耄耋独語(ぼうてつどくご)

 2018年05月10日に書いた文章であるが、広く知って貰きたいと思い、もう一度ここに載せておきたい。

 もう十年近くにもなろうか。ある先輩に表題の杉田玄白が八十四歳で死ぬ前に書いたと言われる文章を教えていただいたことを思い出して、読み返してみた。流石に玄白、老人の体の衰えや、それによる悩みをうまく描き出しており、今も自分も含めて仲間の老人たちも同じような問題を抱えて、人知れず悩んでいるので、参考のためにここに再録しておきたい。耄耋独語(ぼうてつどくご)という文が残されているそうである。

 「身体の衰弱が日毎にひどくなってきている。二里の道も次第に切なく感ずる。目が霞んでものがはっきり見えない。灯りをつけても、眼鏡をかけても本が読めない。眼の中に花が散ってうるさくてならない。夜は提灯の灯りが二重に見える。寒くなると水洟が垂れてうるさい。耳はしだいに遠くなる。のぼせの強い朝は耳鳴りがしてうるさい。歯は一本も残っておらず、固いものは何もたべられない。歯という垣根がないので食べている途中にこぼす。人と話すとき歯音が欠けてしまう。黄楊製の入れ歯も馴れたと思う頃には木目が毛羽立ってざらざらと舌にさわり、物の風味がよくないし気持ちが悪い。屁が漏れやすい。しばしば便秘する。厠にいる時間が長くなる。便をする度に脱肛する。小水は陰器が縮まっていて思わぬ方に飛び散ったり、近くなって夜も昼も何回も行かねばならず、間に合わず漏らしてしまう。その不浄不潔はたとえようがない。尾籠なことをしでかさないか心配で高貴な人らの席に出るのが怖い。足はにわかに痛んだり転筋(こむらがえり)をおこしたりする。立つにも坐るにもふらついて倒れそうになる。同じ話を何度もして人に笑われる。友人や召使の名を呼びちがえる。古いことは覚えているのに、たった今しまいこんだ日用品の場所を忘れる。字を間違って書いたりする。何を書く積もりだったか忘れて紙に向かってぼんやりすることがある。腰の衰弱がはなはだしい。道を歩いていると急ぎ足になって前のめりになって転びそう。老人たるつらさは限りない。この身は神仙ではないから老いぼれとて片時も無心無欲でいられない。頭上に雷が落ちてもかまわぬなどという気持ちにはなれぬ。木偶人形のように不感無覚ではいられない。何の悟りに達するのでもない誠に無益な長命である。死んだ方がましではないかと思われることもあるのだ。老人たることの嘆き、辛さ、不便さ、苦しさを思えば長命も詮無いものに思われてくる。老衰のみじめさを知らない人々のためにと思ってこの身に経験した事どもを八十にあまる老いの手で書き留めてみた次第である。」(中央公論社刊 日本の名著22 杉田玄白 老いぼれの独り言 緒方富雄訳)』

 よくぞうまく書き残してくれたものである。自らの日常と比べても思い当たることばかり。他人には言い辛いことなので、多くの老人たちが、自分だけではないことを確かめて、少しばかり安堵の手がかりになるのではなかろうか。

 

自国礼賛の危うさ

 戦後70年以上も経つと、戦争を経験した人も少なくなり、経済成長も止まり、少子高齢化時代になって、世相もずいぶん変わって来た。戦争に対する反省やそこからくる平和主義が薄らぎ、政府の政策もあって、最近は「もう一度日本 日本を取り戻せ」といった声が大きくなって来ている。

 自分の国が自慢できる国であって欲しい、自分の国に誇りを持ちたい、と思うのは当然のことであるが、政府主導のこのスローガンで「取り戻したい」のはどうも戦前の大日本帝国であり、明治憲法天皇制国家の復活のようである。

 国民がこの国に誇りを持ち、自慢できる国にするのは、戦後の民主主義の日本を踏まえた前向きの発展こそがその道であるはずであるが、今の動きはそれとは逆の後ろ向きに歴史を逆行しようとするもののようである。

