大阪城の観梅会

 私が卒業した大阪の北野中学、現北野高校の同窓会が寄付して出来た大阪城の梅林ということもあって、毎年二月の末に同窓会が主催して観梅会なるものを開いてきていた。大阪城の梅林に集まり梅の花を見て、後、近くのホテルで会食をするというものである。

 若い頃はあまり関心もなく、出席したこともなかったが、歳をとってから、同級生のクラス会も高齢で打ち止めになり、残った親しい友人たちだけの集まりが続いていたが、その仲間たちと一緒に集まれる機会の一つとして、いつ頃からかこの観梅会にも出席するようになった。

 初めのうちは、まだ私たちより上のクラスの人の出席も結構あったが、年と共に座席が競り上がり、長らく健在で毎年挨拶なされていた9年上の先輩もいつしか去られ、一年上のクラスの方が我々のクラスより出席者が多いと思った年があったと思ったら、もう次の年はそのクラスの出席者は二人だけになるなどと、どんどん変わり、我々のクラスが最上席に座ることとなってしまった。

 そして、2020年からはコロナの流行で、観梅会自体が開けなくなってしまった。それから3年。今年から復活して、2月22日にするとの通知が届いたので、久し振りのことなので、行ってみようとすぐに出席の返事を出した。ところが考えて見ると、もう一緒に出席する友人がいなくなってしまっているではないか。

 最後の時には、まだ同級生五人で出席したものであったが、この3年の間に一人は死に、一人は心筋梗塞を起こしその後認知症もあるらしい。一人は京都在住で遠いし音沙汰がない。残りの一人だけが元気そうだが、遠方なので、電話で出席するかどうか確かめたら、運悪くドイツ在住の娘さんが丁度帰ってくるので出席ないという。

 そうすれば、出席しても私一人ということになる。今年はお城での観梅は中止で、ホテルでの集まりだけだという。出席すれば最高齢者なので挨拶ぐらいさせられるのはよいとしても、その後、知らない人ばかりの間で、皆が盛り上がっているのに、ひとりだけで食事をしてポツンとしているのはいかにも耐え難いではないか。

 もし、出席して挨拶でもさせられるなら、今年卒業する後輩たちが、コロナのために、高校の初めから終わりまでを通して、授業もままならず、課外活動も出來ず、折角の高校生活を満喫出来なかったであろうことに同情の念を禁じ得ないことを告げるとともに、北野の140年近い歴史の中で過去にもう一度ひどい学生生活を送らされた我々五十九期生のいたことを思い出して貰おうと思った。

 我々のクラスは日米戦争の始まった1941年に中学校に入学、1年、2年は良かったが、3年になると貯水槽堀りなどの勤労動員に駆り出されるようになり、4年になると、授業がなくなり、勤労動員で一日中工場で働くこととなり、果ては3月の空襲にあい、このクラスだけ4年で卒業させられてしまったのである。

 今で言えば、中学3年で終わり、高校を飛ばして大学へいったようなもの。その負の影響は後々まで続いたものであった。そのようなことを思い出すだけでも、決して戦争を忘れずに、戦争にはあくまでも反対して欲しい。

 機会があれば、そのようなことを訴えるべきかとも思ったが、盛り上がった雰囲気の中での孤独を考えると、結局は一人での出席を断るしかなかった。 

私にとっての日の丸、君が代

 私にとって君が代や日の丸は過去の嫌な思い出と固く結びついてしまっている。そのため、未だにオリンピックやスポーツの大会などで、日の丸が振られても、どうしても今の若い人たちのように、無心に振ったり出来ない。テレビの朝の始まりにも日の丸が出るが、目を背けている。いつ見ても、戦時中まで見られた各戸に掲げられた日の丸や、式典などで翩翻と翻る日の丸を見ると、戦争にまつわる嫌な思い出が蘇ってくる。

 君が代も、相撲の優勝力士の表彰式式などで、テレビで流される時には、聞きたくないので、自然とスイッチを切ってしばらく待つことになり易い。現役時代にも国立病院だったので、式典で君が代の斉唱がされることがあったが、嫌な思い出を振り払いながら、黙って立っているだけであった。

