武士は食わねど高楊枝

「武士は食わねど高楊枝」とは、「 武士はたとえ貧しくて食事ができない時でも、それを周囲には見せないように誇り高く生きている」ということを表したことわざである。

  テレビでは朝から晩まで、何処かの番組では必ずと言って良いほど、料理や食事など、食べる番組をやっている。衣食住は生活の基本だから、よく取り上げられても当然であろうが、衣や住に比べても多過ぎるような気がするのは、食事の番組が一番取り付きやすく、安上がりで済むからではなかろうか と邪推したくなる。

 中には、見ているだけでも、美味しそうで、真似をして、こちらも食べてみたいと思うようなものもあるが、色々と工夫がなされ、色々なシチュエーションでの食事の場面が出てくるが、ただ気になるのは、どの場面を見ても、何を食べても、殆ど決まって「美味しい」という感想ばかりで、それしか言葉がないのかと言いたくなるような場面が多いことである。

 どうも私にはこういったご馳走だとか、料理の番組にはそれ程興味が湧かない。もちろん、私にも好きなものや嫌いなもの、食事のより好みもあるが、いわゆる食通と言われる人のような食事に対する細かい知識や思い込みのようなものに欠けている。料理や食べ物に詳しくなりたいとも思わない。

 どうも子供の頃からの「武士は喰はねど高楊枝」の教えが身についてしまっているのか、食事について文句を言うのは卑しいことだと言う先入観がいまだに抜けないようである。自分で料理を作ることもなく、与えられたものを食べるだけで美味しければ良いというところで、今でも、内容をそれほど吟味したり、比較したり、微妙な違いを追求したりすることには、あまり関心がない。

 どうも生まれた時代が悪かったようである。私の子供の頃は日本はまだ貧しく、凶作の年には、東北などでは娘を売らなければ食べていけない農民もいた時代で、弁当は日の丸弁当と言って飯の真ん中に梅干しが一個のっただけの弁当が推奨されており、腹さえ満たされれば、それで良しとされたものであった。そう言ったところに武士の格言が入り込んだのであろう。

 「質実剛健」などと共に入った「武士は食わねど高楊枝など」の教えが、男子が食事のことに興味を持ったり、口を出すことははしたないこととされたのであろう。その上、一番食べ盛りの頃が戦中、戦後の食事に恵まれなかった時代だったので、未だにその影響を引きずっているのであろうか。

 戦争末期から戦後にかけては、それこそ飢餓の時代で、飢えさえしなければそれで良し。食べられさすれば内容まで問題にするゆとりはなかった。戦争中、勤労動員に駆り出されて頃には「おっさん飯食わせ。豆の入った飯食わせ」と言う歌が流行ったが、戦争末期になると豆の輸入も途絶え、米の配給は二合一勺、さつま芋は蔓まで、蛙やイナゴ、バッタまで食べたものであった。

 戦後には、げっそり痩せてお腹だけ膨らんだ浮浪児などが大勢見られ、飢え死にする人もいた。食糧切符がなければ外食の出来ない時代が続き、「あそこへ行けば、”おじや”を食べられるので量が多い」と聞いて、友人と一緒に一駅向こうまで歩いて食べに行ったことが忘れられない。

 そのような経験のためか、戦後食糧事情が良くなり、飽食の時代が来て、ご馳走で溢れんばかりになっても、食事に関しては、食べられさえすれば良しで、肉食への憧れは強かったが、それ以外の食事の内容については、さして関心が深まらなかった。

 食事が出れば、誰よりも早く駆け込むように食べ、他人から誘われてご馳走を食べに行くことはあっても、自ら積極的により美味しいものや、珍しい食事を求めようという気にはならなかった。

 食通の人の細かい食事の自慢話には相槌を打って同調しても、すぐに忘れてしまう。折角生きているのだからご馳走を食べなければという人もいるが、私にとっては、今なおご馳走に入れあげるには、心の何処かに抵抗を感じるのをどうしようもない。「武士は食わねど高楊枝」の気分がいつまでも抜け切れないようである。

