昔のアヴェック、今のアヴェック

 もう今ではアヴェックという言葉も殆ど使われず、死語になってしまった感があるが、我々の青春時代には、アヴェックと言う言葉は、若者にとっては、戦後の時代の新鮮な感じのする憧れの言葉であった。

 アヴェックというのはフランス語のavec(英語のwith)から来ているのだが、戦後の日本社会では、もっぱら男女の一組を指して使われていた言葉であった。いつの時代もそうであるが、若い未婚の男性にとっては、何処かで素晴らしい女性を見つけて一緒にランデブーしたいというのが夢である。機会に恵まれて一緒に歩けるようになったら、お互いに手を繋いで歩きながら愛を囁きたいということになる。

 戦後まだ間もない頃は、自由な世界になったとはいうものの、まだ、戦前から長く続いた風習の影響が強く残っており、男女が公衆の面前で、一緒に手を繋いで並んで歩くようなことははしたないこととされていた。夫婦でも「嫁しては夫に従い、共に道行く時も、三歩下がって夫に従う」というのが女性の作法であった。夫婦でも一緒に並んで歩くのを見ることはまだ少なく、手を取り合って一緒の肩を並べて歩くアヴェックはもっぱら若者の特権であった。

 結婚もまだ殆どが見合い結婚が普通だった時代だから、未婚の若い男女にとってはアヴェックは余計にスリリングな憧れともなっていた。休日の野山や街の盛り場など、何処へ行っても若い男女のアヴェックが誇らしげに手を繋いで闊歩し、独り者は羨ましそうにそれを眺めたものであった。こんな美人を見つけたぞと周囲に自慢する者もいた。

 そのような景色が我々の青春時代であった。それがどうだろう。半世紀も経つと、世の中の風景もすっかり変わってしまうものである。冒頭でも述べたように、もうアヴェックという言葉さえ死語になってしまったようだが、人口減少のためもあるのか、最近は野山に行っても、街に出ても、若いアヴェックを見かけることがすっかり減ってしまった。若い人達に出喰わしても、男ばかり、あるいは女ばかりの集団が多く、男女のペアのアベックは本当に少なくなってしまった感じがしてならない。

 それに対して、最近何処へ行っても目につくのは、60代から70代の前期高齢者相応の老人のアベックである。週末でもないのに、何処へ行っても、昼間から、老人夫婦が連れ立って歩いている姿が見られる。この年代のまだ若くて元気な老人のアヴェックは、もう手を繋いで歩くことは殆どないが、男性の方が元気なようで、先に歩いて女性をリードしていることが多い。しかし、少し歳をとった後期高齢者ぐらいのペアとなると、いつしか女性の方が男性よりも元気になって、女性が先導し、男が後ろからそれを追うような格好でついて行くようなカップルが多くなるのが面白い。中には、手を繋いでいるのでなく、手で支えていたり、縋り付いていたりしている夫婦もいる。

 ついでに言えば、老人のアヴェックとともに、最近よく見かけるようになったのが、まだ元気な老人の男の一人歩きである。女性の老人の一人歩きも時には見るが、男の老人の方が目につく。定年で仕事を辞めて、することもなく、手持ち無沙汰になって、先ず考えることは、気候も良ければ、何処かへ歩きにでも行こうかと言うことになるのであろう。お金もかからないし、家にいて煙たがられることもない。気晴らしにもなるし、適当な運動で健康のためにも良いと言うところであろうか。大抵は決まって帽子を被り、行楽用のベストを着て、リュックを背負い、大抵水を持って歩いている。

 人口減少で職場は人手不足。政府が遊んでいる元気な老人を何とか働かせてやろうといろいろ策を練るのも分かるが、長年過酷な労働を続けてきてやっと定年になって解放され、やれやれと思って一休みしている老人達に鞭打つようなことは止めて、死ぬまでに、ここらで少しの間ぐらい、一寸はゆっくり楽をさせてやれよ、と言いたくなるのが私の気持ちである。

 

車椅子で無人駅利用は「わがまま」か

 電動車椅子で生活するコラムニスト伊是名夏子さん(38)が、無人駅である熱海の来宮駅を利用しようとした時、小田原駅の駅員から一時「案内出来ない」と言われたことをブログに書いたところ、それは「わがまま」だと言う批判が多く寄せられた。