 軍国少年であった私は日の丸、君が代の中で育ち、どれだけ君が代を歌い、日の丸を振ったことであろう。本当に”天皇陛下”のため”神国日本”のため死ぬつもりでいたのだから、敗戦によるショックは大きかった。やがて広い世界を知るとともに、それまでの人生を全否定するしか生きていく道はなかった。価値観の180度の転換、天皇制や大政翼賛会政治、軍国主義侵略戦争皇国史観などの全面否定、裏切られたことへの嫌悪の上に、やっと新しい人生を開いていくことがで出来たのであった。

 当然敗戦までの象徴であった君が代や日の丸は嫌な思い出に繋がり、見るのも聞くのも避けてきた。戦後アメリカの占領下では国歌も国旗も禁止されており、その後も戦時の記憶につながるので、それらの使用は敬遠されていた。ところがその後の国の復興とともに、右翼の方から日の丸、君が代の復活の声が強くなり、私と同じような受け取り方をする人の多い中、学校の式典などでの教師に対する政府からの君が代、日の丸に対する強制などが問題を起こしながらも、政府は1999年8月衆議院で国旗は日章旗、国歌は君が代と強引に決めてしまった。

 私にしてみれば君が代は時代遅れだし、現実と乖離している。国歌や国旗はもう少し新しいものに変えたほうが良かったのにと今でも思っている。ただし、国民が選んだものであれば何でも構わない。

 昔の修身の本には、“「君が代」は日本の、国歌です、我が国の祝日やその他のおめでたい日の儀式には、国民は、「君が代」を歌って、天皇陛下の御代萬歳をお祝ひ申し上げます。 「君が代」の歌は、「我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も萬年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄になるように」といふ意味で、まことにおめでたい歌であります。“と書かれていたのです。君は当然天皇をさしていたのである。

 それが1999年の日本政府の公式見解では、「日本国憲法下で、『君が代』とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国および日本国民統合の象徴する我が国のこととなる。歌詞の意味は、我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当である。」とされている。

 戦後もはや77年も経ち、今の多くの人達は最早戦争のことを知らない、国民が受け容れる国家や国旗に反対する気持ちは更にない。しかし、私にとっては忌まわしい歴史と結びついた君が代や日の丸を受け容れることは未だに生理的にも不可能である。 

 個人として、未だにその印象が消えないのはどうしようもない。

希望的観測ー政府の出生率予測

 戦前、まだ私が子供の頃に小学校で教えられたのは、日本では、毎年およそ二百万人の子供が生まれ、百万人の人が死んで、結果として、一年におよそ百万の人口が増加しているのだということであった。その頃の日本の人口は1億と言われていたが、朝鮮半島の人口を含めたもので、本州の人口は7千万人とされていた。

 それが戦後のベイビーブーマーの時代を経て1億3千万近くまでになったが、その後は人口が減り始め、今や少子高齢化の時代が続き、今では年間の全出生率が、上記の昔の年間の人口増加分より少ない80万を割るような所まで落ち込み、人口の減少が止まらない。

 周囲を見渡しても、老人ばかりが目につくし、若者を見ても、昔とは違い、男女ともに何歳になっても結婚しない独り者が多い。これでは人口が減るのが当然だろうと思わないではおれない。政府も少子化対策に力を入れはじめているようだが、そんな状況の中で、上の政府の出生率予測のグラフを見て興味を引かれた。

 国の人口問題研究所から出されたものらしいが、1970年以来、出生率が減って来ている様子がわかる。ここで面白いのはその減り方よりも、青線で引かれた各年代の将来予測の線である。いずれも、その時点、時点で、何らかの根拠に基づいて描かれた推計の線であろうが、いつも希望的観測が描かれており、それがいつも見事に外れていることである。