 現実のアメリカ従属の現実に目を瞑り、過去の歴史を否定し、忌まわしい大日本帝国の侵略をなかったことにしたい。東日本大震災のような時にも略奪など起こらず平静だったことを日本だからこそと自慢する人もいるが、ニューオリエンズの台風カタリーナの時も避難者は冷静で助け合っていた。日本でもぎりぎりのところで平衡たもたれていたのであり、あまり変わらないと考えた方が良いのではなかろうか。

 日本も長所も欠点もある多くの国のひとつ、日本人が長所だけ強調して自慢すればナチスと同じ。ニッポン人の仕事ぶりに『ウチの国も見習いたい」「もう故郷に帰りたくない!秋のニッポンで帰国拒否続出」などという本もあるが、日本の入国管理局で絵殺されたウイシュマさん初め何人かの犠牲者もいる。

 文化も社会もその発達段階も異なるので、それぞれの国によって社会のあり様にも違いがあるが、この国が全てよく、他の国が全て悪いというようなことはなのではないか。

 自国を礼賛するのも悪くないが、他国の長所や欠点も冷静に見るべきであろう。

回転寿司屋

 私が初めて回転寿司屋で食べたのは、何とメルボルンでのことであった。もう十年ぐらいも以前のことであっただろうか。その頃はまだ従来同様の寿司屋も多かったし、寿司が特別好きだと言うわけでもなかったので、つい日本ではそれまで行きそびれていたからであった。

 メルボルンでは、丁度大晦日に当たる日だったので、打ち上げ花火を見たり、街をうろついたりした後で、適当な食堂が見当たらなかった時に、たまたま街角に回転鮨屋を見つけたので、こんな所にまであるのかと驚き、興味半分で入ったのであった。

 その後になって、日本でも、回転鮨屋へは時々行くようになり、時代により、またそのチェーン店の系列によって多少仕様の違うことも覚えた。回転鮨屋の良いところは、従来の店のように、客がケースに入った魚を見て注文し、それに応じて握ってくれるのではなく、座っている前にコンベアに乗った色々な寿司が運ばれて来るので、その中から客が選択して取れば良いだけなので、全く気を使う必要がないし、対面でないので、板前との会話はないが、客同士では気分的に返ってゆっくり出来る利点もある。店の方も、従来の寿司屋では考えられない大量の寿司を少ない人手で処理出来るので、効率的であり、大規模の店を運営することが出来るようになったことであろう。

 そんなビジネスとして効率的なので、やがてチェーン店がいくつもでき、全国的に流行しだし、挙げ句の果てには外国にまで拡がったのであろう。

 ただ、コロナ流行で、大勢の客が並んでコンベアの前に座る方式は感染リスク上問題とされ、他の大規模な食堂関係と共に敬遠されることとなり、運営が危ぶまれる様なことにもなった。いつだったかその頃、何かの会合の後に、立ち寄った回転寿司屋があったが、そこでは、コンベアベルトは全て止まってしまっており、その奥に設けられた室内の普通の食堂のようなテーブル席での商売だけになっていた。コロナでどうなっていくのかと人事ながら気になったことであった。 

 ところが、最近コロナも大分下火になって、ウイズコロナ政策が叫ばれ、種々の規制が外されて来たので、何年振りかで、回転鮨屋に立ち寄ってみた。混まないうちにと時間を見繕って行くと、開店直前の一番乗りだったが、開店と同時にバタバタと何組もの人たちがやって来たのには驚かされた。依然として開店寿司の人気は高い様である。

 しかし、それより驚かされたのは、しばらく来ない間に寿司屋がますます機械化、自動化が進み、合理化されてきた事であった。まず店内に入ると、入り口に機械があって「大人何人、子供何人、坐席はボックス席かカウンター席かを選び打ち込むと、それらの結果と共の順番の書かれた紙が出てくるので、それを持って待合室で順番を待つことになる。私たちは早かったのですぐ順番が来たが、今度は待合室から中へ入る入り口にある機械に、先ほどの紙を入れると座席番号の書かれた紙が出てくるので、それを持って奥に進み、座席番号に従って座席に着くことになる。