 現場を見ていた人が「実際には書いていたようなものではなく、もっとひどいやり取りだった」とか、「メディアを呼ぶなどまでして」とか、「無人駅に4人の駅員まで集めて、駅員が可哀想だ」とか、「熱海駅まで乗れたのだから、それも『合理的な配慮』をしてもらったのではないか」とか、本人や子供たちが待合室の椅子に寛いでいる写真をアップしているのもあったし、「僕には貴方がわざと無人駅で騒動を起こしてるとしか思えないですね」と言うものまで、SNS上での書き込みが多くみられた。

 おそらく、こういった反応は、強く自己主張する人への反発があるように思われる。「普通の人だったら駅員に『来宮駅無人駅でエレベータもないから案内できません』と言われたら、「仕方がないか。それなら熱海で降りて、タクシーでも頼むか」と言うところだろうが、「厚かましい」とか、そこまで言うのは「わがまま」だとか言う感情に根ざしているのではなかろうか。

 しかし、考えて欲しい。世の中にはいろいろな人がいて、それで成り立っているのである。引っ込み思案で大人しい人も、積極的に何でも主張するする人もいるし、大勢に従って、付和雷同人たちもいる。そうした中で、劣悪な条件の中でも積極的に改善を主張する人がいるから、世の中は改善されていくのだとも言えよう。障害者が身体的なハンディを背負って日常生活上、平素どれだか苦労しているかを想像してみよう。その上で、伊是名さんの主張を聞いてみて欲しい。

 「1970年代の障害者運動のとき、『車椅子は電車・バスに乗れません』と乗車拒否された車いすユーザーたちが、声を上げ続け、電車に乗れるようになり、エレベーターができました。今回もその流れと同じだと私は思っていて、声を上げないと、何も変わらないと思っています。」

「今回私が声を上げられるのは、障害者差別解消法という法律があるだけでなく、40年以上も前から、電車やバスに乗るために運動を続けてきた先輩障害の方々のおかげです。私がいま電車やバスに乗れたり、ヘルパー制度が使えたり、車いすが支給されるのもその先輩方の運動のおかげであり、私もそれを守るため声を上げていきたいです」と言ってられます。

 これを聞けば多くの人が納得されるのではないでしょうか。来宮駅の管理をする熱海駅も、駅長の判断で4人の駅員を集め、来宮駅で80キロもある電動車椅子を担いで階段を下ろし、本人はヘルパーさんが抱えて降りたそうで、帰りも4人の駅員で対処したそうである。

 こういった対応は確かに合理化が進み、人手不足なJRの現場の職員にとっては大変である。そうかと言って障害者に対しても、普通の人と同じようにサービスするのは当然であり、伊是名さんの場合が特例であってはならない。他の乗客に対しても、同様な対応をすべきであることは言うまでもない。

 JRの合理化をいかに進めるかはJRの問題であるが、いかなる人に対しても平等にサービスすることが、JRの合理化などを含めた経営の前提となるべきで、顧客にその皺寄せを押し付けるべきではないことを皆で理解すべきであろう。

 

 

公衆トイレの問題

 今では何処の街へ行っても公衆トイレが整備されているので、それを探すのに苦労することはない。何処にも水洗式で手入れの行き届いたトイレが備えられているので、設備面では残る問題も少ないようにも見える。

 それでも問題がないわけではない。どこも男女別に分かれ、男女を示すサインでトイレのあり場所も、男女の区別もはっきりしているし、殆どの所で、障害者用の個室も完備されている。しかし、まだまだ使い方の実態には問題があるようである。

 男女が不平等で、何処でも女性の方が混んでいる。個室で時間がかかるためか、劇場などでの休憩時間のトイレなどでは、男性の方は一時的に混んでも、比較的早く空くことになるが、女性の方はいつも長い行列が出来て、全員が用を済ますのに時間がかかる。それを見越して男女の個室の割合なども女性側を多くしているようだが、それでもなかなか上手くはいかないらしい。

 男子トイレも、最近は駅の公衆トイレなどへ行くと、従来からの朝顔型の立ち小便用の方は空いていても、個室に長い列が出来ていることが多い。朝に家で用を済ませず、街へ出て来てから用を足す人が増えてのであろうか。立小便に行くのに、個室待ちの人の長い列をよぎって行かねばならないことが多い。

 また、最近は障害者用の個室がいつも使用中で、障害者が使いにくいという問題もあるらしい。人口の高齢化で、何やかやと障害のある人が多くなったためではないかと言われている。

一般に障害者や老人の排泄には時間がかかるものである。

 その上、近頃はL GBTQのような性別の問題もあり、自分は男女別しかない区別のどちらの個室を利用すべきか迷うことになる人達もいる。そうなると、どうすればこの多様な人たちの要望に的確に応えられるのかという問題も起こってくる。