照ノ富士の優勝・大関復帰

 大相撲の今年の春場所が終わり、照ノ富士が優勝して、念願の大関復帰をも果たすことが確実になった。先ずはおめでとう!立派だ、よくやったと言いたい。

 この力士については、かって大関だった頃からのファンで、いずれは横綱になるのではないかと期待し、応援していた力士である。腕っ節が強く、体力を生かしたかなり強引な取り口の相撲であったが、誰にも負けず、この分だと白鵬などの跡を受け継ぐ横綱になるのではないかと期待していたのであった。それが両膝を共に痛めて挫折し、大関から転落して、序二段にまで下がり、最早これまでと思われていたのが、奇跡的に復活し、とうとう元の大関にまでなったのである。

 かって大関で膝を怪我した時、次の場所は休場して、膝の治療に専念をするべきだと強く思ったのだが、本人が若かったためか、無理をして出て来たのが災いして、とうとう両膝を悪化させてしまい、番組からも脱落してしまったのが残念でならなかった。

 もう相撲人生を絶たれたようなもので、殆ど忘れられかけていたが、それが奇跡的に復活して、再び大関に帰り着くなどということは普通には考えられないことである。それも、手術したとはいえ、今でも両膝に厚くテープを巻いたままの姿での出場である。

 何か痛々しく、今でも他人事ながら、あの時休んでいたらなあと悔やまれるのだが、同時に照ノ富士の根性には敬服せざるを得ない。あの膝でここまで復活すると思った人は先ずいなかったであろう。今の日本人で、あれほどの根性を持っている人は他にはいないのではなかろうか。

 照ノ富士がモンゴル人で良かったと思うのは私だけであろうか。もし彼が日本人であれば、それこそ、日本人の誉だ、大和魂だ、日本人だからこそ根性でここまで復活出来たのだなどと騒がれ持ち上げられ、贔屓の引き倒しにされたところではなかろうか。

 大関の次は、横綱になって、白鵬の跡を継いで欲しいと思いたいが、今でも膝には大きな問題を抱えているわけだし、決して周りの声援に乗せられ過ぎて、無理をし、再び膝を悪くしてしまうようなことのないようにして欲しい。こんな偉業を成し遂げたのだから、あとは横綱になれなくても良いから、体にも注意しながら、頑張って欲しいものである。

優勝した時の笑顔が忘れられない。

 

どうしてファッションマスクは流行らないのか?

 コロナの流行のおかげで、この頃は何処へ行っても、遭う人、見る人、殆ど全ての人がマスクをしている。中には、表面に模様があったり色の着いたマスクをしている人もいるが、殆どの人はただの白いマスクか、そうでなければ、黒か、ブルーの一色のマスクである。

 マスク姿が増え出した頃には、そのうちに真っ白なマスクばかりでなく、段々とファッション性のある模様のついたマスクなどが出廻って来るのではないかと思った。SNSにも、色々な色や模様のついたマスクを見かけたし、美術館の売店などでも、色々なアート作品をアレンジしたマスクが並べられていた。

 私も、白一色では物足りないので、その上に絵でも書いたらと思い、自分でもやってみたが、不織布には絵の具が載り難い上、マスクの襞のために、マスクを着けた時と、外した時のズレが大きく構図が取りにくい。仕方がないので、小さなシールをたくさん貼り付けて、模様を作ってみたりもした。

 こうして、その内に色々なファッショナブルなマスクが出て来るだろうと楽しみにしていたが、いつまで経っても流行って来ない。勿論、服装にあった色のマスクをしている人や、模様入りのマスクをしている女性もいないわけではない。東京都知事や西村大臣のように、模様のついたマスクをしてテレビに出ている人を見かけることもある。しかし、それらはまだ例外的なケースと言っても良いぐらいである。何かが切っ掛けになって、素敵な感じのマスクが流行ってくれないかなあと私は微かな期待を捨てきれないのだが・・・。

  新しいファッション好きな女性も多いはずなのに、これはどうしたことかと思ったが、どうも、マスクは今後も永続的に着用するようになって行くものではなく、あくまでも、コロナ流行のため、感染予防のために、一時的に仕方なしに着用しているもので、早く外したいと言う見えない欲求が働いているような気がする。

 やはりマスクなど外して、鼻も口も露出して、本来の顔で自由に呼吸し、話もしたいのが人情であろう。マスクはあくまでも仕方がないから、一時的にしているのであって、喜んでいつまでもしていようなどとは考えていないという、無言の意思が表れているのではなかろうか。

 いつまで続くか分からないが、出来るだけ早くコロナが終息して、皆がマスクなしに、お喋ベリをしながら一緒に食事をしたり、お互いにハグしあって再開を喜んだり出来る日の来ることを願うばかりである。

