私と音楽

 私が子供の頃はおよそ音楽とは関係のない環境の中にいた。小学校でも中学校でも、音楽の時間と言っても、楽器に触れることはなく、ピアノやオルガンの伴奏に合わせて歌を歌うだけであった。

 当時はピアノはまだ高級品で、小学校でもオルガンだけで、ピアノのない学校も沢山あった。琴や三味線などは女性の習い事で、普通には楽器の類は普通の男が扱うものではなかった。男の音楽は詩吟を唸ったり、歌を歌ったりするぐらい。楽器も笛や太鼓、それに法螺貝や鼓、鐘ぐらいのもので、洋楽器もせいぜいハーモニカぐらいであったろうか。

 小学校や中学校でも音楽の時間はあったが、歌を歌うだけで、声変わりを知る頃の中学時代には高い声が出ないので苦労したことを覚えている。ヴァイオリンなどの洋楽器は音楽の教科書に説明があって絵が載っている程度でl実物を見ることすらなかった。

 勿論当時でも、も音楽学校もあったし、軍隊の軍楽隊もあり、音楽の好きな人の中にはピアノやヴァイオリンなどを習う人もいたが、まだごく少数の人に限られており、一般社会では洋楽はまだ特殊な世界の部類であった。

 そんな社会に育ったので、音楽の時間は付け足しのようなもので、人々の関心も薄かった。我が家でも、父が買ってきたヤマハのピアノがあったが、姉が少し練習していたぐらいで、戦争と共に殆ど見向きもされなくなっていた。

 私も子供の好奇心から、時に鍵盤を叩いたりした覚えがあるが、私に出来たのは、二本指で「レドレミソミレミソラソ・・・」と「君が世」の小節をどうにか叩けるだけであった。戦争の激化と共に、このピアノも疎開した時に、その村の小学校に寄付し、お米一斗に化けてしまった。

 しかし、音楽についての思い出で、一つだけ今でも覚えているものが一つある。父に連れられて何処か広い屋敷のようなところの庭で休んでいる時だった。どこからか聞こえて来た当時言われていた西洋音楽が気に入って、帰宅してから、そのレコードがたまたま家のレコードのアルバムにあるのを見つけ、何という曲だったか忘れtしまったが、何度も繰り返して聴いたことがあった。

 しかし戦争に向かう時代には音楽といえば、軍歌や国威高揚の歌をうだけで、少年時代を過ごしたので、音感はさっぱり鈍く、戦時中に敵機の爆音を聞き分けるためと言って、ピアノで和音を聞き分ける訓練もあったが、さっぱり分からないままであった。

 戦後も混乱する世の中で、音楽どころではなかったが、音楽の好きな友人がいて、焼け残った女学校の講堂で開かれた辻久子のコンサートへ一緒に行ったことがあった。それがきっかけとなったのか、戦後は落ち着いてくると共に音楽会へはしばしば行くようになった。

 昔の黒い壁の朝日会館での、労音や学音などの安い音楽会、朝比奈隆の関響の演奏会などに繁々と通ったものであった。しかし、まだ戦後の荒れた世の中が続いていたので、音楽に浸る度に、現実世界とは全く別世界へ来たような感じがして、世の中がまだ荒れて困窮している人も多いのに、こんな贅沢な時間を経験しても良いのかという気持ちがしてならなかったものであった。

 こうして音楽を聴く方には関心も深くなり、惹きつけられるようになっていったが、子供の時から全く楽器には触れて来なかったし、音楽に対する基礎知識もなく、何か楽器を習う機会にも恵まれなかったので、自分で楽器を扱う方は全く不器用で、自ら習おうという気にもならなかった。

 それまでハーモニカなどをいじったことはあったが、さっぱりうまく弾けないので諦めて、楽器からは遠ざかっていた。結婚して子供がで出来た時にピアノも買ったが、子供には習わせても、自分では練習しようという気にもならず、時にピアノの前に座っても、弾けるのは時代錯誤の「レドレミソミレ・・・」しかなかった。

 ただ驚かされたのは、子供が当時流行っていた「鉄腕アトム」の音楽を、教えてもいないのに、自分で真似してそれらしく弾くことであった。音楽というのはこういうものなのだとつくづく思わせられた。楽譜があって、それに従って弾くものではなく、教えられなくとも、耳から入った音の記憶を頼りに、それに似た音をたたき出すものだなと。