 それに応えるために、色々な案もあるであろうが、私がもっとも良さそうに思うのは、いつか聞いた中国で行われているといわれる方式である。男女の区別を止め、全ての個室を一括して、男女を問わず順番に個室を利用して貰うようにするのである。そうすれば、男女の別なく平等に、順番に利用出来、男子の個室が空いているのに女子の方が長い列で待つというようなことが解消される。男子の個室使用者も、個室の男女区別がなくなれば、混んでいる時にもある程度、融通が着きやすいとい言うものであろう。

 もちろん、立小便用の便器も、数を減らすとしても、そちらの利用希望者も多いだろうから残しておくべきであろう。それとともに、女性のためのパウダールームも必要であるのは言うまでもない。

 また男女を一緒にした個室のいくつかを広めにして、障害者用にすれば、障害者が増えても対応出来るだろう。立ち小便用と一般個室と障害者用個室の三つにして、それぞれを順番制にして、好きなように利用して貰うようにすれば、誰にとっても同じように利用して貰えるのではなかろうか。

二度目の「おいてけぼり」

 戦後の話の続きである。 先に書いたように敗戦による世の急変について行けず、ひとり「おいてけぼり」(取り残される)を食らって、ニヒル虚無主義に放り出された私は、時間はかかったが、やがて落ち着いた先は戦後の民主主義であった。

 占領軍の対日政策は、先ずは大日本帝国を完全に壊滅して、二度と戦争が出来ない国にしようとするものであった。そのためには天皇制を利用したものの、アメリカ流の民主主義を定着させようとし、若手の司政官たちに新憲法の草案を作らせたりしたが、国民の側でも、戦時中囚われたり、沈黙を守らざるを得なかった人たちが自由になり、表現の自由が復活し、労働者たちも自由に発言することが出来るようになって、戦後の民主主義は短時日のうちに花開いてきた。

 短い間であったが、新鮮で素晴らしいものであった。人々が本気で世の中を変え、民主主義国家として出直すのだという情熱があちこちから湧き上がってくるのが感じられた。私もそこに希望の地を見出したのであった。

 封建的な制度が変えられ、誰もが貧しかったが、平等で、平和な夢を描くことが出来た。学校教育でも民主主義が強調され、新しい平和憲法が解説されたし、思い出すのは、今では死語に近くなっている「公僕」という言葉が使われるようになったことである。国民主権が尊重されようとした時代であった。ただ戦争責任の追及が曖昧なまま放置されてしまったことが残念であった。

 戦後の貧困やそれに被さるインフレなどによって、生活を追い詰めらた人々も自由に発言出来るようになり、労働運動も活発となって、1947年2月には30組合400万人によるゼネストが政府を脅かすようになり、極限で、慌てたマッカアサーの命令によって中止させられるようなことも起こった。

 その頃までは、アメリカでも、アジアにおける拠点を日本に置くか、中国にするかで議論があり、日本の残存工場施設を中国へ持って行こうとする考えもあったが、1949年に中国共産党の勝利が決まり、やがて1950から朝鮮戦争が始まって、アメリカは政策を変え、日本を反共の防波堤にしようとして、自衛隊など日本の再軍備が進んでいくこととなった。

 以来、アメリカ追随の政府も、折角芽生えかけた日本の民主主義を大きく抑えにかかってきたが、一度経験した民主主義は人々の間に強く根を下ろし、平和憲法にも助けられて、逆コースに反対、アメリカの侵略戦争としての、朝鮮戦争に反対、憲法改正阻止の運動が続き、それが1960年の安保反対闘争に続いていったのであった。

 しかし、朝鮮戦争に積極的に加担した政府は、後方基地としての地位を利用し、産業の復活、ドル資金の確保のチャンスを掴み、それに乗っかって、1955年体制で安定した政権基盤を確保し、以後急速に高度成長期に突入して行くことになった。

 そうなると、学生時代に共に憂い、共に議論し、共に戦った旧友たちが、卒業と同時に、次々と踵を翻すように大企業に就職し、瞬く間に会社人間となって一心不乱に会社のために働く姿を見させられることとなった。忠誠を尽くすのは会社であって、いつしか民主主義は再軍備などとともに置き去りにされていった。

 私は医学部だったので卒業も遅く、実質的に気分も未だ学生の続きだったので、ここで再び「おいてけぼり」の目に逢うこととなったのであった。当時の日本は未だ貧しかったこともあり、生活の豊かさが、貧乏人の議論を超えて、実利に向かうのを抑えることは誰にも出来ないことを納得するには少しばかり時間が必要であった。

