軍拡よりも今こそ外交に力を!

 最近の新聞や世論の動向を見ていてどうしても解せないのは、中国をどうしてこうも悪者にして排除しようとしているのか不思議である。中国の発展が著しく、経済的にも日本を追い抜き、アメリカと並ぶ大国になっていく様に妬みを感じるのはわかるが、これまで世界に君臨して来たアメリカが、それを何とかして抑えようとしていろいろ工作しているのに乗せられて、アメリカに従属しているにしても、どうして日本までが危機を煽り立てて、軍備の増強はおろか、先制攻撃能力まで備えなければならないのかは甚だ疑問である。

 中国がいま何処かの国を攻撃しようとしている気配はない。台湾を上げる人がいるが、台湾が中国の一部であることはアメリカも日本も認めていることであり、今もそれは変わりない。今度のバイデン大統領の来日時にも、「台湾攻撃があればアメリカは武力を使う」と言っては、失言とされ、「一つの中国の認識に変化はない」と再三訂正していることでもわかる。

 政府の発表やメディアの危機の表現を見ても、ロシアの侵略に反対し、北朝鮮のミサイルや核開発を非難しても、中国に対しては、「台湾海峡の緊張」とか、「経済安全保障で警戒の対象とされる中国」としか言えないことに注意を払うべきである。中国を危機の対象としようとしても、万一中国が台湾を攻撃したとしても中国の国内問題であり、アジアの危機とはならない。中国に関しては、現在実際に差し迫った危険性は存在していないのである。

 それにもかかわらず、どうして今、日本が平和憲法に反してまで、軍備を拡張し、敵基地攻撃能力までつけねばならないのか疑問に思う人も多いであろう。これはどう見ても、日本の発想ではなく、アメリカに指示され、煽られているものとしか考えられない。

 現在中国と日本の間には、戦争をしてまで解決しなければならない矛盾は原則的にない。尖閣諸島を挙げる人があるかも知れないが、それは局所的な問題で、外交的に解決出来る範囲の問題に過ぎない。

 それより中国は日本の隣国であり、歴史的にも結びつきが深いアジアの大国である。経済的な結びつきも強く、中国なしには日本の存在さえ危うくなるぐらいの深い関係がある国である。戦争や対立などより、善隣友好こそ不可欠であろう。どうして軍備増強より、もっと友好のための外交努力をしないのであろうか不思議でならない。これもアメリカの中国敵視政策に無理やり従わせれているためとしか思えない。

 日本は安保条約や地位協定アメリカに従属させられていることは知っている。しかし、アメリカがいかに中国を敵視ししても。中国のすぐ隣に存在し、中国なしには生きていけない日本が、中国から遠く離れたアメリカの指示に従って、中国を敵視することはないであろう。

 安保条約も自国を破滅させてまで、アメリカに奉仕することを要求するものではあるまい。条約を改正してでも、日本は独自の姿勢を正し、アジアの独立した国として、軍備より外交に力を入れ、隣国とも平和共存で行くべきことは国民の皆が望んでいることではなかろうか。

 第三次世界大戦になって人類滅亡でも起こらない限り、中国はなくならない。中国と戦っても、譬へ局所の戦闘に勝ったとしても、戦争には勝てる筈がない。それより、善隣友好で経済的な結びつきを強めた方が将来の発展性もあり、お互いに遥かに得るものが大きいだろう。

 今こそ、軍備拡張ではなく、善隣友好の外交力を強め、押し進める時であろう。コロナが落ち着いたらまた大勢の中国人にも来てもらおう。経済も潤うし、善隣友好にも役立つであろう。

 

 

索端を垂らすな

 若い頃は何をするにも機敏で素早くこなし、他人に遅れを取るよようなことはなかったが、歳をとるといつまでもそういう訳にはいかない。道を歩くのも、昔はいつも人を追い抜いていたものだが、今や、若者ばかりでなく、女性にも子供にも追い抜かれる。食事の時にも、もう皆が終わっているのに、自分だけがまだむしゃむしゃ口を動かしていることになる。

