最後の晩餐会

 昭和15年皇紀2600年といって、神武天皇の即位以来2600年に当たる年だということで、色々な慶祝行事が行われた。箕面の滝の前の広場にある頼山陽の碑を引っ張り上げるのに、我々小学生までが動員されたのもその一環であった。

 しかし、慶祝事業の裏には、昭和12年から始まった日中戦争が次第に深みにはまり込み、日独伊三国の防共協定の締結されたり、対外政策が北進から南進へと変わったり、国内でも大政翼賛会ができ、国民精神総動員令などが出て締め付けも強くなり、次第に戦時色を濃くして行った頃であった。

 そんな情勢の中で、贅沢は敵だとばかりに、ゴルフや、写真や8ミリなどの趣味や娯楽、カフェーやレストランなどでの外食、女性のパーマネントまでが禁止されるようになって来ていた時代であった。防火訓練や学校での教練なども盛んに行われていた。

 しかも社会情勢はますます厳しくなっていくようだったので、父がもう家族が一緒にレストランで食事をするようなことも出来なくなるだろうからと計画したのであろう。いつ頃だったか覚えていないが、ある時、家族揃ってレストランで食事をしたことがあった。

 現在の天満橋のOMMのあたりにあった、確か野田屋というレストランであった。当時はまだ京阪電車のターミナルが天満の交差点に面した地上にあり、そのすぐ前ぐらいに野田屋があったはずである。両親と子供5人で、一応フルコースの洋食であった。何を食べたかは覚えていないが、ただ一つ覚えているのは、最後のデザートにりんごが出たのだが、2歳上の姉がうっかりそれを滑らせて床に落としてしまったことであった。

 その印象が強かったのか、それだけ覚えているが、後は御馳走がどんなものであったのかはすっかり忘れてしまった。その後は案の定、戦争の時代となり、食糧事情も日に日に悪くなり、最後はとうとうあの惨めな戦後の飢えの時代になってしまったのであった。そういう訳でまさに、これが戦前の良き時代の、我々の「最後のの晩餐」になってしまったのであった。

 なぜこんな古い話を持ち出したのかというと、その姉が今や96歳、大分認知症も進み、施設で暮らしているが、コロナのため長らく面会も出来なかったので、先日久し振りで見舞いに行って来た。姉はもう今では車椅子に座っていても、殆ど目を瞑っていて、応答もあったりなかったりだが、古い話は案外覚えているかも知れないと思って、この話を持ち出して、覚えているかと尋ねると、確かに反応があり、目を開けて頷いていたのでどうも分かったようであった。

 我々五人兄弟も、後の兄や弟たちは皆亡くなってしまって、今ではこの姉と二人だけになってしまった。もう少し生きていて欲しいものである。私もこの話で、古い記憶を反芻して、しばらく楽しむことが出来た次第であった。

 

国による「いじめ」

 沖縄の本土復帰50年ということで、新聞にはそれに関する読者の声なども多く寄せられている。それを読んでいると、いたたまれない気分になるのは私だけであろうか。

   五十年已まぬ「虐待」母国より

という句が載っていた。悲惨な沖縄戦で4分の1の同胞を亡くし、米軍の軍政下の過酷な生活を27年間も強いられてきた沖縄の人々が、やっと本土復帰が出来て、これでやっと平和な生活に戻れるだろうとした夢を、無惨にも打ち砕いた五十年だったのではなかろうか。

 沖縄戦当時の司令官が自決直前に、最後に大本営に伝えた電文は「沖縄県人はよく戦った。どうか将来特別のご配慮を!」というようなものだったとも聞いている。それが復帰後五十年経っても少しも反映されないどころか、「已まぬ母国からの虐待」とはあまりにもひどい。

 「かたえくぼ欄」には「沖縄に在日米軍基地の70%」とあり、それに対して「都道府県は四十七と習ったよーー小学生」というのがあった。それまで本土にあった米軍基地まで、なるべく沖縄に移して、国民の目からなるべく米軍の存在を薄くし、安保条約や日米地位協定による憲法を超える米軍の存在を国民の目から逸らそうとしてきた日本政府の政策が、沖縄の人々に本土の人たち以上の負担を強いているのである。

 声欄にも「この島は一体何に復帰したのか」という文もあり、「県民世論調査では、沖縄と本土にはさまざまな格差があるとの見方が89%だった。平和憲法下への復帰にチムドンドン(胸の高鳴り)した日から明日で50年。一体、この島は何に復帰したのだろうか。チムワサワサ(胸騒ぎ)を隠せない。」と書かれていた。