 中国の発展も毛沢東思想を超えて、鄧小平の資本主義経済の導入によって始まったことは歴史の貴重な教訓である。

 

 

 

 

オリンピックの聖火リレー

f:id:drfridge:20210407084740j:plain

f:id:drfridge:20210407105840j:plain

 オリンピックの聖火リレーが始まっているようだが、コロナの流行は益々猖獗を極め、今や第4波が始まっているようである。大阪などでは、再び飲食店などの営業時間短縮などが要請され、それに伴って、大阪市内での聖火リレーも中止になったようである。

 聖火リレーは以前のオリンピックについても、テレビでしか見たことはないが、イメージとしては、聖火を掲げた人が沿道の観客の声援に答えながら走り、次々と聖火をリレー式に渡しながら、全国の道々を走るようなものだと思っていたら、SNS を見て驚いた。

 まず出てくるのが、スポンサーの派手な大型車が何台も連なって進み、これまた派手な服装をした宣伝員を大勢従え、大音響で宣伝を繰り返しながら街を行くではないか。聖火を持った走者が何処にいるのか隠れてしまって判らない。三密もなんのその、コロナ禍など無きが如きの雑踏で、賑やかな行列である。

 オリンピックの商業化はここまで来たかと嘆かざるを得ない。本来の聖火リレーの精神などどこのもない。もうスポンサーの力が強くなって、オリンピックはそれに振り回されて、商業主義の出し物になり、聖火リレーもまるで大売り出しの宣伝隊のようである。

 ナチスドイツによるベルリン大会の時以来、オリンピックは国威発揚のために使われるようになり、その道をいがめてしまったが、今では巨大資本の一大宣伝場と成り下がってしまったとも言えよう。

 最早、本来のオリンピック精神は失われてしまっているのに、国が全力を挙げて付き合う必要は無くなったのではなかろうか。オリンピックを大資本の商業主義から奪回し、本来のスポーツの祭典に戻さなければ、開催の意味は無いのではなかろうか。ましてや、このコロナ流行の終焉が見られない中でオリンピックを強行する意味はなくなっているのではなかろうか。

 政府は既に聖火リレーまで始めてしまって、あくまでオリンピックを強行しようとしているようだが、経済的な問題やスポンサーやIOC等との関係などの如何を超えて、コロナ対策を優先させ、オリンピック中止を早く決断すべきであろう。

 

コロナの春

 もうコロナが流行り出してから1年以上になるが、一向におさまる気配はない。それどころか、春になって人々の動きが活発になるにつれ、またゾロ感染者が増えはじめ、第4波の到来とも言われている。

 そんな中で、もう90歳も過ぎた老人に出来ることは、混み合った所を避けて、出来るだけそっと暮らし、若い人達の迷惑にならないようにすることではなかろうか。

 それでも、冬の間、寒いので家に閉じ籠りがちだった老人も、明るい光の春になり、暖かくなって来ると、外へも出歩きたくなるものである。殊に私の場合は、脊椎管狭窄症による間欠性跛行とコロナの流行が一緒になってやって来て、一時は歩行器を押してでないと歩けなかったのが、ようやく良くなって来て、また歩けるようになったので、リハビリのためにも歩かなければならない事情もある。

 そうかと言って、コロナの流行中に、老人が混んだ電車に乗って、何処かへ出かけるのも具合が悪いし、以前のように、何人もが集まる会合へ出たり、一緒に絵を描いたり、人の多い劇場やギャラリーなどへ出掛けるのも良くない。都会の雑踏も避けるべきであろう。そんなことを考慮すると、一番無難なのは、家から歩いて行ける所や、せいぜい2〜3駅ぐらいの短距離の電車やバスで行ける範囲ぐらいの中での散策などを楽しむのが良いのではということになる。

 幸い今住んでいる所は、近くに猪名川が流れているし、五月山もある。中山観音の梅林もあれば、水月公園にも梅林がある。梅に続く桃も川向こうの南花屋敷の桃園が有名で、歩いて行ける距離にある。桜となると、五月山の他にも、あちら、こちらと花見に事欠かない。コロナのお蔭で、時間はあるし、足に訓練のためもあって、今年は例年よりもかえって、春の花を楽しむことが出来た。

 正月からの我が家の庭の茶梅や椿に続いて、冬枯れの辛夷に白い花が目に止まるようになると、近くの家のミモザが一度にフレッシュな黄色い花で覆われ、雪柳があちこちで春を告げ始める。近くにある木蓮も負けじと白いお椀のように花を開く。梅の季節はもう少し早くから始まっているが、探梅、観梅と訪れているうちに、次は桃だと桃源郷を訪れることとなり、すぐにもう桜前線がやって来て、あちこち桜見物に忙しくなった。