 カウンター席の後ろを通って、指定されたボックス席を探して、席に着いたが、カウンター席は一人で来る人のための様で一席ごとに大きな透明プラスチック板で仕切られていた。ボックス席の方は従来通りの様であったが、一番乗りだったので、まだ他の席はがらんどうだったが、コンベアは既に廻り始めていた。

 ところが、コンベアはまだ空の皿が廻っているだけだった。そのうちに廻って来るのだろうと思って、ちょっと上を見ると、「スマホでも注文出来る様になりました」と書かれている。コンベアは空っぽだし、ひょっとしたら、全てスマホで注文しなければ食べられないのではないかと心配になる。スマホでないと注文出来ないとなると、老人はスマホの操作が気になって、ゆっくり食べることも出来ないのではなかろうか。

 幸い、そのうちにコンベアの寿司も次第に廻ってくる様になって、安心して食べることが出来るようになった。スマホでの注文というのは、従来からある2本目のベルトで、注文品が急速に運ばれてくる寿司についてのものであった。

 寿司のネタが従来より一回り小さくなっていることに気付いたが、これは万事値上がりの時勢で、他の商品や食品でも見られる現象なので仕方がない。老人並みにそこそこの皿数を食べて終わった。

 食べ終わって少しゆっくりしてから会計に行くと、そこには「セルフレジ」と書かれたレジが二つ並んでいた。先に貰った用紙を挿入し、カードをかざせば機械が計算して、レシートが出てくる。それで全て終わりである。そこにいた係員が「ありがとうございました」と言ってはくれたものの、全く人手を要しない。スーパーやコンビニばかりか、こんな所までセルフレジとは、老人たちはますます行き難くなる感じである。

 寿司屋は効率良く客を捌けて、儲けも大きくなるかも知れないが、一人で来た客なら、初めから終わりまで誰とも話さず、黙ったままでコンベアから寿司を取り、あるいはスマホで注文し、廻ってきた寿司を黙って食べ、黙って会計を済ませ、黙って立ち去ることになる。

 これなら、コロナが流行っていても、うつる可能性はゼロに近いであろうが、それではあまりにも寂しいのではなかろうか。

 天才は孤独を愛するというから人にもよるだろうが、せっかく寿司を食いに来たのに、店の者とも、他の客とも、誰とも話さず一人で黙って寿司を食べ、黙って帰るなど、昔だったら考え難いことであったであろう。

 回転寿司は従来の寿司屋と比べ安く何処にでもあるから、手軽に行けて美味しいので人気があるのであろうが、大量生産、大量消費の商売は、昔の寿司屋のような人と人の関係を奪い、客を儲けの対象としか見ない傾向を強くしているとしか言えないのではなかろうか。

 資本主義が進めば進むほどに、会社は益々大きくなって儲かっても、客である一般庶民は益々、細やかで静かな楽しみまで奪われて、孤独を強いられていくのであろうか。

 

憲法改正より先に日米地位協定の改正を!

 戦後1946年に出来た憲法も既に施行以来76年以上も続いているが、その間、自民党政権により散々解釈改憲がおこなわれ、何とかかろうじて元の姿を保っているが、今や本来の姿のあちこちに大きな歪みが生じてきてしまっている。

 軍隊を持たないと明記してあるのに、現実には世界でも有数な自衛隊なる軍隊を持ち、今では敵国への先制攻撃まで可能にしつつある。

 為政者はそれでもまだ満足できず、憲法そのものを変えようと、早くから執拗に働きかけている。憲法に政府は憲法を守らなければならないと明記されているにもかかわらず、政府でなく国民の代表である国会が進めようとしているのだから構わないというが、その国会を主導しているのが同じ人間の政府なのだから呆れる。

 しかも、今のこの国は日米安保条約地位協定という、憲法よりも上位の法によって体制が決められており、再軍備などの解釈改憲なども、アメリカ主導の下に、政府が決めて行われてきているものである。

 ところが、そのアメリカの日本に対する要望の実行の足枷になっているのが日本の平和憲法なのである。それをアメリカの要望に沿うべく、無理をしてきたのが解釈改憲なのである。

 憲法を変えれば、アメリカの要望に対する防波堤がなくなる。今より一層アメリカの要望に忠実に答えなければならなくなるだけで、日本の国民生活の改善に資するわけではない。

