焼け跡で、阿倍野橋から上六のデパートの鉄筋建てまで何もなくなってしまって、すぐそこに見えたことなどを今だに鮮明に覚えている。どれだけの人たちが亡くなったか知る由もなかった。

 その後4月の初めには海軍兵学校に入学するも4ヶ月で敗戦。それから長い惨めな戦後の生活が始まったのである。思い出は必然的に繋がっていく。もう今では空襲を生き延びた人も少なくなり。戦後の惨めな生活さえ知らない人が多くなってしまっているが、以来79年経ってもいまだにアメリカの属国から脱し得ないのはどう考えても情けない。

 

 

映画「フィラデルフィア」

 先日たまたま家のTVで表題の映画を見た。1993年のアメリカ映画で、トム・ハンクス主演でアカデミー賞などももらっている作品らしいが、エイズとゲイにまつわる偏見を法廷で覆していく物語である。 

 これは1987年に大手の法律事務所にいた弁護士が、彼のエイズ発症に気づいた雇用者から解雇され、法律事務所を訴えた裁判で死亡する直前に勝訴したという実話の基づいたものらしい。

 当時はまだエイズはゲイの間で多い病気で、まだ詳細がわかっておらず、治療法もなく、感染経路も不確かで、罹ればば死に至るのが必須の病気として恐れられ、単に接触するだけでも感染するのではないかと、ゲイに対する偏見とも結びついて、エイズが社会的に問題とされていた時代であった。

 それでトムハンクス演ずる弁護士を雇った大手の法律事務所では、彼にエイズの兆候を見て接触によるエイズの感染を恐れ、トムをなんとか処分しようとしたが、ゲイやエイズで馘にすることは出来ないので、ハンクスの作った報告書を隠したりして、仕事の邪魔をし、仕事の能力を口実に解雇したのであった。

 思わぬ処置に、真の理由を怪しんだハンクスは、事務所を訴えるべく、色々な弁護士にあたるが、なかなか誰も引き受けてくれないので、自分で訴訟に踏み切ろうと色々調べる。

 最終的に頼まれて断った黒人の弁護士は同性愛者を嫌悪していたが、医師に通常の接触では感染しないことを確かめ、たまたま図書館で色々調べているハンクスに出会い、自分にまで向けられる周囲のエイズに関しての偏見の強さを知り、ハンクスの調べていた書類などをも見て、事件の受任を決意する。

 以下は法廷でのやり取りとなる訳であるが、そこでもエイズに対する偏見が露わになったりして、最終的には陪審員の評決で勝訴する。ただし、法廷で倒れ、裁判のすぐ後で自宅で息を引き取るという筋書きになっている。

 法廷劇の部分が多く地味な映画とも言えるが、場所がフィラデルフィアで、裁判に象徴的とも言えるシティホールのウイリアム・ベンの像が出てくるし、バックグラウンドの音楽もなかなか良い映画であった。

 今ではエイズに対する理解も進み、治療法も確立して事情はすっかり変化したであろうが、人々の未知なものに対する不安や恐怖などが容易に偏見にも結びつくことを歴史が教えてくれた出来事であったと言えよう。