 何処かへ出かける時も、女房がもう玄関の扉を開けて待っているのに、まだ靴紐を結んでいたりする。紐のないスリッポンのような靴にすれば良いのかも知れないが、今のところ、散歩に行くには、紐で結ぶ普段履きの革靴が一番歩きやすいのでそれに固執している。

 ただ靴を履くのにも時間がかかる。先ずは靴の中に入っている靴紐を出し、足を入れて、靴紐を結ばなければならない。若い時と違って、どの動作にも時間がかかる。靴紐など脱いだ時から外へ出しておいたらと女房は言うのだが、靴紐は脱いだら必ず靴の中に入れるようにしないと気が済まない。

 昔、海軍にいた時に、カッターなどの係留用のロープの結び方などを習ったが、その頃ロープの扱い方では「索端を垂らすな」と言うことがやかましく言われた。垂れたロープが事故の元になることを避けるため、船乗りにとっては大事な注意事項の一つであった。

 そんなことが身についたのか、靴を脱いだ後、靴紐が外にだらりと垂れているのも、それと似た感じで、我慢出来ない癖がついたようだ。脱いだ靴の靴紐は必ず靴の中に入れるのが習慣になっている。外に垂れていたりすると、何かだらしなく感じるのである。

 それに関連して、最近よく見かけるシャツの裾をズボンの外に出しているのを見ても、何かだらしのないような感じがして仕方がない。アップルの創始者スティーブ・ジョブスがシャツの裾をいつもズボンの中に入れているのがわざわざ注目されたぐらい、今ではシャツの裾をズボンの外に垂らすケースが多いようだが、やはりだらしない感じがして好きになれない。それも「索端を垂らさない」習慣と関係があるようである。

 そんなわけで、やはり靴を脱いだ時には、靴紐は靴の中にしまわなければ気持ちが悪い。当然、靴を履く時には、靴の中にしまった靴紐もを出し、それから足を靴に入れて、靴紐を結ぶことになるから、それだけ時間がかかることになるが、それは変えられない。

 ひょんなことから、昔の海軍時代のカッターの舫(もやい)や舫結びのことまで思い出し、「索端を垂らすな」と言う声が聞こえるような気がした。

日本はアメリカのために戦わされる?

 巷には日本は日米安保条約によってアメリカが守ってくれると思っている人もいるようであるが、日本にいるアメリカ軍は日本を守るためにいるのではなく、アメリカのためのアジアにおける前進基地として、利用するためにいるものである。

 朝鮮戦争の時も、べトナム戦争の時も、アメリカ軍はこの日本の基地から戦闘に出掛けていったのである。その他のアメリカが行った多くの戦争でも、日本の基地が前線基地として使われてきている。これらの基地は日本がどう言おうと、日米安保条約アメリカが自由に使う権利を持っているのである。

 最近のアメリカは自己の覇権を維持し、中国の発展を抑えたいため、仕切りに台湾問題を俎上に乗せ、最近はロシアのウクライナ侵攻を機会に、日米は揃ってそれを「国際秩序の根幹を揺るがす行為」だと非難する機会に、いつも「同様の事態がインド太平洋地域で生起することは決して許してはならない」と強調している。そのアメリカに言われて、日本は急速に沖縄や南西諸島の軍備強化に走り、敵基地攻撃能力までつけようとしている。

 しかし、現実は、中国が東アジアで近隣諸国へ攻めてくる必然性や可能性は現在のところ先ず考えられない。アメリカがしきりにに挑発しているが、中国の台湾侵攻も急がれないし、万一あったとしても、台湾が一つの中国の中であることは、今もアメリカも日本も認めているので、中国の国内問題であり、他国が容易に手を出すことは出来ないであろう。更には、直接の米中対決となると世界戦争に繋がるのでその可能性も少ない。

 従って、ありうるシナリオとしては、日本が先頭に立たされ、台湾やその周辺をめぐる混乱に関与させられ、中国の介入を引き起こし、ウクライナのように、日本に戦わせて、アメリカは直接手を出さず、軍事援助などで大儲けするだけというようなことが起こりかねないのではなかろうか。