 政府はその憲法改正を利用して、国内体制や政治のあらゆる面でのあり方を自分たちの都合の良いように変えようと目論んでいるのも当然である。

 憲法を変えても国民の生活は良くならないし、沖縄の基地問題も解決にはつながらない。むしろより悪い反対方向に動くであろう。

 憲法よりも先に日米地位協定だけでも改定して、先ずは日米が平等な条約にし、アメリカの圧力に屈することなく、少しでも日本自体の利害により動ける体制作りが先であろう。その下に日本国憲法もあるのである。

 沖縄県民の世論に反し、「戦死者の骨の残る南部の土を埋め立てに使うな」というような切なる願いまで無視して、辺野古基地建設を強引に進め、先制攻撃まで言い出して、先島諸島の基地化を進め、防衛費を国家予算の2%まで引き上げるなど、全てアメリカの主導によるものである。

 米軍基地からのオミクロン感染拡大、化学物質の漏洩、米軍機の東京上空でさえの低空飛行、落下物、墜落事故など、幾多の事故に際しても政府は国民よりアメリカ優先をせざるを得ず、安保条約は国民を守るものではなく、国民生活よりも、米軍をはじめとするアメリカに従属するためのものであることは明らかである。

 こういう状態が既に「大日本帝国」の七十七年と同じ期間続いてしまっているのである。

それでも、政府は国民を守るためにアメリカと交渉しないのか。安保条約、日米地位協定などの一連の協定のうち、せめて、先ずは地位協定だけでも、ドイツやイタリア並みに、平等な協定に改正するべく動くべきではなかろうか。

 先述の如く、日米条約は憲法を凌駕する法律である。憲法改正を考えるよりも前に、日米地位協定を平等な協定に改正するべきではなかろうか。

 

 

鍵がない!

 先日、宝塚の近くにある「あいあいパーク」とかいう花や園芸用品を扱う小さな公園のように造られた店に行った。もう何年も前から、時に訪れて花を買ったりしたことのある場所なのだが、ここ何年かはコロナの流行などもありご無沙汰していた。

 たまたま新聞の広告でバラの売り出しなどがあるのを見て、懐かしく思い、気候も良いし、コロナも下火になったので、散歩がてらに久しぶりで訪れた。1日の寒暖差が大きいので、上着を羽織り、脱いだ時に入れる小さなリュックまで用意して出かけた。

 「パーク」は以前と少し変わっていたが、天気も良く、クラシックな西洋風の建物を真ん中にして、四方の庭や中庭が花園のようにになっていて、色々な花が飾られ、売られている。土曜日だということもあり、若い子供連れの来園者が多かった。

 天気も良く案の定、時間と共に暑くなったので、庭のベンチで休んで上着を脱ぎ、色々なバラや多くの花や苗木を鑑賞し、園内にあるベーカリーで小さなパンを食べて帰宅した。

 そこまでは、快適な秋の半日だった。ところが、帰ってから持ち物を整理する段になって、鍵がないことに気がついた。家の鍵から、勝手口の鍵、別宅の鍵、金庫の鍵まで、平素使う鍵を全てまとめて小さなポーチに入れていたのだが、そのポーチが見つからない。

 戻ってきた際には、女房の鍵で入ったので問題はなかったのだが、鍵がなければ、今後、家にも入れない。日常生活が成り立たないことになる。さあ大変だ。持ち物を再び念入りに探し直したが、どこにもない。無くした物が他のものであればともかく、鍵の全てとあらば、簡単に諦めるわけにはいかない。あとはその日の行動を思い出してみるよりない。

 出かける前に、そのポーチを小銭入れと共に、上着の脇のポケットに入れて行ったことは確かである。一緒に入れた小銭入れはそのままある。思い返せば、パークで上着を脱いだ時が問題である。

 上着を脱いだ時に、内ポケットに入れていた定期入れを、帰途の乗車の時のことを考えて、ズボンのポケットに入れ直したのは確かで、帰宅後もそのままあった。その定期入れを入れ替えた時に、鍵入ポーチも家に帰った時のことを考え、上着からズボンに入れ替えたような気がする。