 もう大人になってしまってからは、とてもついていけない。ハーモニカさえ吹けないし、楽器の演奏はは諦めるよりないようである。学生時代の友人でヴァイオリンやマンドリンを練習している者もいたが、私にはとても無理なことであった。どうも私には音に対するセンスが発達しておらず、指を器用に使う運動神経にも欠陥があるようである。

 子供たちが学校に行くようになると、いつの頃からか、レコーダーと言われる吹奏楽器を買わされ、授業でも皆で合奏するようになっていた。私に出来ないことを全ての子供がやっているのを聞いて、父親参観日に学校へ行った時に、先生に訪ねたことがあった。「多くの色々な子供がいるだろうから、中にはどうしてもレコーダーを吹けない子もいるでしょう。そんな子にはどうするのですか」と問うと、何と先生は「皆、適当に吹きますよ」と答えられてびっくりしたものであった。

 それからもう何十年も経ってしまっているが、とうとう私には楽器は無理であった。歳をとれば、運動神経も衰える。仕事の関係からも、タイプライターからワ~プロ、パソコンと、早くからずっと使ってきたが、とうとう未だにブラインド・タッチの標準的なな指の使い方が出来ないまま、ずっと一本指で操作しているぐらいだから、今更、ピアノはおろか、どんな楽器も無理である。

 ところが今年の初め、アメリカから帰って来た娘がレコーダーを二本買ってきて、女房と私に練習してはという。ヴェートーベンの第九の歓喜の歌のさわりの一部分が優しいから、それから吹いて練習したらという。

 楽器を吹くことは、年寄りの嚥下障害防止などにも役立つとも言われているので、ほんの一部分だけを練習することにした。初めはどうしてもまともに音も出なかったが、珍しさも手伝って毎日やっているうちに、指の捌き方も、息の吹き込み方も少しづつ慣れて、何とかそれらしい音が出るようになったので、毎日繰り返すようにしているが、こんな短い一部分だけでも、なかなかうまく出来ないので、なかなかそれ以上には発展しない。

 もう諦めて、上手に吹けるようになることは目指してはいないが、誤嚥防止などに少しでも役立てればと思い、今も毎日食事の後に、ほんの一二回だけ、吹くようにしている。

 コロナのおかげで、この三年間、音楽会へも殆ど行けなくて、クラシック音楽も、時に古いCDなどで聴くだけになっているが、自分では出来なくても、音楽は聴くだけでも楽しいものである。

 

 

移民は取り合いに(移民争奪戦)

 バブル崩壊以来の産業の停滞が続き、少子高齢化による労働力の減少が起こり、女性や高齢者の活用が進んでも、今後とも、ますます人口の減少が続くことは避けられず、労働力を維持して産業の持続的な発展を続けるためには、国内だけでは賄い切れず、外国人を受け入れて労働力を確保しなければならない事態は既に始まっている。JICAの推定では2030年には63万人の労働者が不足するという。

 ここ2〜3年、コロナ流行の影響で多少変わっているであろうが、日本で働く実習生は約40万人とも言われ、日本経済、特に地方の農業や製造業には不可欠の存在になっている。気がつけば既に日本は移民大国になっており、今後もますますこの道に踏み込んで行かざるを得ない運命になっているのである。

 日常生活の中でも、近くのコンビニでも、農村へ行っても、何処でも外国人労働者を見かけることが珍しくなくなっている。日本政府も移民政策を検討したり、移民庁の創設まで考えられたこともあったが、その後、安倍政権は「中長期的な外国人財の受け入れは移民政策と誤解されないように」として積極的な移民には反対している。

 政府はあくまでも労働力の補充としての、出稼ぎ労働者を受け入れても、外国人の移住については否定的なようである。スリランカのの女性の入国管理庁の収容所における死亡事故からもわかるように、日本滞在の外国人の保護は極めて厳しいのが現状である。

 しかし、日本の人口減少が進むとともに、韓国でも、もっと厳しい人口減少が既に始まっているし、中国も一人っ子政策の結果として必然的に人口減少が始まっており、近い将来に労働力の不足が問題になるであろうことは必定である。同じ人口減少でも、それぞれ事情は異なるであろうが、何処も労働力不足を補うためには、ある程度外国人労働者に依存しなければならないことになろう。