 最近、日本では仕切りに軍備増強だの、敵基地攻撃能力だのと、平和憲法を無視する物騒な話が横行しているが、実態とあまりにもかけ離れているのを見ると、これらはアメリカからの巧妙な指図によってされているもので、日本を混乱に巻き込むための周到な準備ではないかと疑わざるを得ない。ウクライナではロシアに侵略させるのに8年も前から手を打っているのである。

 仮に台湾問題などで紛争が起きた場合、アメリカは有利と見れば加わるが、不利と見れば前線基地からはいつでも逃げられる。残った逃げられない日本は壊滅的な損害を被ることにもなりかねない。ウクライナと同じ運命であろう。

 それを避けるためには 今こそ軍備増強ではなくて、中国との交流を盛んにし、平和外交に努め、日中友好を図ることである。現在日本と中国との間には、解決困難な本質的な矛盾は何も存在しない。外交に努力し、日中が手を携えてともに発展していくことを目指すべきであろう。

 そのためには、アメリカへの従属のくびきを断ち、日本が独立した判断や行動が出来る立場を確保することが必須である。

はかない人生

 九十歳も過ぎると周囲の友達は皆死んでしまって、気軽に馬鹿話を話し合ったりする友達もいなくなる。尊敬していた先輩も、嫌いだった人たちも、少し下のうまのあった後輩までが、皆死んでしまって、今や過去の思い出しか残っていない。こればかりはどうにも仕方がない。

 社会的に有名だった人も、死んだら次第に忘れられていく。歴史上の人物も、物語などが作られて、その中で生き返えらない限り、もうその時代に逆戻りすることは出来ない。成功した人生も、失敗だった人生も全て終わってしまって、やがて忘れられていく。

 人生とは儚いものである。人類の運命は、ある時、たまたま此の世に生まれ、ある期間生存し、また死んで消えていく過程の繰り返しである。百年も生きた人は稀で、死ねば無になり、やがて忘れられていく。続くのは、人類という集団が入れ替わり立ち替わり、現れては消え、消えてはまた現れることの繰り返しである。

 人類の歴史は個々の個人の歴史ではない。無数の個々人が代々連綿として受け継がれて来たのが人類の歴史なのである。偉人で繋ぐ歴史は、後々の人達が面白おかしく脚色して歴史と称した物語に過ぎない。

 その人類も永久に続くわけではない。長い宇宙の歴史で見れば、ほんの一時、現れて、やがて消えゆく運命にあるのである。

 数え切れないぐらいの蟻の大群も、いつしか現れて瞬く間に消えていく一瞬を眺めているに過ぎない。いつか生きていて栄えたが、またいつかいなくなってしまった生物もこの世界には多い。かって栄えた恐竜の類も天体の衝突か何かで、ひょっこり絶滅してしまった。

 そんな大きな地球の歴史の流れの中で、地球をボロボロにしてしまった人類もやがてはは絶滅していなくなってしまうことは必定である。

 そこまで広く考えなくとも、自分が生きて来た狭い時間と空間の中だけを考えても、色々なことがあったが、ほんの一瞬とも言える短い時間のことで、この世に生かされてきた人生もやがて確実に終わる。

 どう足掻いてもこの運命を変えることは出来ない。それが人生である。この短時間だけにしても、それがたとえ夢だったとしても、自分なりに色々な経験をし、色々な人に会い、喜んだり、悲しんだり、笑ったり、怒ったりして、人生を楽しませて貰って、そっと消えていくことを感謝すべきであろう。

 はかないのが人生の本質であり、はかない人生には墓はいらないと思っている。

 

 

国民を助けない政府

 アメリカのバイデン大統領が来日した折に、北朝鮮による拉致被害者の家族たちは、また大統領の歓迎の宴の開かれた赤坂迎賓館まで出向いて、アメリカの大統領に助力を求めて懇願したと報じられている。

 拉致が始まってから既に四十年、その間、小泉首相北朝鮮に赴いて一部の人たちの帰国に成功したが、その時の失策で、その後の交渉が途絶え、全く問題の解決への糸口さえないまま時は過ぎ、北朝鮮側はもう問題は解決され、過去のものだと言っているとも伝えられている。