 ただ、ズボンのポケットに入れようとした時に、定期入れと一緒になるので、一旦入れた鍵ポーチを取り出して、ズボンの何も入っていない後ろのポケッっトに入れ替えたような気がする。ところが家に帰った時にはそこは空っぽで何もなかった。

 さあ大変だ。入れ方が悪く落ちてしまったのかも知れない。背広をリュックに入れるのに、少し手こずっていた時に、すぐ横にある洒落た庭小屋風の建物が目につき、そちらに気を取られ、リュックに入れ終わるなり、立ち上がってそちらに向かったので、その間、周りを確かめもしなかった。

 その後はずっと歩いていたので、尻のポケットからポーチが落ちる可能性は先ずない。あるとすれば、座っている時に何かの弾みでずり落ちることがあるかも知れない。そうとすれば、パン屋さんか、帰りの電車で座った時しかない。

 もう一度着ていった服やズボン、リュックを念入りに探しても見つからない。もう諦めるよりし仕方がない。あとどうするか。スペアキーから複製の出来るものもあるが、出来ないものもある。その段取りも考えなければならない、

 しかしその前に、念のために、出来ることだけは全てしておくべきであろう。「あいあいパーク」の電話番号を調べ、電話して、もし見つかったら知らせて貰うよう頼み、パン屋さんにも電話で頼み、阪急電車のメールでの忘れ物検索依頼にも記入して送った。

 もう後はすることもないが、夜になってベッドに入ってからも、色々思い巡らしてなかなか寝付けない。ズボンの尻ポケットに入れたとして、座ったからといって、そこから落ちる可能性は極めて少ない。それより一番可能性の高いのは、上着をリュックに入れた前後に、落としたか、置き忘れたかではなかろうか。その時の鍵ポーチの取り扱いにあやふやの点が多い。

 隣の小屋に気が取られていて、黒いポーチに黒いリュック、こちらの目も悪いので気が付き難い。その時にでも落としたのかも知れない。小さなポーチなので、落としていても人は気がつき難いだろうし、気がついても無視される可能性もある。パークからの連絡を待つより、翌朝、開店早々にもう一度行って現場を確かめるのが良いのではと思いつつ寝ってしまった。

 翌朝になって、もう一度そこへ行くべく用意をしたが、行く前に念のためと思い、もう一度リュックなどの前日の持ち物をチェックしてみることにした。今度はリュックを空にして、中をひっくり返して調べた。そうしたらどうだろう。リュックの底に入れていた洗面道具などを入れた袋の折り畳まれたような隙間からポーチがこぼれ出てきたではないか。

 前日から3回もリュックをチェックしたのだが、ずっと入れっぱなしになっていた袋なので、外まで出さずに、手探りで調べただけだったのがいけなかったようである。兎に角、思いもかけずに鍵ポーチのご帰還である、思わず万歳と心の中で叫んだ。

 これで1日半に及んだ悩みが一気に吹っ飛んでしまった。もう、またパークまで足を運ぶ必要もない。これから先の日常の心配も消えた。思わず顔が綻ぶ。女房に「あったぞー」と叫ぶ。万々歳である。「今日はケーキでも買ってきてお祝いしなくちゃ」と、まるで死地から生き返って来たような気持ちであった。

 何歳になっても、生きていれば色々なことがあるものである。こんなことをしながら老いの日を送っているということであろう。めでたし、めでたし。

 

 

 

ハラスメントの種類

 最近はセクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントが問題となって騒がれることが多いこともあり、セクハラ、パワハラなどと略されて言われることが多くなった。

 昔から長い単語は略して用いられることが多いもので、例えば地名でも上本町二丁目なら上二、役所でも経済産業省なら経産省、駅名でも名古屋駅なら名駅という具合で、それが広く使われているうちに、簡略系が本物や、本物がわりになってしまうことも多い。

 本来は阪神急行電鉄だったものが阪急になり、近鉄も今では近畿日本鉄道などと呼ぶ人はいない。漢字の羅列でもそうなのに、最近流行りのカタカナ名詞となると、余計に長くなることが多いので、当然短縮形が使われることになる。