 そうなると、移民の取り合いが起こることになるのではなかろうか。如何に優秀な移民をより多く確保するかの競争となる。

 優れた移民をより多く受け入れるためには、移民の待遇如何が一番の問題となるであろう。経済的にも大国となった中国は市場も大きいだけに、いつの日にか大量の移民が押し寄せる日が来ることも考えられる。そうなれば、東南アジアの諸国からの移民は日、中、韓などでの熾烈な奪い合いという事態も考えられる。それに対する対処をもそろそろ考慮しておくべきであろう。

 韓国でも93年に日本の技能実習制度をまねた「外国人産業研修制度」を導入して、外国人労働者を研修生として受け入れを始めた。しかし、日本への実習制度同様、訪韓のために高額の手数料を仲介業者に払い、大きな借金を抱えることになり、その上、労働現場では低賃金で、窮して職場を飛び出すなどの問題が起こり、ひどい時には失踪率が60%以上にもなったようである。

 そこで、韓国では2004年から雇用許可制度に切り替えられ、国同士が送り出しや受け入れの責任を持つようになったそうである。その結果、労働法や人権の教育、住環境の用意などを整えた企業に、優先的に雇用許可書を発給し、仕事内容が雇用契約と違ったり、パワハラを受けたりした場合には、職場を移れるようにした由である。その結果、訪韓費用に100万円近くもかかったのが、飛行機代とビザ代ぐらいになり、労働者として法令で保護されることにもなり、賃金も上がり、賃金未払いなども減り、失踪者も激減したそうである。

 それに対して日本では、今なお外国人労働者の半数近くが技能実習制度の留学生であることからも分かるように、日本社会に必要な働き手として正面から受け入れず、あくまでも定住につながる「移民」を避けて「外国人」と呼び、法や権利の上で国民との格差を正当化しようとしている。言葉や文化の壁がある上、労働条件や権利が不十分な状況に置かれ、新型コロナウイルスの感染が広がると、真っ先に職を失ったのが技能実習生だったということにもなった。

 日本でも、以前の韓国同様多額の借金を払って来日したが、安い給料と職場環境に耐えられず、失踪する人が後立たず、その上最近はコロナで仕事が途絶えたが、コロナ禍による減便やチケットの高騰で帰るに帰れず、仲間で助けあて困窮生活を続けている人たちも多いようである。

 もともとこの島国は閉鎖的になりやすく、人種差別なども強いので、国内の外国人にも日本を構成する一員だという意識に乏しく、「日本では外国人はニューヨークなどと違い、本当に多国籍に生きていない。用を済ませたらさっと帰る場所。観光客も他に住んでいて帰るまでの場所。『中継地』の感じ」だと、香港、韓国、欧州などで映画を撮るクアラ・ルンプール生まれのリム・カーワイ監督は言っている。

 ここらで日本も少し変わらなければならないだろう。本来、日本人は大陸や南方など、多くの場所からの移民の交流によって成立した民族であり、社会の発展はいろいろ多彩な遺伝子を持った種種雑多な人々の交流によって進むものである。人口減少のこの機会を”新弥生時代”として、移民する人たちにとって魅力のある国を目指し、積極的に有能な移民に出来るだけ多く来て貰い、新たな新日本人を創生することが、この国の将来の発展の礎になるのではないかと思う。

 先日、我が家の電気温水器を新品に取り替えたが、その時、工事に来ていた会社のベトナム人は日本語も達者で、日本語で車の免許証も取った人だったが、頭脳明晰で、説明も的確な優れた青年であった。言葉のちょっとした訛りで初めて外来人と判ったのであった。

 日本の将来の助っ人として、是非このような優秀な外国人に多数移民として来て欲しいものである。日本が生き残るためには、政府に早くそのことに気付いて貰い、それに応える態勢を整えて欲しいものである。

 

 

 

「シチ」か「ヒチ」あるいは「ナナ」か?