 1976年の時には、まだこの人口減少は一時的なもので、すぐに回復するだろうと思われていたのであろうが、現実は回復する兆しもなく、その後もどんどん下降して行っている。それでも回復の希望を捨てきれず、繰り返し繰り返し、予測の青線が右肩上がりに描かれているが、いつも現実に裏切られてきたことである。

 出生率曲線はその後もどんどん下降の一途である。それにともなって、青い推計線の方も急峻な回復線が次第に勢いがなくなって行き、推測カーブまでが緩やかな上昇に過ぎなくなっていっているのが興味深い。それにしても、これだけ何回も同じことを繰り返しながら、何故に、何処までも予測線を上向きに引かざるを得なかったのだろうか。

 戦争中も、もう我が方が不利で、もうほぼ絶対に勝てそうでなくなっても、その都度その都度、希望的観測で乗り越えようとして、とうとう負けてしまったのが歴史であったが、それとと瓜一つのような気がしてならない。どうしてもっと早く、それまでの傾向から正しい予想を立て、対処出来なかったのか、今なお、同じ過ちを繰り返しているような気がしてならない。

 客観的な人口減少の原因を知り、減少が容易に止まらないことを知りながらも、毎回同じような希望的観測のこの青線を引かざるを得なかった政府御用の研究所の職員の心が思いやられる図表である。

 

 

 

先制攻撃しても戦争放棄の憲法違反にならないのか?

 上に掲げた文面が日本国憲法の第九条の条文である。我々国民はこれを元に政府に政治をするよう委託しているのである。

 この条文と現在の政府が実行している政治とはあまりにもかけ離れていると思わない人はいないのではなかろうか。朝鮮戦争が始まり、アメリカに言われて自衛隊を作った頃は、自衛隊は文字通り自衛のためだけのもので、軍隊ではないと言っていた。戦車を持つようになっても、戦車と言わずに特車と言っていた。

 それが今ではどうだろう。軍事予算は国家予算の2%、世界で3番目の規模の軍隊を持つことになり、自衛隊は世界中何処へでも行くし、自国の防衛ばかりか、敵基地への先制攻撃も可能にしたという。誰がみても「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という憲法の文言と矛盾しているとしか言えないのではなかろうか。

 敵基地攻撃能力は誰が見ても、明らかにこれまで政府が軍隊の保有を正当付けてきた自衛の専守防衛の枠を超えている。相手の攻撃を躊躇させるためとの稚拙な言い訳は通用しない。相手が攻撃の用意をするなら、それに対抗してこちらも攻撃できるようにしようという反応が起こることは子供でも分かることである。相互の攻撃能力は保有は戦争の前夜である。

 それでも政府は今なお憲法に違反するものではないと、無理な言い逃れの論理を組み立てて、正当性を主張しているが、ここまで乖離がひどくなると、常識的に誰が読んでも、上の憲法の条文とあまりにもかけ離れてしまっていることに気づくであろう。

 憲法普通の国民と国の間の約束であるから、普通の国民が普通に読んで普通に理解出来るのが憲法の本来の意味であり、その前提の上で国民が政府に委託したものであり、ここまで現実と乖離すれば、もはや政府の屁理屈を通すべきではないであろう。

 政府もここまで来れば、これ以上屁理屈を通すことが無理なことを承知しているので、やがて時がくれば、憲法を守るのではなく、憲法を変えてこの矛盾を解決しようとしていることも明らかである。憲法から逸脱した犯罪的行為を、行為を正すのでなく、国民との約束である憲法を変えることによって乗り越えようとするものである。

 大日本帝国の消滅によって、折角獲得した国民の権利である平和憲法を守り、憲法を改正することにはあくまでも反対するべきであろう。決してあの無謀で悲惨な戦争を繰り返してはならない。

 

 

 

 

 

死に遅れたか?