 政府はその間、拉致被害者救出のためにどれだけのことをしてきたか。北朝鮮を非難し、拉致問題を政治的に利用して来ただけで、今や全く交渉も進めようとすらしていないのではないか。

 その間に拉致被害者の家族たちも歳を取り、次ぎ次に世を去ることともなり、最早、政府に頼んでいても埒が開かないので、藁をも掴む思いで、アメリカ大統領にまで直接に懇願して、少しでも力になって貰いたいと言うのが拉致家族たちの切ない願いなのであろう。

 どうして日本政府は本腰を入れて拉致被害者を取り戻そうとしないのか。アメリカなどでは抑留されたアメリカ人を取り戻すためには、政府の高官が北朝鮮に赴いて、直接交渉して取り戻して来ているのである。

 交渉には当然こちらも犠牲を払わなければ取り戻すことは出来ないであろうが、国民の命を救うためには政府が全力を奮って交渉するのが常識である。日本政府もあちこちの紛争などで、無理な交渉をしてでも邦人の救出をして来たことも知っている。

 北朝鮮に拉致された人数から言っても、拉致されてからの時間の経過からしても、その交渉の困難であろうこともわかる。しかし、これまでの長い時間の間に取り返す機会が本当になかったのであろうか。四十年とはあまりにも長い時間である。拉致された人の現状もわからなくなってしまっているであろうし、拉致された人の生活基盤も最早日本にはなくなってしまっているであろう。

 拉致家族の諦めるに諦め切れない悲痛な心持ちは痛い程わかる。それに対して政府のやっていることは掛け声ばかりで、政治的に利用しているだけで、本気で交渉して拉致家族を取り戻そうとしているのか、疑問に思えてならない。

 交渉するなら、相手とコンタクトを密にして、こちらも大きな犠牲を払ってでも連れて帰ると言う覚悟がなければ成功しないであろう。北朝鮮が並大抵の相手ではないことはよくわかる。こちらが何処まで譲歩出来るか、するかであ理、何処まで真剣に助ける力を注ぐかである。

 政府はもっと犠牲を払ってでも、拉致被害者を連れ戻すために努力すべきであろう。問題の解決のためには、国民もその犠牲を感受するであろう。あとは政府が国民の命、拉致被害者の命をどう評価して行動するかと言うことだけである。

 もう遅すぎる感がなきにしもあらずだが、やはりここで国民の命を救うために、政府には今一層努力して貰いたいものである。そうでなければ、政府は国民の命さえ守ってくれないことを証明することとなるのではなかろうか。

 同様なことは沖縄についても言える。オール沖縄の全県民あげての選挙結果を無視してまで米軍基地移転を進めることは、国民の命や幸福よりも米軍との約束を優先させ、国民の要望を無視する政府の姿勢を明らかなものとしている。日米安保条約地位協定のあることはわかっている。その上での県民のはっきりとした意思表示なのである。

 その意思を尊重するなら、アメリカと交渉して国民の意思に沿って、条約の変更を求めるのが筋であろう。それをしないで、米軍の要求にそのまま従うことは政府が国民の命を守らないことをあからさまに公表しているものである。

 ここではこれ以上触れないが、現在の日本政府が決して国民の命や幸福をを第一に考える政府ではなく、アメリカに従属し、その契約を至上なものとして、国民の命や幸福はその次に来るものとしか見ていない政府であることを示しているものと言わざるを得ない。

 

マンションの灯り(続)

 一昨年の十二月に、「マンションの灯り」と題して、我が家の北窓から遠くに見える大きなマンションの夜の灯りについて書いたが、その後に気がついたことなどを少し補足しておきたい。

 こちらは老人家族なので、早寝、早起き、それも嵩じて、寝るのは8時前、起きるのは4時前という生活なので、雨戸を開け閉めするのもそれに準ずることになる。

 従って、マンションでも、恐らく夕方はまだ住民たちが帰宅してやっと寛ぎ、夕食などをしている頃で、朝は殆どの人がまだ眠っている深夜に眺めることになる。

 平素使っていない部屋の北窓からなので、雨戸の開け閉めする時以外には、あまりその窓から外を眺める機会もない。それだけに余計に、窓を開け閉めする時の外の様子が気になる。殊に真夜中の眺めは、日中と違うので、いろいろなことを想像させてくれる。