 数字の七は音読みで「シチ」訓で「ナナ」が正しい読み方であろう。しかし、「シチ」は読み難いためか、地方によっては訛って「ヒチ」と読まれたり、数字なので間違いを避けるために、訓読みの「ナナ」を使ったりすることが多いためか、その読み方は人により、またその場によって、随分まちまちのようである。

 数字の「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」は言うまでもなく「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、クー、ジュー」と読むのが正しいであろうが、名古屋や関西地方では7は「シチ」ではなく「ヒチ」と読まれることが多い。

 私など両親が名古屋で、育ったのが大阪だから、子供の時には7は「ヒチ」とばかり思っていた。そこから質屋も「ひちや」であり、七福神は「ひちふくじん」であった。「ヒチ」は単に方言というだけではなく、「シチ」が発音し難いので、訛って「ヒチ」になったのではなかろうか。「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、ヒチ、ハチ、クー、ジュー」である。

 「ヒチ」と言わない人たちでも、「シチ」に問題のあることには変わりなく、間違いのないように、訓読みの「ナナ」を使うのが見られる。1から10まで数えるような時にも、間違いなどを避けて正しく伝えたいようば時には、あえて「シチ」を避け、わざわざ訓読みの「ナナ」で使う場合がある。

 殊に、1から順に数えるのではなく、10から逆に減らして言う時には、ジュー、クー、ハチの次はナナ、ロク、と、「シチ」を避けて「ナナ」を使う人も多いようである。

 「ナナ」は言うまでもなく訓読みの「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお」あるいは略した「ひー、ふー、みー、よー、いー、むー、なー、やー、こー、とー」から来ているのである。

 数字は日常生活のにおける基本的な情報であり、人々の間の物の交換にも不可欠の言葉なので、不明瞭な表現を避け、相手に確実に伝えるために、「シチ」を「ナナ」と置き換えることが多くなったのであろう。 そこに「シチ」が必然的にに訛って「ヒチ」とも言われるようになり、同じ数字の七の読み方がこんがらがって来たからでもあろう。

 私など、いつもが「ヒチ」という方だから、辞書を引く時などに、ついうっかり七を「ヒチ」で引いてしまってまごつくことがあったものである。ただ、私だけでなく、そう言う人も多いと見えて、どれだったかの辞書では、七福神は「ひちふくじん」「しちふくじん」どちらからでも引けたし、Googleでは今でも両方で七福神は出てくる。ただし、私のパソコンの文字変換では「ひちふくじん」で引くと「脾血副腎」「妃血副腎」などと出てきて、七福神は出てこない。

 しかし、質屋なら恐らくどこででも「しちや」でも「ひちや」でも出て来るのではなかろうか。質屋は今では減ってしまったが、以前多かった頃には、わざわざ平仮名で「ひちや」と大書した看板を掲げた質屋もよく見たものであった。今でも質屋は「ヒチヤ」ではなかったかなと思いかけ、「質問」「本質」などの文字を思い浮かべて、「シチヤ」であることを確かめることがある。

 また日常生活でも、七年というのは「ナナネン」の方が「シチネン」よりよく使われているのではなかろうか。七転八倒、七五三、七五調、七面倒、七輪、七味などは殆ど「シチ」と呼ばれるが、七回忌、七音、七日、七七日、七変化、七回などでは時により、「シチ」とも「ナナ」とも読まれる。しかし、七草、七分搗、七色、七重、七竈などは訓読みで「ナナ」と呼ばれるのが普通である。

 日本語は難しい。日本人でも読み方一つでも、こんなにややこしいのだから、外国人にとっての日本語はそれこそ厄介なものであろう。

 

ひどくなった機能性食品の広告

 最近のテレビを見ていると、コマーシャルがやたらと増えて、番組との境界さえはっきりしない場合もあり、ついチャネルをNHKに変えたり、テレビを消してしまいがちである。

 そのコマーシャルもまたひどいものが多くなった。まるで詐欺まがいの視聴者を欺くようなコマーシャルが多い。殊に、老人相手の機能性食品と言われるような、健康に良い、老化を防ぐ、足腰の衰えによく効くなどといった類の、薬とも食品とも言えないような部類のものの広告で、まるでそれだけ飲んだり食べたりすれば問題が全て解決するかのような誇大広告である。

 これらの広告主は人間の体をまるで玩具の人形のような単純なものと考えているのだろうかと疑いたくなる。宣伝元と、広告会社が儲かりさえすれば良く、それを飲む人のことを本当に考えているのか怪しくなる。それに乗せられる方が悪いと言われるのかも知れないが、中高年ともなれば、誰しも日常生活を妨げがちな弱みを持っているものである。何とかこの悩みを解決したいものだと、藁にも縋りたい思いを持っているところに、甘い誘惑の声がかかれば、ついそれに乗せられることになるのを非難するわけにはいかない。

