二度目の「おいてけぼり」

 戦後の話の続きである。 先に書いたように敗戦による世の急変について行けず、ひとり「おいてけぼり」(取り残される)を食らって、ニヒル虚無主義に放り出された私は、時間はかかったが、やがて落ち着いた先は戦後の民主主義であった。

 占領軍の対日政策は、先ずは大日本帝国を完全に壊滅して、二度と戦争が出来ない国にしようとするものであった。そのためには天皇制を利用したものの、アメリカ流の民主主義を定着させようとし、若手の司政官たちに新憲法の草案を作らせたりしたが、国民の側でも、戦時中囚われたり、沈黙を守らざるを得なかった人たちが自由になり、表現の自由が復活し、労働者たちも自由に発言することが出来るようになって、戦後の民主主義は短時日のうちに花開いてきた。

 短い間であったが、新鮮で素晴らしいものであった。人々が本気で世の中を変え、民主主義国家として出直すのだという情熱があちこちから湧き上がってくるのが感じられた。私もそこに希望の地を見出したのであった。

 封建的な制度が変えられ、誰もが貧しかったが、平等で、平和な夢を描くことが出来た。学校教育でも民主主義が強調され、新しい平和憲法が解説されたし、思い出すのは、今では死語に近くなっている「公僕」という言葉が使われるようになったことである。国民主権が尊重されようとした時代であった。ただ戦争責任の追及が曖昧なまま放置されてしまったことが残念であった。

 戦後の貧困やそれに被さるインフレなどによって、生活を追い詰めらた人々も自由に発言出来るようになり、労働運動も活発となって、1947年2月には30組合400万人によるゼネストが政府を脅かすようになり、極限で、慌てたマッカアサーの命令によって中止させられるようなことも起こった。

 その頃までは、アメリカでも、アジアにおける拠点を日本に置くか、中国にするかで議論があり、日本の残存工場施設を中国へ持って行こうとする考えもあったが、1949年に中国共産党の勝利が決まり、やがて1950から朝鮮戦争が始まって、アメリカは政策を変え、日本を反共の防波堤にしようとして、自衛隊など日本の再軍備が進んでいくこととなった。

 以来、アメリカ追随の政府も、折角芽生えかけた日本の民主主義を大きく抑えにかかってきたが、一度経験した民主主義は人々の間に強く根を下ろし、平和憲法にも助けられて、逆コースに反対、アメリカの侵略戦争としての、朝鮮戦争に反対、憲法改正阻止の運動が続き、それが1960年の安保反対闘争に続いていったのであった。

 しかし、朝鮮戦争に積極的に加担した政府は、後方基地としての地位を利用し、産業の復活、ドル資金の確保のチャンスを掴み、それに乗っかって、1955年体制で安定した政権基盤を確保し、以後急速に高度成長期に突入して行くことになった。

 そうなると、学生時代に共に憂い、共に議論し、共に戦った旧友たちが、卒業と同時に、次々と踵を翻すように大企業に就職し、瞬く間に会社人間となって一心不乱に会社のために働く姿を見させられることとなった。忠誠を尽くすのは会社であって、いつしか民主主義は再軍備などとともに置き去りにされていった。

 私は医学部だったので卒業も遅く、実質的に気分も未だ学生の続きだったので、ここで再び「おいてけぼり」の目に逢うこととなったのであった。当時の日本は未だ貧しかったこともあり、生活の豊かさが、貧乏人の議論を超えて、実利に向かうのを抑えることは誰にも出来ないことを納得するには少しばかり時間が必要であった。

 中国の発展も毛沢東思想を超えて、鄧小平の資本主義経済の導入によって始まったことは歴史の貴重な教訓である。