 道路を挟んだ家並みの夜の世界を微かに照らすかのように、街灯がほぼ等間隔に並んでおり、その一番奥を塞ぐかのように暗黒のマンションが立っているわけだが、その中にぽつんと灯りが灯っているのである。

 微かな灯りだけに、返って雄弁にいろいろなことを語ってくれるようである。前回は、そこから住民たちのそれぞれの生活を想像させてもらったのだったが、いつも見ているうちに、日によって異なる灯りの数の変動にも興味が湧く。

 大型のマンションためか、一軒も灯りがない夜は滅多にない。いつも決まった家には必ずと言って良いぐらい電気がついている。それほど明るい電気ではないので、暗い電気でもつけたまま寝る習慣の家なのだろうかと勝手に決めている。

 毎夜のように見ていると、灯りのついた家の数が日によって異なっていることに気付く。平日は上記の一軒だけのことが多いが、週末には何軒かに灯りがつくことになる。五月のゴールデンウイークともなると、ずっと数が増える。朝早くから出かける準備か、遅く帰って来て、まだゴソゴソしているのであろうか。

 面白いのはサッカーの世界大会のあった時である。これまでの最高ぐらい、あちこちの窓に灯りがついていたのが興味深かった。サッカーブームで若い人たちが惹きつけられている様子を物語っているようで興味深かった。

 こうして毎夜のように、マンションの灯りの窓の数の変動を見ていると、何か「国政調査?」でもしているかのような感じになり、つい、その数まで数えて記録でもして置きたくなる衝動に掻き立てられる。

 マンションが建ったおかげで、後ろの五月山が見えなくなってしまって残念であったが、マンションはまた違った楽しみを与えてくれたようである。

   ”マンションの灯り今夜はいくつかな平日、週末、サッカー試合”

 

 

 

奇妙な新聞の見出し

 5月18日の朝日新聞の一面見出しを見て首を傾げた。大きく「製鉄所ウクライナ撤退命令」「マリウポリロシア完全制圧へ」と書かれていた。核攻撃に備えて作られた地下要塞のような製鉄所の地下に立てこもって、長らく抵抗していたいたウクライナのアゾフ大隊がついに降参して、ロシアが製鉄所をやっと占領したということらしいが、それをどうして新聞社ともあろうものが、こんなに分かりにくい表現を用いるのであろうか。

 普通なら「アゾフスターリ製鉄所陥落・マリウポリ ロシア完全制圧へ」とでも書くべきところではなかろうか。

 日米戦争で日本軍が負けていた頃の報道を思い出し、嫌な気持ちにさせられた。当時の新聞は、負けて陣地を奪われ逃走したのを「転進」と言い換え、全滅したのを「玉砕」と書いて美化しようとしたものである。日本軍の敗戦を隠すために言い換えをして、国民に少しでも負け戦を隠し、ショックを和らげようとしたのでろうが、今回は他所の国と他所の国の戦いについてである。

 ロシアの侵略がけしからんと言ってアメリカはじめヨーロッパの各国が一致して反対し、日本もそれに同調しているので、戦争のニュースも、そちらから流れてくるものが主になっているから、元のニュースが負け惜しみのような表現になっているので、それに習ったのであろうが、第三者である日本の新聞はもう少し客観的な冷静な表現をすべきではなかったろうか。

 記事には「ウクライナ兵の退避が始まり、260人以上がロシア側に移送された。ウクライナ軍側は任務の完了を報告し、兵士に撤退を命じた。・・・」などと書かれていた。どう見ても降伏したことが明らかである。占領とか敗退とかはっきりわかる言葉もあるではないか。

 偽情報が飛び交わっている今こそ、アメリカはじめ西欧の報道をそのまま流すのではなく、一旦受け止めて、日本の新聞社なりの客観的な報道をしてほしいものである。