 薬でもない、機能性食品とでもいうべき、食品と薬の間のような品物を健康と結びつけて、弱みを持った人々に売りつけようとする広告が酷すぎる。どう考えてもその品目で宣伝されているような効果が考えられないようなものまで、まるで視聴者を欺くような目を覆いたくなるような広告まで流されている。

 それをまた真に受けてなのかどうかわからないが、普通の食事の他にこういったものを何十種類も飲み続けている人が実際にいるから恐ろしい。

 食品でもない薬でもない、その中間のようなものは、多くは不要な金銭を投じても、目的が達せられることなく、毒にも薬のまらないものが多いであろうが、多くのもの一緒を飲んだり食べたりすると、どんな副作用が出るか不明な点も多い。

 人体には巧妙な解毒作用も備わっているが、それにも限度がある。人の弱みに漬け込んで不要な金銭を払わせ、効果があるどころか副作用の心配もありうる様なものを売りつけることが社会的に公正な行為と言えるだろうか。

 食事や生活の注意を守れば十分健康状態を維持出来るものを、怖がらせられて不要なものを飲んだり食べたりさせれることにもなりかねない。恐喝や詐欺に近いとも言えるのではなかろうか。

 多くのそういったものを一緒に摂ることによってポリファーマシーに近いことだって起こりうるであろう。しかもそういったことに対する注意の喚起や警告などは一切ない。全てが効果の宣伝はあっても、過剰摂取や複合摂取の場合などの注意の喚起もない。

 朝日新聞2022.9.9.に「長期政権からの宿題」として、消費生活コンサルタント森田満樹さん

のこういう機能性表示食品に関する記事があったが、それによると、アベノミクスの第三の矢、規制緩和による経済成長戦略の一つとして、政治主導であっという間に設立され、消費者の利益のためというよりも経済のための制度であると言われる。

 特定保健用食品(トクホ)は国が審査し許可するのに対し、届け出だけで機能性表示が可能となり、大幅に規制緩和されたものらしい。トクホは許可にあたり製品そのものを人間に投与した試験が必要だが、機能性表示食品ではヒトの試験を行わなくとも、機能性に関する成分の文献評価でも良いとされており、約2600点の商品が販売中だとか。市場規模はトクホを上回っており、届け出時に情報を公開しているが、一般消費者が容易に内容を読み解けるものではない。市場で不適切なもののチェックを行政が行うとされているが、監視が行き届いているとは思えないと言われている。

 こう言ったものは、長い目で見れば国民の健康に影響を与えるものであり、国民の健康問題を無視して経済優先で国民に押し付けても良いものであろうか、問題のある広告が多すぎる。

認知機能に関わる商品のインターネット広告のうち六割近くが法令違反の疑いを指摘されたそうである。届け出をした機能性の範囲を逸脱した表現をするなど問題のある広告が数々あるとも言われている。

 国民の健康を守るためには、広告のみに止まらず、トクホ、機能性表示食品、栄養機能食品を含め、保健機能食品制度全体を見直す必要があるのではなかろうか。

夏から急に冬

 今年は地球温暖化のためか、10月になってからも連日30度という真夏のような日が続いて、いささか倦怠気味であったが、10月5日に天気が悪くなったと思ったら、6日から急に気温が下がり、大阪でも20度を割り込まんばかりとなって震えんばかりとなった。、北海道などでは2−3日まで20度以上あったのが、6日にはもうマイナスになって、凍っているとかテレビで言っていた。

 十月の初めには、まだ半袖シャツ一枚でよかったのに、今朝などは長袖のタートルネックの綿シャツに、ネルのような厚手のシャツを重ねていたが、それでも肌寒くて我慢しづらいので、もう一枚カーディガンを羽織る始末。念の為と思って、小さな電気ストーブまで引っ張り出して来た。部屋の温度計は丁度20度だった。

 暑さに慣らされていた体が、あまりにも急な変化に付いていけない感じである。びっくりして風邪でも引きそうである。この季節は昔でも気温の変動や朝昼の温度差が大きい傾向にあるものだが、今年のような極端な変化はあまり経験がない。老人にとっては耐え難い感じである。

 今朝の新聞には「合服が出番ないぞと号泣す」という千葉の人の川柳が乗っていたが、歳をとると夏は背広を着る機会が少なくなるし、こう急に寒くなれば、もう合服など要らない。冬のスーツさえあれば間に合うのではなかろうか。