 また、米軍再編交付金子育て支援策への流用を指摘して、税金を使った権力の濫用であり『「アメとムチ」で沖縄の人たちを分断する「いじめ」と言えないか』という声や、沖縄の人に「沖縄の人たちは、あっけらかんとして明るいよね」といったら「うん、生きていくためにはね」と聞いて絶句するとともに、この一言で沖縄の皆さんが、堪えてきた大変さがわかったような気がした」というのもあった。

 憲法改正などと騒ぐ以前に、せめて日米地位協定を平等な協定に代えるようにし、本土と沖縄の格差をなくすことが政府が今求められている最低限の使命ではなかろうか。どこかのSNSで見た、諸外国の米国との基地をめぐる協定の比較表を参考のため載せておく。

 

なんくるならない

 

 沖縄の本土復帰から50年ということで記念式典なども行われてようであるが、沖縄の基地問題などは一向に解決されないばかりか、最近は軍備増強などで返って平和から遠ざかって来ている感じさえある。

 朝日新聞の声欄に”「なんくるならない」沖縄よ”という投書が出ていた。敗戦が迫ってきた戦争末期の頃の日本で、最早誰の目にも負け戦がはっきりしてきた頃によく耳にした「どうにかなる」という言葉を思い出した。 

 投書は『王国だった琉球が日本国に組み込まれて以来、差別や無視という扱いを繰り返し受けてきた。さらに台風など過酷な自然環境。先人が心身の健康を保つため、考え出した言葉が「なんくるないさ!」(なんとかなるさ)ではなかったか。復帰後50年だが、理不尽は今なお続く。

 米軍基地は減らず、民意を無視して続く辺野古の新基地建設、宮古島石垣島与那国島への自衛隊配備で、沖縄が軍事要塞になるとも危惧する。「なんくるないさ!」は封印して、「なんくるならない」に切り替えねば。』という趣旨であった。

 昭和20年太平洋戦争も末期となり、日本の敗戦が濃厚になって来ても、政府は「神風が起こる」、「神祐天助だ」と言っていたが、どう見ても勝ち目がない。しきりに「本土決戦だ」「最後の決戦だ」と言うようになったが、誰の目にも勝敗は明らかになって来た。

 それでも「神州不滅」で、負けることは考えられない、考えてはいけないことであった。[どうなるのやろう?」と尋ねてみても、答えは皆「どうにかなるやろ」としか返ってこなかった。その頃は誰もが「どうにかなる」としか言いようがなかったのである。

「どうにかなる」は「どうにもならない」を意味していたのである。今の沖縄も「どうにもならない」ので、「なんくるないさ」を「なんくるならない」と言い換えなばならないところまで追い詰められてしまっているのである。沖縄の人々の心情を考えてみるべきである。

 国民にそこまで犠牲を強いて、それを無視してまで、アメリカに奉仕しなければならない日本政府の情けなさよ。憲法改正より、憲法より上位の法である「日米安保条約」の改正こそ、沖縄の人々ばかりか、国民が何より臨むことなのに、政府はそれには目を瞑って答えようとしない。

 怒れ同胞よ!政府は最早「アメリカの出先機関であっても、日本の国民のための政府ではない」と言っても良いのではなかろうか。

 

老いた猿たち

 たまたまSNSで見た老いた猿の写真である。なんと人間の老人の表情と似ていることだろう。何となく惹きつけられて、同情というか、哀れさを感じないわけにはいかなかった。

 あまりにも人間の老化に表情、雰囲気が似ているではないか。猿たちよ。お前たちも一緒だなと声をかけたくなる。外観だけでなく、体力の衰え、運動能力の低下、動作が遅くなるなども人間と差して変わりがなさそうである。

 こうした老猿は若い猿たちと一緒には生活し難いので、動物園などでも、老猿たちのみを集めて若い猿とは別に飼育しているようである。猿の老人ホームといったところであろうか。

 老猿で有名だったのは、京都市動物園に「イソコ」といったアカゲザルがいて、四十三歳まで生き、世界最高齢の猿になって表彰状などを貰って、新聞にも出ていたが、昨年死んようである。動物園で生まれた猿であった。猿の平均寿命は15年ぐらいなので、人間で言えば120歳ぐらいまで生きたことになるらしい。

 老いた猿たちの写真を見て何となく惹きつけられて、そのまま閉じてしまうのが心苦しい気がして、保存しておきたくなった次第である。

 

今こそ軍備増強より日中友好を!

