私が初めて回転寿司屋で食べたのは、何とメルボルンでのことであった。もう十年ぐらいも以前のことであっただろうか。その頃はまだ従来同様の寿司屋も多かったし、寿司が特別好きだと言うわけでもなかったので、つい日本ではそれまで行きそびれていたからであった。
メルボルンでは、丁度大晦日に当たる日だったので、打ち上げ花火を見たり、街をうろついたりした後で、適当な食堂が見当たらなかった時に、たまたま街角に回転鮨屋を見つけたので、こんな所にまであるのかと驚き、興味半分で入ったのであった。
その後になって、日本でも、回転鮨屋へは時々行くようになり、時代により、またそのチェーン店の系列によって多少仕様の違うことも覚えた。回転鮨屋の良いところは、従来の店のように、客がケースに入った魚を見て注文し、それに応じて握ってくれるのではなく、座っている前にコンベアに乗った色々な寿司が運ばれて来るので、その中から客が選択して取れば良いだけなので、全く気を使う必要がないし、対面でないので、板前との会話はないが、客同士では気分的に返ってゆっくり出来る利点もある。店の方も、従来の寿司屋では考えられない大量の寿司を少ない人手で処理出来るので、効率的であり、大規模の店を運営することが出来るようになったことであろう。
そんなビジネスとして効率的なので、やがてチェーン店がいくつもでき、全国的に流行しだし、挙げ句の果てには外国にまで拡がったのであろう。
ただ、コロナ流行で、大勢の客が並んでコンベアの前に座る方式は感染リスク上問題とされ、他の大規模な食堂関係と共に敬遠されることとなり、運営が危ぶまれる様なことにもなった。いつだったかその頃、何かの会合の後に、立ち寄った回転寿司屋があったが、そこでは、コンベアベルトは全て止まってしまっており、その奥に設けられた室内の普通の食堂のようなテーブル席での商売だけになっていた。コロナでどうなっていくのかと人事ながら気になったことであった。
ところが、最近コロナも大分下火になって、ウイズコロナ政策が叫ばれ、種々の規制が外されて来たので、何年振りかで、回転鮨屋に立ち寄ってみた。混まないうちにと時間を見繕って行くと、開店直前の一番乗りだったが、開店と同時にバタバタと何組もの人たちがやって来たのには驚かされた。依然として開店寿司の人気は高い様である。
しかし、それより驚かされたのは、しばらく来ない間に寿司屋がますます機械化、自動化が進み、合理化されてきた事であった。まず店内に入ると、入り口に機械があって「大人何人、子供何人、坐席はボックス席かカウンター席かを選び打ち込むと、それらの結果と共の順番の書かれた紙が出てくるので、それを持って待合室で順番を待つことになる。私たちは早かったのですぐ順番が来たが、今度は待合室から中へ入る入り口にある機械に、先ほどの紙を入れると座席番号の書かれた紙が出てくるので、それを持って奥に進み、座席番号に従って座席に着くことになる。
カウンター席の後ろを通って、指定されたボックス席を探して、席に着いたが、カウンター席は一人で来る人のための様で一席ごとに大きな透明プラスチック板で仕切られていた。ボックス席の方は従来通りの様であったが、一番乗りだったので、まだ他の席はがらんどうだったが、コンベアは既に廻り始めていた。
ところが、コンベアはまだ空の皿が廻っているだけだった。そのうちに廻って来るのだろうと思って、ちょっと上を見ると、「スマホでも注文出来る様になりました」と書かれている。コンベアは空っぽだし、ひょっとしたら、全てスマホで注文しなければ食べられないのではないかと心配になる。スマホでないと注文出来ないとなると、老人はスマホの操作が気になって、ゆっくり食べることも出来ないのではなかろうか。
幸い、そのうちにコンベアの寿司も次第に廻ってくる様になって、安心して食べることが出来るようになった。スマホでの注文というのは、従来からある2本目のベルトで、注文品が急速に運ばれてくる寿司についてのものであった。
寿司のネタが従来より一回り小さくなっていることに気付いたが、これは万事値上がりの時勢で、他の商品や食品でも見られる現象なので仕方がない。老人並みにそこそこの皿数を食べて終わった。
食べ終わって少しゆっくりしてから会計に行くと、そこには「セルフレジ」と書かれたレジが二つ並んでいた。先に貰った用紙を挿入し、カードをかざせば機械が計算して、レシートが出てくる。それで全て終わりである。そこにいた係員が「ありがとうございました」と言ってはくれたものの、全く人手を要しない。スーパーやコンビニばかりか、こんな所までセルフレジとは、老人たちはますます行き難くなる感じである。
寿司屋は効率良く客を捌けて、儲けも大きくなるかも知れないが、一人で来た客なら、初めから終わりまで誰とも話さず、黙ったままでコンベアから寿司を取り、あるいはスマホで注文し、廻ってきた寿司を黙って食べ、黙って会計を済ませ、黙って立ち去ることになる。
これなら、コロナが流行っていても、うつる可能性はゼロに近いであろうが、それではあまりにも寂しいのではなかろうか。
天才は孤独を愛するというから人にもよるだろうが、せっかく寿司を食いに来たのに、店の者とも、他の客とも、誰とも話さず一人で黙って寿司を食べ、黙って帰るなど、昔だったら考え難いことであったであろう。
回転寿司は従来の寿司屋と比べ安く何処にでもあるから、手軽に行けて美味しいので人気があるのであろうが、大量生産、大量消費の商売は、昔の寿司屋のような人と人の関係を奪い、客を儲けの対象としか見ない傾向を強くしているとしか言えないのではなかろうか。
資本主義が進めば進むほどに、会社は益々大きくなって儲かっても、客である一般庶民は益々、細やかで静かな楽しみまで奪われて、孤独を強いられていくのであろうか。