 以前に、何処かで日本には最早四季はなくなった。あるのは冬と夏の二季だけだと書いたことがあったが、近年の季節の移り変わりは険しく、一番気候が良く快適な春や秋が奪われてしまった感じがし残念でならない。

 人新世などと呼ばれる人間の営みの結果なのか、宇宙の大きな周期的な変化によるものか分からないが、これによって人々の生活が大きく影響されることは間違いないであろう。人類全体で対処の仕方を考えなければならない問題であろうが、余命少ない老人にとっては、最早黙って静かに耐えるしかない。

 それでも、北海道の人たちなどは大変であろうが、大阪では、まだまだ我慢の仕様もある。少々季節の移り変わりが険しくても、差し当たりは、もっと寒い冬がやって来る前に、短い秋を大切にして、美しい紅葉を眺めて野山の散策をするなどして、短い秋を大事にして満喫しなければ勿体無いであろう。

老人仲間にも入れてもらえない

 最近は少子高齢化の時代となり、家の近くでも昼間に通りを歩いているのは老人ばかりとい言っても良いぐらいである。

 車椅子の人がいるか思えば、シルバーカーを押して行く人もいる。その後を行くのは杖をついた老人、次は若いといっても、もう中年過ぎの娘に支えれれるようにして歩む老婆であり、少し行けば、街角の椅子に座って一服している老人もいる。

 もちろん、中には買い物袋を下げた老人や、散歩かハイキングか知らないが、リュックを背負って歩いている元気な老人たちも通る。場所や時刻のよっても異なるが、これが近頃のラッシュアワーを過ぎた我が家の近くの町の平均的な風景である。

 自分もその仲間の一人で、杖をついて歩いているし、ある時はシルバーカーを押していたこともあった。散歩に疲れて、途中で街角の何処かに座らせて貰ったこともあった。ずっと自分もそれらの老人の仲間だとばかり思っていたが、ある時ちょっと気になって周りの老人たちを観察して見て驚かされた。

 同じ仲間だと思っていた老人が殆ど、まだ私よりもかなり若いことである。さっさと行く老人は当然のこと、ヨボヨボのように見えても、よく見ると私よりも若い。何かの機会に話して見ると、多くの人たちは私とは十歳は違う。戦後生まれでさえ、最高は七十七歳になるのだから、もう立派な老人である。自分の歳を言うと必ずといって良いぐらい「お元気ですね」と感心される。

 そういえば、新聞などの広告でも近頃は老人相手の広告がやたらと多くなった。毎日のように、保険薬や健康食品のようなものの広告で、足腰に良い、睡眠に良い、便秘に良い、何に良い、一度是非試してみて下さい等などといった広告に溢れている。

 しかし、それらの言い分を聞いていると、いずれも老人と言っても、60代、70代ぐらいの年代の人たちを対象にしており、今使用したら老化を防げるとか、遅く出来るとか言った類のものである。何やかやの物で、老いを抑える、隠す、防ぐなどのための広告のようである。

 新聞や雑誌などの広告を見ても、老人物が多いが、老人の整理学だとか、老人入門、七十歳の壁、八十歳の壁、七十歳からの選択、老いに負けない生き方、七十歳が老化の分かれ道、老人取扱説明書、老の品格、老けない食事、老いなき世界、最高の老後、等々。見ると、やはり七十、八十歳代ぐらいの人たちが対象になっており、いかに元気に老年期を過ごせるかと言ったことが問題の中心の様である。

 ひょいと気がついたら、私はそういった老人集団からも、いつの間にかもう外れてしまっているようである。もう九十を超えたような老人には用がないと言わんばかりである。もうその対象を過ぎてしまってまで生きられたのだから喜ぶべきかも知れないが、もう老人仲間からも疎外されてしまったのであろうかという一抹の不安、寂寥を感じないわけに行かない。

 それでも今や、この国では、百歳を超えた人が5万人以上もいる様だから、九十歳も越えればいわゆる老人ではなく、今度はそちらの超老年期の人たちに加えてもらい、それなりの生き方生活の仕方を学ぶべきなのでであろう。

 