 戦後のベービーブーマーが大挙して七十五歳の後期高齢者になるのがおよそ2025年であり、

それから先が大変で、少子高齢化で、労働人口は減るのに老人が多くなり、若年者は減少した人数で産業活動も維持しなければならない上に、少人数で増えた老人の世話もしなければならなという社会問題に直面することになる。

 こういうことは上の表からも早くから分かっていたことであるが、危機だ危機だと言われながら、結局、根本的な対策は何も取られないまま、もうその危機は始まりかけている。今後も危機を深めながら進んで行くであろうことは明らかである。

 当然、私にとっても、こういう必然的な成り行きは早くからわかっていたので、後期高齢者の仲間入りした頃から、遅くとも九十歳ぐらいまでには死んだ方が良いのではないかと思ったりしていたものであった。しかし、気がついたら、いつしかかもうそれを通り越して、今年はもう九十五歳になる。

 一昔前までは、年寄りは大事にしましょうとか言って、喜寿や米寿には自治体がお祝いの品を送ったり、老人保険がタダだったりと、老人はチヤホヤされた時代もあったが、最近では、少子高齢化と言っても、労働力の減少の方が切実な問題であり、老人も出来るだけ働かせようとする時代になってきた。

 定年も六十歳から六十五歳へと引き上げられ、更には70歳までは働けるだろうと働かされそうである。年金の受給も遅くしたりしている。長年働いてやっと六十歳で定年を迎え、やれやれと思っても、今ではもうゆっくりしておれない。老いに鞭打って働かないと老後が心配である。

 老人も働ける間は働け。働けなければ早く消えてしまえと言わんばかり。介護保険はやがて人手不足で立ち行かなくなりそうである。にも関わらず、若者者が支えてきた老齢年金への補助にまで目がつけられ、若者のために老人の金が出さされる。経済優先のコロナ対策でも、抵抗力の弱い老人無視の2類から5類への変更なども行われる。

 こうなることは初めから分かってたし、今後まだまだひどくなるであろうことも確かであろう。それにもかかわらず、いつの間にかその混乱の中に巻き込まれて行きそうである。しかし、寿命ばかりは自分で決められないのが悲しい。死に時を逃してしまったようだが、今更仕方がない、運を天に任せて自然のままに任せるより仕方なさそうである。

武器援助より平和交渉を

 ウクライナ戦争が始まってからもう丸一年が経ってしまった。ロシアの侵略はどう見ても悪いが、この戦争の原因を辿れば、米国主導の西側陣営による約束違反のNATOの東方拡大から始まり、東西の境界がいよいよ本来ソ連の一部であったウクライナにまで及び、ロシアにとっては、最早ここまで追い詰められては反撃せざるを得ない所まで来たことに原因があるのである。

 そういう歴史的経過に乗って、ロシアの侵攻に際して、始め米国は国連諸国に呼びかけて、世界中が一致してロシアを非難し、ロシアを孤立させようとしたが、案に反して、中国やインド、多くの新興国などの賛同が得られず、いわゆる西側陣営だけで対処しなければならなくなった。石油や天然ガスを巡る経済制裁でロシアを締め上げようとしたが、それも叶わず、返って、西側陣営の経済問題まで引き起こしてしてしまったのである。

 ただし、この新たな戦争で最も利を得たのは米国で、アフガニスタンの撤退で失われた侵略戦争の捌け口を、ウクライナでの代理戦争で補わんばかりに、米国はウクライナをけしかけて徹底抗戦を煽り、それに乗じてチャンスとばかりに武器を売り込んで、大儲けをしようとしているのである。

 ウクライナの援助であれば、正義をかざせるし、アメリカ軍の損害もない。ゼレンスキー大統領を焚き付けて、代理戦争を続けさせさえすれば、アメリカは無傷で大儲け出来ることになるわけである。

 災難に遭うのはウクライナの人々である。ウクライナとロシアはソ連時代には同じ国であったことからもわかるように、歴史を辿れば、ともにキーウ・ルーシ大公国の流れを汲む民族であり、言葉も文化も宗教も社会も似ている国で、お互いの交流も長い国民同士なのである。

 それが、そこで生活している普通の人々の知らない闇の世界で、アメリカの手先に乗せられた右翼の策動で、ロシアの侵攻を呼び込み、それに対する抵抗が起こり、多くの人々の生活が破壊され、生命まで奪われることになったのである。民族の悲劇である。