 ロシアのウクライナ侵攻に絡んで、最近は中国の発展に関しても、「力による一方的な現状変更は何処であれ認められない」とする主張が連日のように新聞紙上などにも現れる。

 しかし、中国が仮に万一、台湾を攻撃したとしても、台湾が中国と一つの国であることは、アメリカも日本も正式に認めていることであるから、中国の国内問題である。非難はしても介入すべきことではない。

 尖閣問題などは何処の国同士にもありがちな国境線の問題で、話し合いで解決すべき範囲の問題で、直接アメリカや日本、世界の平和を危険に晒すような問題ではない。

 現在の時点で、現実に東アジアの国々に生存に関わるような危険が迫っているような問題はない。言うならば、中国の発展に対する妬みや、先行きの不安の表れに過ぎないように思われる。

 それをわざわざ「力による一方的な現状変更は何処であれ認められない」とか、ロシアの侵攻「インド太平洋では許さぬ」などと言って、緊張をもたらすのは、日本の方針というより、アメリカの政策に乗せられている節が強い。問題があるなら、陰で非難するするのでなく、それを主張して直接話し合うべきではなかろうか。

 武装を固めて敵基地攻撃能力だなどと言うより、先ずは外交的に緊密な連絡を取り、直接話し合いを深め、平和的に解決することを優先させるべきであろう。近隣諸国との友好を深めることが、こういう事態であればこそ、武力増強で緊張を高めるより必要なのではなかろうか。

 それなら折角の岸田首相の外国訪問の機会だったのだから、タイやベトナムに行くのなら、どうして中国をも訪れて諸問題を話し合って来なかったのであろうか。中国と敵対するより、友好関係を築く方がどれだけ日本の国益にかなうことだろう。

 アメリカの動向にばかり振り回されずに、日本はもっと自律的に近隣諸国と友好関係を結ぶべく努力すべきではないか。今こそ日本の外交力が試される時である。それこそ敵基地基地攻撃能力云々よりも、はるかに強力な安全保障になる。

 ロシアのウクライナ侵攻のような事がアジアでも起こることを心配するなら、尚更、軍備増強よりも先に、平和外交をして、近隣諸国との友好関係を深めるべきではないか。

 現在、日本と中国の間には基本的に争わなければならない重大な問題はないし、中国が今日本に軍事的な侵略や攻撃を仕掛ける心配はないだろう。尖閣列島はいわば国境問題、話し合いで時間をかけて相談すれば済む問題である。

 ウクライナのような事があればある程、アジアの平和や、近隣国との協調を考え、今こそ軍事ではなく、外交に力を入れるべき時ではなかろうか。是非日中友好関係を復活、進化させてもらいたいものである。

コロナと老いのゴールデンウイーク

 まだ仕事をしている頃はゴールデンウイークは一年のうちで一番楽しい連休であった。

 正月も続けて休めたが、年末は慌ただしく、正月にはいろいろな行事もあり、寒い季節ということもあって、バタバタと過ぎてしまい、あまゆっくりした気分になれなかったが、ゴールデンウイークは気候も良く、公然と続けて休めるので、これをうまく利用しない手はなかった。

 あらかじめ準備しておいて、休みをフルに活用して、外国旅行をしたことが多かったような気がする。長い年月の間に、女房と二人で、中国や東南アジア、アメリカ、ヨーロッパなど随分あちこち行ったものであった。

 しかし、卒寿も過ぎれば、体力的にも、気分的にも、遠い外国まで足を伸ばす気にもならないし、仕事を辞めると、いろいろな日程も自由に組めることだから、強いて人の移動の多いゴールデンウイークにわざわざ出かけることもないということになる。

 その上、今はコロナの感染のことも考えに入れなければならない。テレビで見ると、まだコロナが続いているというものの、昨年、一昨年と足止めされた人が、今年は三年ぶりの規制なしのゴールデンウイークということで、何処も随分多くの人出で賑わっているようである。そんな所へわざわざ行きたくもない。

 しかし、こうも長くコロナのために足止めされていては、誰しももういい加減に羽を伸ばしたくなるのではなかろうか。その上、冬も終わって暖かくなり、こうも陽気も良くなると、つい何処かに出かけたくなる。

 それでも、老人は遠くに行くのは億劫だし、やっぱり感染も怖い。結局、近場で、出来るだけ人混みを避けて、広い青空のもとで気持ちの良い空気を胸いっぱい吸えればということになる。