歳を誤魔化す

 誰でも自分の歳は勝手に変えられないが、世間で生きていくためには、その場その場で、自分に都合の良いように、一つや二つ年を誤魔化したくなることがあるものである。

 子供から思春期頃までは、早く大人になりたいという願望から、少しでも大人に近く見せ、一人前に見て貰いたくて、一つ二つ年齢のサバを読んで、自分を主張する傾向がある。小学校四年生だった頃、同じ学校の子で、体の大きかったことも踏まえて、校外では六年生だと言って威張っていた子がいた。

 その子の他にも、中学校などでは、同僚よりも自分が早く成長しているのだ、偉いんだと自慢するため、校外では、年齢や学年を誤魔化す子もちょこちょこ見られた。また、少し成長してからも、まだ未成年なのに、成人振って酒やタバコをやりたいために年齢を誤魔化す手口は、昔から広く使われて来ている。

 こういった年齢を偽る傾向は、成人した若者にもしばしば見られるもので、若くて何かの役職についた者などでは、部下や世間に軽く見られないように、少し年齢をサバを読んで実年齢より少し上に見せようとする傾向があるが、面白いのは、同一人物が、自分が若くして役職に就いたことを自慢するような時には、実年齢を使うか、あるいは一つでも若く言う傾向にあることであった。

 結局、外観からはある程度の想像はついても、歳のわりに若く見られる人も、老けて見られる人もいるので、公式に年齢が示されている時は仕方がないが、そうでなければ、人はその時の状況に応じて、適当に自分に都合の良いように、年齢を誤魔化したがるもののようである。

 幸い日本では数えの年齢というものがあって、生まれた年を一歳とするもので、古くはそれが広く用いられて来たこともあり、実年齢と数え年を使い分ければ、一歳は自由に年齢を操作出来る余地があるのである。その時や場所に応じて、適当に二つの年齢を使い分けている人も多い。

 年齢を一番誤魔化したいのは女性である。成人を過ぎた女性は少しでも若く美しく見せたいので、化粧に工夫して若造りするのが普通のようで、ことに最近では、なかなか実年齢が想像し難い人が多い。黒柳徹子さんなど、私と五歳ほどしか違わない筈なのに、テレビで見る姿はどう見ても老人には見えない。

 今時の女性は皆が化粧しているので、化粧姿の女性の年齢は判らない。そんなこともあってか、女性には平気で五歳も十歳もサバを読む人もいる。昔、佐渡島へ行った時、連れの女性がゆうに三十五〜六歳は超えていた人だったのに、空港での年齢申請に、しれっとして二十八歳と書いていて驚かされたことが忘れられない。

 年をとって来て来ると、いつまでも若くありたいという願望から、男も女もなるべく若く見られるように、化粧などで若く見せるだけでなく、少しでも年齢も若く言いたがるものである。しかし、それにも例外はあるし、限度があり、他人は自分の思うようには見てくれないのが普通のようである。

 高齢になるにつれて体力の衰えが次第に隠せなくなり、種々の病気の後遺症などが加わることもあり、社会的にも仕事を辞め、徐々に老後の生活に移っていくと、どうしても自分の歳を自覚せざるを得なくなって来て、若く見せることにも限界を感じるようになる。

 背中の曲がって来たことや、足腰の衰え、白髪、しみやしわ 運動能力の低下など、嫌でも自覚させられ、次第に老いを受け容れざるを得なくなるとともに、最早、次第に若造りの必要もなくなって来る。男も女もさして変わらない。喜寿や米寿などともなると、最早それなりに比較的に素直に受け入れられているようである。

 ところが、さらに年齢が進んで九十歳も超えてくると、今度は自分の歳が自慢の種になって来る。九十歳を超えても元気で生きていることを自慢したくなる。他人から「お元気ですね」と認めて貰いたくなる.。そのためには、今度は歳が多い方が良い。他の老人と歳を競い合うことにもなる。今度は年齢をひとつやふたつ上に誤魔化したくなる。そうかと言ってこの歳になって大法螺も吹けないので、せめて満年齢でなく、数えの年齢で表現するようにしたくなる。

 私も九十歳を超えてからは、数え年を使いたくなることがよくある。今年は数えで言えばもう九十五歳である。よくこの歳まで長く生きて来れたものだと思うことがあるが、こうなれば、もう白寿も来いと言うところである。

 来年は満九十五歳になるので、白寿までもう四年だが、数えで言えば、来年は九十六歳なので、あと三年ということになる。いつまで生きられるか分からないが、この三年と四年の差は大きい。実際どうなるかは運を天に任せるよりないが、果たしてどうなることやら。