「国旗損壊罪」

 自民党議員連盟「保守団結の会」で代表世話人を務める城内実衆院議員や、同会顧問の高市早苗総務相らが「国旗損壊罪」として、「日本国を侮辱する目的で国旗を損壊・除去・汚損した人は、2年以下の懲役か20万円以下の罰金を科す」というものを国会に提出しようと企んでいるとか報道されている。

 なぜ必要なのか? 刑法が92条で「外国国章損壊罪」を定めているのに、日本国旗の損壊罪はない。米国やフランス、ドイツ、イタリア、中国などには自国国旗の損壊罪があり、これは独立国として当然である。ゆえに日本でも国旗損壊罪を作ろうということらしい。

 「まず『外国でもやっているから日本でも』ということらしいが、米国では確かに連邦法や州法で国旗である星条旗の尊重を課し、冒とく行為を禁じる法律があるが、例えば連邦法の『国旗保護法』に対しては、米連邦最高裁が1990年に『表現の自由』を保障した合衆国憲法修正第1条に反するとして違憲判決を出して以降、この法律は事実上無効となっているそうである。

 法律のことは詳しくないのでわからないが、アメリカでは1943年、既にまだ第二次世界大戦中にもかかわらず、公立学校における国旗敬礼行事への出席を、宗教的信念により拒否した生徒に対する処分が争われた事件に対して、連邦最高裁が国旗への敬礼を強制する州の行為を憲法違反とした「バーネット判決」があったことが本にも書かれている。( 蜷川恒正著「憲法的思惟 アメリ憲法における自然と知識 岩浪書店)

「国旗は尊重すべきだとしても、時の権力を批判する人たちが自国国旗を焼くといった行為は、権力に対する抵抗や反対の意思を象徴する行為であり、これは表現の自由として認めなければならない」という考えで、大勢に従わない人々の自由をも保障するものである。

国旗損壊罪」については、 自民党内にも反対の意見もあるようなので、どうなるかまだわからないが、国旗や国歌は国家を象徴するものであるから、民主義国家であれば、本来、国民の総意によって決めるべきものであり、それが決まれば、尊重すべきであろうが、当然多くの人たちと意見の違う人たちの自由をも保障すべきであり、国旗や国家に対する尊重は人々に強制するものであってはならない。

 ましてや日本の場合、君が代や日の丸を先頭にして周辺諸国に侵略した歴史があり、その否定の上に現在の日本国があるのである。その反省を踏まえて、国旗や国家も考えるべきであろう。当然国旗や国家については国民の中にも大きな考え方の相違があるであろう。

 それにも関わらず、現在の国旗、国家は国会の承認もなしに、政府によって、旧大日本帝国のそれを恣意的に踏襲して決められたものである。その国旗や国歌の尊重を国民に押し付けるのは民主主義政府の取るべき態度ではない。大阪における国歌を歌わなかった教師に対する懲罰などもっての他である。

 私は日の丸を見たり君が代を聞けば、今でも戦争の苦い経験を思い出して、生理的に耳目を背けたくなるのはどうしようもない。多くの日本人が日の丸を日本の国旗として認めるのならば、それはそれで反対はしない。ただし、私の日の丸に象徴される大日本帝国に対する嫌悪の情が消えるわけではない。

 今でも朝早くのテレビが日の丸を出す時には目を背けているし、大相撲の表彰式で君が代が演奏されている時には、テレビを切って終わるのを待っている。君が代の国歌は最早言葉も曲も時代遅れで、悪夢の思い出が蘇るだけである。個人的には、もっと現代的な民主主義国家に相応しい素晴らしい国歌が出来ないものかと思っている。

 こうした過去の歴史のしがらみを今なお背負っている人もいるのだし、国家は多様な国民によって発展するものである。幅広い国民の意思や感情を尊重して、一律に国旗や国歌を強制すべきではなかろう。

 

 

 

 

一緒に空襲に遭った仲間

 先日の朝日新聞の「声欄」に「ハルカスに思う 大阪大空襲」として88歳の女性の方が投稿してられるのが目に止まった。1945年3月13 日深夜の第1次大阪大空襲から76年と書かれ、当時から敗戦後にかけての天王寺駅界隈のことに触れられていた。