 その結果としての私の今年のゴールデンウイークの実績を記せば、下のようなことになった。

  4月29日 雨で1日家に止まる

  4月30日 能勢電、ケーブル、リフトに乗って妙見さんへ1 5,300歩

  5月1日  定期的な仲間とのクロッキーの会へ行く    

  5月2日  寒い一日、訪問客あり、応接で1日家にいる

  5月3日  猪名川の河原散策              7,200歩

  5月4日  水月公園から尊鉢地蔵尊まで歩く       10,500歩

  5月5日  川西能勢口まで歩き、JR伊丹を経て伊丹市立美術館へへ                             8,800歩

  5月6日  石橋の新しい図書館まで歩いて行く       10,500歩

       5月7日  万願寺へ行き、帰り川西能勢口まで歩く      12,500歩

       5月8日  猪名川の河原散策                                                    6,100歩

 卒寿過ぎにとってはこれだけ歩ければ感謝すべきであろう。  

上からの目線

 社会的地位などからの「上からの目線」は嫌がられるし、誉めたことではない。人は誰も平等であるべきであり、民主主義の理想も自由なだけでなく、平等で公平な社会である。

 そんな難しい話でなく、誰しも経験することであるが、人は物理的にいつもと違う、ちょっと高い所から周りを見ただけでも、何かいつもと違って優越感のようなものを感じるものである。

 赤ん坊や子供が高い高いと言って体を持ち上げて貰ったり、子供が肩車を喜ぶのも違った世界を見れるからであろう。誰しも高い展望台やビルの屋上などに登りたがるのも同じ願望を秘めているからであろう。

 子供の頃に、遊園地のメリーゴーランドで馬に跨った時に、いつもは見上げていた親の視線が自分と同じ高さであることに気がついて、喜んだことを覚えている。引っ越しで、家財を運ぶために来た運送屋さんに、当時は牛車が運んでいたので、その牛の背中に乗せて貰って、すっかり満悦したこともあった。

 また戦時中の中学時代には、淀川の河原でグライダーの訓練を受けたことがある。初級用のグライダーはプライマリといって、模型のゴム飛行機のように、大きなゴム紐で引っ張ってその張力で飛ぶだけのものだが、それでも地上十二、三メートルは上がるものであった。

 僅かそれだけでも、飛ぶと、引っ張っていた下にいる友人たちが小さく見え、いつもと全く違った視線で皆を見下ろすことになり、何か優越感を感じたものであった。今の飛行機の座席から見る景色とは違い、それ程高くなくとも、足元まで全ての世界が見れるので、病みつきになるほど爽快な感じがしたものであった。

 やったことはないが、今なら山の中腹などから飛ぶグライダー飛行も同じような経験を味合えるのではなかろうか。以前、アメリカの友人からインストラクターと一緒に滑空する写真を貰ったことがあるが、きっと似たような爽快さを感じたのではなかろうか。

 また、いつだったか、乗馬クラブのような所で、馬に乗せて貰ったことがあるが、馬の上から見ると、周りを見下し、何か自分が偉くなったような気がしたものであった。

 昔から偉い侍や貴族、王様や将軍などは、皆、馬上の姿が一般的だが、やはり周りの者たちを見下して、優越感に浸れので、自然と喜んで利用されてきたものであろう。

 乗馬でなくとも、例えば屋上に乗る観光バスや、二階付き列車などが好まれるのも、同じようにいつもと違った少し高い所から周りを見下ろすので評判が良いのであろう。

 もう一つ、高い所でなくとも、普通では出来ないような経験をしたときも似たような優越感を感じるものである。戦後間もない頃、今では考えられないが、まだ街を走る車といえば、アメリカ兵のジープ位で、御堂筋でさえ車は殆ど走っておらず、車道を歩行者が平気でに歩いていた。

 当時、親が材木商で、戦後の建設ラッシュで儲けた息子だった友人が、大きなアメリカ製のオープンカーを手に入れ、それに乗せて貰って、御堂筋を今とは反対に、南から北へ走ったことがあった。

 警笛を鳴らすと、前を歩いていた人たちが慌ててまるで蜘蛛の子を蹴散らすかのように、一斉に周囲に逃げ、空いた空間を悠々とまっすぐ走ったのであった。今では想像もつかないひと時であった。

 今のように、渋滞に巻き込まれてイライラするのでは、車の運転もストレスのもとにさえなるが、その時の快感、優越感といったものは二度と経験出来ないものだけに今も忘れられない。

 その時、車に乗せてくれた友人が亡くなった知らせを貰い、遠いありし日のことを思い出したのであったが、時の流れ、時代の変遷をしみじみと感じさせられたことであった。