 短縮する場合、英語などでは頭文字だけにすることが一般的であるが、日本では昔からの習慣で、漢字の羅列を詰めて簡略化することになる。その習慣からか、カナ文字の羅列の場合でも頭からのいくつかの文字を取り出して簡略型を作ることになる。パーソナル・コンプピュータはパソコンに、スマートフォーンはスマホという具合である。

 そんなことから、パワー・ハラスメントはパワハラに、セクシャル・ハラスメントはセクハラとなるわけで、一旦それが出来上がると、その同類の言葉も自然と言いやすい短縮系に変わることになる。 日本語では4文字の言葉が多いので、短縮系も4文字になることが多い。

 ただ、ここで問題となるのは、漢字は表意文字なので短縮型になっても、短縮された一文字からでも意味が読み取れることが多いが、カタカナように表音文字となると、短縮されると、意味がわからなくなることが多いし、他の短縮型と同じ言葉にになってしまい混同されがちにもなる。

 セクハラとかパワハラのようにその時代で社会的に大きな問題になったものは、やたらとと使われるうちに、短縮形が便利なので幅をこかせてしまい、元の言葉が忘れられてしまうようになり、意味は推測するよりなくなろ。ハラスメントには色々な面でのハラスメントが多いので、それぞれが省略形になると**ハラという言葉がやたらと多くなる、そうなるとハラはハラスメントだとわかっても、上につく文字はそれぞれに略されたものなので想像さえ付きかねない。

 新聞などでしばしば取り上げられるものは、すぐ多くの人に理解して貰えるが、一部の人にしか関係しないようなものは、短縮されるともう何のことか分からなくなることが多い。

 知人の若者がSNSに「リハ終わった」と書いていたので、あわれ腰痛でも起こしてリハビリ治療を受けていて、それがが終わったのかと思ったら、リハーサルが終わったということであったようなこともある。

 最近たまたまSNSを見ていると、ロジハラ、エンハラ、テレハラ、ヌーハラと書かれていた。テレハラは電話ででのいじめぐらいかなと思ったが、後の三つは如何なるハラスメントか想像もつかない。

 今流行っている言葉だろうから、Googleで調べれば分かるだろうと思って調べてみるとすぐに分かった。ロジハラはロジカル・ハラスメントで、いわば正論を振り翳して相手なり周囲の人なりをいじめること。

 エンハラはエンジョイ・ハラスメントで、仕事上の自分の楽しみを周囲に押し付けること、例えば、早朝に出勤したら邪魔が入らず能率が上がることを喜んだ上司が、部下にも自分の楽しみを強要するようなことらしい。

 テレハラはテレフォンではなく、テレワークで背景に映る部屋の様子などで、いじめることらしい。ヌーハラというのはヌードルハラスメントで、麺を食べる時に音を出して啜るのを嫌う人が、それを指摘して嫌がらせるものを言うそうである。

 Googleでその時知ったのは、まだまだ色々なハラスメントがあるようで、五十のハラスメントなどという項目まであった。以下にそのいくつかを並べるので、どれだけお分かりか試してみてはいかがでしょう。

 リモハラ、ソーハラ、エアハラ、ブラハラ、カラハラ、マリハラ、アカハラアルハラドクハラ、スメハラ、パーハラ、フォトハラ、ジェンハラ、カスハラ、マタハラ、モラハラ・・

 最後にハラハラというのまであった。これはハラスメント・ハラスメントの略で、自分が不快に思ったことを過剰にハラスメンだと主張していじめることだそうである。言葉の上だけでも如何にハラスメントが多く、人々の関心を引いているかが判ろうというものである。興味があれば、ご自分で調べてみて下さい。

 

 

戦争は絶対するな

 12月8日、7月7日と8月15日は死んでも忘れられない日と言ってよいであろう。未だに戦争の記憶は昨日のことのように残っている。8月6日の原爆や3月14日の空襲も、あの惨状は昨日のことのように脳裏を離れない。

 私は敗戦の時十七歳であった。皇国日本に純粋培養されて育ち、忠君愛国の熱情に燃え、天皇陛下の御為には本当に死ぬことしか考えられなかった、帝国海軍の最後の海軍兵学校生徒であった。