 私も、当時、天王寺駅のすぐ北の茶臼山町に住んでおり、同じ時に、一緒に空襲に遭い、空一面から降ってくる焼夷弾を見上げているうちに、忽ち周りが火の海となり、火災の中を天王寺美術館の垣根をよじ登って、庭を抜け、建物の地下へ避難したのであった。

「声欄」の女性は全く存じ上げない方だが、同じ時に、すぐ近くで、同じ災難に遭っていたと知ると、何だか身近な人のような懐かしさを覚えて、ついその記事を切り抜いていた。何はともあれ、無事で、この年まで、平和な世の中を生きて来られたことを共に喜びたいものである。

 この方はどうにか焼けずにすんだ小学校で卒業証書を貰われたが、お父さんが戦死され、母親だけで、戦後にも随分苦労されたことだろうと推察する。私は中学校の卒業式もないまま、4年で卒業させられ、4月から江田島へ行って、最後の海軍兵学校生徒になった。

 ところが、本気で、天皇陛下の御為に、大日本帝国のためには命を賭しても戦うぞと思っていたのが、4ヶ月で敗戦。それまでの世界が全てなくなり、突然変わった世の中について行けず、虚無の中を彷徨した年月を過ごした挙句に、ようやくに戦後を何とか乗り越えて来たようなものであった。

 記事にある「ハルカス」の地にその頃あった百貨店は大鉄百貨店(後の近鉄)で、茶臼山からもよく見え、よく利用した所でしたが、空襲で焼けてしまい、真っ黒に口を開けた虚ろな窓が並んで、どの窓からも斜め上に黒い煤が走る無惨な姿を晒していたのが今も忘れられない。

 敗戦後、百貨店の北側の天王寺駅前広場には、ぎっしりと闇市が立ち並び、復員軍人やヤクザ、第三国人在日朝鮮人などをそう呼んだ)、それに浮浪児や傷痍軍人なども加わって混雑し、長い間、惨めで怪しげな雰囲気を漂わせていた。空襲で亡くなった人達、戦後に飢えて亡くなった人たちも沢山いた。

 苦い思い出である。世はまた次第に戦前に似てきているが、今の若い人達がもう二度とあのような悲惨な目に遭わないよう、戦争には絶対反対しよう。

 

「絆」、「花が咲く」が分からない

今日Facebookを見ていたら、たまたま下記のような東日本大震災について書かれた上田誠さんという方の『「絆」、「花が咲く」が分からない』という2015年の3月に書かれた文に遭遇した。是非一人でも多くの人に知って貰いたいと思い、ここに引用させていただいた。