 そうこう歩いているうちに、灰色だった枯れた木々の梢も緑を増し、五月山の遠景もいつしか微笑んでくる。庭の芝生も新芽で覆われ、川の堤にはタンポポが散らばるように黄色い花を咲かせている。桜並木の下には菜の花畑も見られる。散歩道で特大の真っ赤な常磐万作が見れれるのも楽しい。名も知らぬ色々な花も彩を加えてくれている。

 ただ、桜に続いて例年4月半ばに咲く、我が家の自慢のダグウッドが、桜同様開花は早かったものの、老齢のためか一部の枝にしか花が咲かず かっての姿が見られなかったのが残念であった。

 コロナがこの先どうなって行くか、まだ定かではないし、コロナのワクチンもいつ順番が回ってくるか分からないが、ここしばらくは人の迷惑にならないように、近場を彷徨いて、気持ちの良い春の季節をせいぜい楽しませて貰おうと思っている。

オリンピック中止を早く決めるべきだ

 コロナの緊急事態宣言が終わってまだそれほど日もたっていないのに、あちこちでまた感染者が増え、殊に大阪では第3波の時に近い600人を超える感染者が出るようになり、大阪と神戸、尼崎、西ノ宮、芦屋、それに矢張り感染者の増加が見られる仙台を加えて、6都市に蔓延防止等充填措置が宣言された。

 2月末の緊急事態宣言の解除が少し早すぎると思われた。政府は途中中止になって予算の余っているGoToなどの経済対策のことや、オリンピックのことなどを考えて解除したのであろうが、それが誤りであった。東京はじめ首都圏も間違いなく、また増えてきて、何らかの手を打たねばならなくなるだろうことも明らかである。

 緊急事態宣言で冬中閉じ込められて我慢してた人たちが、いい加減飽きてきたところに、光春で日差しは1日1日明るくなるし、気温も暖かくなってきて、桜も咲くとなれば、誰だってもう我慢出来なくなって、気分の転換のためにだけでも、外へ出たくなるのは当然であろう。それは誰にも止められない。

 そこに春は学校の卒業式や、入学式、それに春休みがあり、会社も年度替わりで、新人の入社式が行われたり、人事の移動の季節にも当たる。嫌でも多くの人が集まる季節になる。

 そんな時に大人しく家に止まっておれと言われても、無理なことは容易に想像できよう。国民の監督役にあたる厚生省での歓送迎とやらでの大勢の会食が問題とされたことを見ただけでも良くわかるであろう。

 首都圏や近畿だけでなく、全国的に感染者が再び増えて、やがては、再び緊急事態宣言を出さざるをえなくなるであろうことはほぼ間違いないであろう。

 政府はワクチンの効果に期待しているのかも知れないが、輸入が遅れるので、日本における接種が予定より遅れることは確実である。そうなれば、日本で集団免疫が出来てくるのは早くとも今年の秋以降ということにならざるを得ない。オリンピックにはどうしても間に合わないであろう。

 政府はIOCなどと絡んで、膨大な予算やスポンサーの意向に振り回されて、何とかオリパラを強行したいようだが、そうなると、コロナ蔓延による緊急事態下でのオリンピック開催ということにもなりかねない。それでも、出場可能な選手だけででも、強行開催する積もりであろうか。本来世界中から選手や観客が集まって技を競い、交流を深めるのがオリンピックである。出場可能な選手や関係者だけで、コロナ蔓延の中で開催しても、本来のオリンピックの精神からは遠いものになってしまう。

 既に大掛かりな聖火リレーを始めているが、それ自体が大勢の人を集め、マスクも無しに騒いでいるのを見ると、コロナウイルスを拡散しているのではないかと疑われかねない風景である。大阪に続いてあちこちで聖火リレーの中止が決められたり、決めざるを得なくなったりするであろう。

 間際になってドタキャンのようなことをして、多くの人に失望と被害を来たすことを避け、早くオリンピックの中止を発表すべきであろう。いつまでも選手たちに無用な希望を抱かせておいて、最後にガッカリさせるようなことだけは厳に謹んで欲しい。オリンピック精神に反することである。日本の名誉にも関わることであろう。経済的な問題が絡むことは重々理解できるが、それに目が眩んで道を誤るようなことがあってはならない。

 最早一刻も早く中止を決断して、世界に知らせるべき時が来ていると思うがどうであろうか。