 それからもう七十七年が経ってしまって、私は現在九十四歳になる。今では戦争を知る人は殆どいなくなってしまった。田中角栄が「戦争を知っている者がいる間は大丈夫、日本は二度と戦争をしないだろうが、それから先はわからない」というようなことを言ったが、今やもうそのわからない時代になってしまっている。

 今の人たちにとっては、戦争の残虐さ、悲惨さ、理不尽さは理屈では分かっても、心の底まで響いていないのは仕方ないことであろう。ウクライナの戦争が起こっていても、これまでの朝鮮戦争ヴェトナム戦争イラクアフガニスタンなどの戦争報道に慣らされてしまって、同情はしても、他人事であり自分のこととして考えることは出来ないでいる。

 近頃は日本を守るためには先制攻撃さえ辞さない。国を守るためには、金の出どころより先に、軍事費を全予算の2%まで増強しろなどと、アメリカに言われるままに、それに乗って景気の良いことを言う人も増えてきたが、今度、日本が巻き込まれる全面戦争が起これば、日本が生き残れる確率は極めて少ない。

 アメリカや中国、ロシアなどの大きな国と比べて、日本は小さな島国で、おまけに不相応に多い人口まで抱えている。四方の海を遮断されたら国民は飢え死にする。飢え死にしなくても、水爆の四〜五発も落とされたら、日本国中で生存可能な所はなくなる。そうでなくとも、若狭湾の海岸に集まっている固定された原発が、潜水艦発射のミサイルにでも攻撃されたら、もうそれだけでお手上げになるであろう。

 景気の良い先制攻撃の話をぶち上げたりしても、大きな国土の広い国は少々叩かれても生き延びられるが、小さな国ではそう言うわけにはいかないことを知るべきである。以前の大戦でも、その当時あれだけ遅れ、乱れていた国であった中国に対してでも、日本がとうとう勝てず、最後には太平洋戦争になって負けてしまったことを思い出すべきであろう。

 国土も広く、人口も日本の10倍もあり、当時と違い、産業も発展し、経済規模が日本の4倍もあり、国民も団結し、しかも、あらゆる点で日本を追い越してしまった中国と今戦って勝てるわけはない。アメリカとの戦争の時、祖母が言っていた「あんな大きな国と戦争をしてなにが勝てるもんかね」通りに惨めで悲惨な敗戦を迎えた教訓を忘れてはならない。

 仮に、中米の戦争になって、アメリカ側で戦わされることになっても、アメリカは日本を前線基地として利用するだけであり、直接、中国と対戦させられる日本が完全に破壊されることになっても、アメリカは日本を見捨てて逃げ帰れば良いだけである。

 沖縄や先島列島に先制攻撃の基地を儲け、そこからの先制攻撃に成功したとしても、広い中国の全て破壊することは不可能である。当然起こる反撃によって、これらの狭い限定された島の固定された基地が間違いなく破壊されることは明らかであろう。島民には逃げ場もないのである。

 アメリカに唆されて、アメリカを頼って先制攻撃をかけることは自滅行為である。日本は狭い島国に大勢の人が住んでいることをくれぐれも忘れるべきではない。万一攻撃されそうになれば、白旗を上げてでも、戦争は避けるべきである。戦争はそれこそ悲惨な生きるか死ぬかの問題で、弱虫と言われても、死ぬより生き残らなければ話にもならない。戦争はどれだけ犠牲を払ってでも、みっともなくても、避けるべきである。

 もうすでに、日本は七十七年前にアメリカに国土を荒廃させられ、アメリカに降伏し、占領され、以来アメリカの属国となっているのである。幸い朝鮮戦争ベトナム戦争のおかげで生き返り、先進国の仲間入りが出来たが、今もアメリカの属国であることに変わりはない。

 属国は宗主国にある程度従わねばならないであろうが、仮に戦に負けて属国の主人が変わろうとも、国民の安泰が守られさえするなら、現状と差して変わらないという強みがある。いかにアメリカに乗せられても、この国の我々庶民の命を守るためには、絶対に戦争はすべきではない。

 朝日川柳に「戦車より白旗こそが命綱」(兵庫・小林哲也)というのが載っていた。御国の為に命を捧げるよりも、どんな困難にも耐えて、一度しかない命を守ることの方が遥かに大切なことを知るべきである。