私のこのBlogの3月10日と12日の同震災についての記事とともに読んで頂ければ有難い。

2021.03.23。のFacebookより

 上田

2015312  · 

        「絆」、「花が咲く」が分からない。

毎年、繰り返される「絆」の唱和。

私には、これがさっぱり分からなかったし

今もよく分からない。

3.11直後から

この言葉の意味が良く分からなかった。

分からないあまり、息子にその意味を尋ねたりしたものだ。

津波で

子どもを失い

妻を失い、

祖父、祖母を失った者とその死者とのつながりなのか、

初めはそう考えたものだった。

死者とのつながりを失うなということか。

であれば、死者との交信はやすらぎではある。

でも、

どうやら違うらしい。

被災した者を勇気づけるための

「私たちはつながっているよ」という、

一番避けたいそれであった。

まさか、こんな意味で唱和するくらい

他人の不幸に鈍感になってしまったのか。

だから、

この言葉を聞くたびに

とても気分が悪くなった。

無関心を装うことで、心のバランスを保つようになった。

親族を失って

たったひとりになった者が

残された人生を楽しく生きて行けるものか、

前を見て生きていけるものか。

ましてや、私たちとつながっているよ、と他人が

手をさしのべるのは、あまりに失礼すぎる。

被災者の、

生きるほどに

苦しくなっていく、その心が

見えないのだろうか。

家族全員を失った男が

「絆」の言葉なんか聞きたくないという映像があった。

彼は、とにかくかまわないでほしい、と言っていた。

岩井俊二さんの「花が咲く」についても

岩井さんの歌だけに、

その歌詞には戸惑ってしまった。

いつか花は咲くのであろうか。

そう思いたい気持ちは分からぬでもないが、

福島では

ほんとうに「花」が咲くのだろうか

咲くのかどうか、

私にはどうしても分からない。

どれだけ自問自答しても分からない。

悲しみに苛まれて、

生きるのが苦しくて

もうどうしようもない絶望の淵で

自死に至る方があとを絶たない。

どうしようもないことが起きたのであり、

その悲しみは、容易に「前を見て」なんていえないほどに

それほどに苛酷な天災であり、福島であったとのだとしか

私には思えない。

FBFの寄稿で

松本昌次さんの記事を読ませていただいた。

松本昌次さんには「花は咲く」という歌が

戦時の『海行かば』にどうしても重なると言っている。

彼はまた、

「戦争中からこれまで、いったいどれだけ死者とともにわたしたちは、“希望の涙”に誤魔化されてきたことか。」と言い、また、「あなたは、津波で家族を亡くした人や、放射能で家を追われて帰るあてもなく他郷に仮寓している人の前で、『花は咲く』を歌えますか。スタジオのマイクの前ではない。被災者の前で、「花は 花は 花は咲く」と本当に歌えるのだろうか。もし歌えるとしたら、わたしはその人の神経を疑わざるを得ない。」とも言っている。

絶望の悲しみが「希望の涙」に変化するその変わり身が

ファッショに繋がるという直感もそうだが、

「日本人」の、乗りこえるべき「心性」が

まずは、ここにあるように思う。

かつて、

障害児施設にボランティアに来た中・高生が

2週間足らずの活動で

「障がい児は、みんな一生懸命生きている、純真な心をもつ子たち」と

異口同音の感想を述べていたことに

危機を感じたものだった。

障がい児は

一生懸命に生きることを強いられ

純真な心をもつとの偏見に

ずいぶんとやられてきた歴史があるのである。

時代は大きく変わってきたというのに

毎年、3.11が近くなると

とても暗い気持ちになってしまう。

私のことはどうでもいいのだが、

被災者、福島の悲しみを

勝手に巻き込んではいけない、

そんなことは絶対にしていけない、と思う。

(註:上田 誠 様:無断で転載させて頂ましたが悪しからずお許しください)

道端の小さな鳥居

 昔は公衆便所などというものが少なかったので、立ちションベンと言ったが、立小便は普通であった。男だけでなく。女もだというとびっくりされるだろうが、私の子供の頃には田舎でのことだが、道端で女性が着物の裾をまくり揚げて、立ちションベンをしているのを見たこともあった。男女で体の向きが反対なのが特徴的であった。

 人の少ない田舎なら昔はそれでも、流石に何の問題はなかったが、人の多い都会や町で立ち小便などをされると、第一不潔で不衛生だし、周りの迷惑になるので困る。その被害を防ぐために、立ち小便をされては困る所には、赤いミニチュアの鳥居を立てたり、ペンキで鳥居を描いたりされていたものであった。繁華街の外れや、飲み屋街の近くには、やたら多くの小さな鳥居のオンパレードが見られるような所さえあった。

 それでも私の子供の頃は、人の通る道端で立ちションベンをしている姿を見るのは決して稀ではなかった。それどころか酔っ払いが、子供達に見せつけるかのように、道の真ん中で歩きながら放尿し続けたのを見たこともあった。流石に今ではそんなことをする人もいないし、すれば、軽犯罪法違反で検挙されるであろう。

 しかし排泄は生理的なものであるから、立ち小便を禁止するには、地域としても、それに対処して公衆便所などを整備しなくてはならない。公衆便所は私の子供の頃からあったが、まだ少なかったし、あっても大抵は蝿が飛び交い、暗くて汚い、気持ちの悪い所で、あくまで仕方がないから我慢して行く所であった。そのためかどうか知らないが、立ち小便の方が気持ちが良いので、公衆便所の近くで立小便をする人さえ見かけたものであった。

 ところが最近は当時とは全くといっても良いぐらい事情が変わってきた。何処へ行っても、それなりに整備された水洗式の公衆便所が整備されているし、街角のコンビニなどでも用は足せる。少なくとも、街中で立小便をする人はいなくなったのではなかろうか。

 それに伴って、いつしかもう立ち小便禁止の小さな赤鳥居も殆ど姿を消してしまった。いつだったか、京都の大道りに面した道路脇で、旅館の高い黒塀が続いている所に、ひょっこり赤い小さな鳥居の一つあるのを見つけて懐かしく思ったものであった。もう今の若い人の中には、その鳥居が何を意味するのか知らない人もいるのではなかろうか。