耄耋独語(ぼうてつどくご)

 2018年05月10日に書いた文章であるが、広く知って貰きたいと思い、もう一度ここに載せておきたい。

 もう十年近くにもなろうか。ある先輩に表題の杉田玄白が八十四歳で死ぬ前に書いたと言われる文章を教えていただいたことを思い出して、読み返してみた。流石に玄白、老人の体の衰えや、それによる悩みをうまく描き出しており、今も自分も含めて仲間の老人たちも同じような問題を抱えて、人知れず悩んでいるので、参考のためにここに再録しておきたい。耄耋独語(ぼうてつどくご)という文が残されているそうである。

 「身体の衰弱が日毎にひどくなってきている。二里の道も次第に切なく感ずる。目が霞んでものがはっきり見えない。灯りをつけても、眼鏡をかけても本が読めない。眼の中に花が散ってうるさくてならない。夜は提灯の灯りが二重に見える。寒くなると水洟が垂れてうるさい。耳はしだいに遠くなる。のぼせの強い朝は耳鳴りがしてうるさい。歯は一本も残っておらず、固いものは何もたべられない。歯という垣根がないので食べている途中にこぼす。人と話すとき歯音が欠けてしまう。黄楊製の入れ歯も馴れたと思う頃には木目が毛羽立ってざらざらと舌にさわり、物の風味がよくないし気持ちが悪い。屁が漏れやすい。しばしば便秘する。厠にいる時間が長くなる。便をする度に脱肛する。小水は陰器が縮まっていて思わぬ方に飛び散ったり、近くなって夜も昼も何回も行かねばならず、間に合わず漏らしてしまう。その不浄不潔はたとえようがない。尾籠なことをしでかさないか心配で高貴な人らの席に出るのが怖い。足はにわかに痛んだり転筋(こむらがえり)をおこしたりする。立つにも坐るにもふらついて倒れそうになる。同じ話を何度もして人に笑われる。友人や召使の名を呼びちがえる。古いことは覚えているのに、たった今しまいこんだ日用品の場所を忘れる。字を間違って書いたりする。何を書く積もりだったか忘れて紙に向かってぼんやりすることがある。腰の衰弱がはなはだしい。道を歩いていると急ぎ足になって前のめりになって転びそう。老人たるつらさは限りない。この身は神仙ではないから老いぼれとて片時も無心無欲でいられない。頭上に雷が落ちてもかまわぬなどという気持ちにはなれぬ。木偶人形のように不感無覚ではいられない。何の悟りに達するのでもない誠に無益な長命である。死んだ方がましではないかと思われることもあるのだ。老人たることの嘆き、辛さ、不便さ、苦しさを思えば長命も詮無いものに思われてくる。老衰のみじめさを知らない人々のためにと思ってこの身に経験した事どもを八十にあまる老いの手で書き留めてみた次第である。」(中央公論社刊 日本の名著22 杉田玄白 老いぼれの独り言 緒方富雄訳)』

 よくぞうまく書き残してくれたものである。自らの日常と比べても思い当たることばかり。他人には言い辛いことなので、多くの老人たちが、自分だけではないことを確かめて、少しばかり安堵の手がかりになるのではなかろうか。