 西側諸国がロシアを非難するのは良いが、大掛かりな武器を援助し、戦いを激化させるのは人道に反する行為である。ましてや、それで儲けるようなことはもっての他であろう。一刻も早く破壊を止め、人命を救うために、話し合いで問題の解決するべく努力すべきではないか。

 ロシアの侵攻は許せないが、これまで長らく続けられてきた、アメリカによるイラクアフガニスタン、更には中近東、北アフリカなどへの公然とした軍事侵攻の結果がもたらしたものだとも言えるであろう。

 国連をはじめ、米国やNATOなど、関係する諸国は武器の援助を止め、話し合いでの平和への道を協議すべきではなかろうか。それこそがウクライナの人々をはじめ、世界の平和を愛するすべての人々の願いであろう。困難であっても、世界中で叡智を集め、話し合いでの解決へ持っていくべきではなかろうか。

 何としても、ウクライナの人々の命と生活を守るために、戦争をやめさせよう!!

日本は再び沖縄を犠牲にするのか

 先ずは上の沖縄の人口構成のグラフを見て下さい。たまたま新聞で見かけたものですが、一度見てしまうと、もう忘れられない無惨な統計結果に気がつくでしょう。敗戦の年の暮れの沖縄の人口構成の図であるが。男女ともに二十一歳から四十五歳にいたる働き盛りの人口が極端に減っていることがわかるが、殊に、男子の方はもう目を覆いたくなるような惨状である。

 この年代の人々が如何に多く戦争で殺されたかが分かる。もし、もう少し戦争が長びいていて、本土決戦でも戦われていようものなら、日本全体の人口構成もこれに似たようなことになっていたのではなかろうかと思うと背筋が凍る思いがする。

 沖縄の人たちは政府の本土決戦を遅らすためという大義の下で、このような大きな犠牲を払わされたのであった。その上、戦後も長らくアメリカ軍の統治下に置かれ、今なおアメリカ軍の東洋における最大の基地として、戦後80年近くもアメリカ軍の下に置かれているのである。

 さらに戦後日本政府は、国民に米軍基地の存在感を薄めるために、本州に基地まで沖縄に集中させ、沖縄へ更なる負担を強い、沖縄の人たちの一致した反対を押し切ってまで、今なお辺野古の基地建設を進めるようなことさえ止めようとしない。

 沖縄戦の最後に基地司令官が自決前に本土に打った最後の電文内容が今なお忘れられない。「沖縄の人々はよく戦った。後刻、特別のご配慮を」というものであった。しかし、それは全く無視され、天皇は沖縄を米国に渡しても良いと言ったとかの話もあり、沖縄については、政府は米軍に言われるままに、住民の要望には頑として無視を通してきている。

 その上、最近はアメリカに言われるままに、琉球列島全体を基地化して、ミサイル基地などを建設し、敵基地への先制攻撃さえ可能にするよう新たに基地建設を始め、再び沖縄を戦場にして沖縄を再び犠牲にしようとしている。

 沖縄にとっては、もはや日本の一部であることは、またもや生存の危険さえ負わされることになるだけではないか。事情さえ許せば、沖縄はもう日本から独立して、昔の琉球王国に戻った方が良いと考える人が多くなってももおかしくはないであろう。

 沖縄が琉球王国であった頃には、沖縄独自の海外貿易も盛んであったし、日本だけでなく中国とも交流していた歴史がある。沖縄県になって以来、小学校では沖縄の方言を使うのを禁止され、標準語をいちいち強制された歴史も忘れられない。

 沖縄の人々を日本に繋ぎ止めておくためには、もう少しは政府も国民も沖縄のことを考え、沖縄の負担を和らげ、沖縄の人々が平和に暮らせるように、具体的な方策を取るべきであろう。

 日米の安保条約や地位協定の改定に踏み込み、米国の戦略に乗せられず、日米平等な民主的な条約を通じて、沖縄に真剣に向き合うべきではないか。それが日本政府並びに日本の国民の義務であろう。