アメリカの人種差別は世界の人権問題

 もしあなたが恋人と自宅の自分のベッドで寝ていた時に、何の前ぶれもなく、突然ノックに続いて、ドアを壊して3人の男が踏み込んで来たらどうしますか。恋人が持っていた銃で応戦しようとしたら、相手の三人が一斉に銃で反撃し、あなたは殺されてしまうのです。

 それも相手の三人というのが制服を着た警察官なのです。 こんなことが日本で考えられますか。あなたがこの犠牲者だったとしたらどうですか?

 警察官が犯罪者の家を誤認して、押し入ったものだったのです。これがアメリカのケンタッキー州ルイビル市で起きたことです。これによって救急救命士の黒人女性、ブレオナ・テイラーさん(当時26歳)が殺されてしまったのです。しかもこの三人の警察官に対して、大陪審は、一人が発砲の間違いを問題にされただけで、刑事責任を問わない判断をした由です。

 これで怒らない人がいるでしょうか。当然憤る市民による抗議は、各地に広がったそうです。本来、市民を守るべき警察が、平穏な市民の生活の中に押し入って、事もあろうに、殺害することは、どこの国でも、どんな理由があるにしても許せません。

 実行した三人の警察官は恐らく上司の命令によって行動したのでしょうし、銃社会アメリカですから、夜間に突然ドアを破って侵入して来た者がおれば、護身用に銃を撃つのは当然でしょうし、警察官の方も銃撃されれば、それ以上に反撃することも当然でしょう。

 したがって、この事件は実行した警察官より、民家に不意打ちの侵入を命令した警察組織の方に原因があるように思われます。警察官が警告もなしに、突然ドアを破って侵入するには余程の根拠がなければ出来ることではありません。たまたま偶発的に建物を誤ったというのであったとしても、その建物を同定する過程で、住民に対する人種的偏見が関係していたのではないでしょうか。

 アメリカではどこの街でも、人種によって住む区域が違っていることが多く、人種によって警察の対応の仕方が違うことが広く見られていることです。何かの犯人を追うにしても、事前の調査の段階から人種差別によって、調査が杜撰であったのか、調査に関わった警察官に差別的な意識があったのかも知れません。

 何れにしても、文明国と言われるアメリカで、こんなことが許されて良いわけはありません。この事件はジョージ・フロイドさんが警察官に首を抑えられて窒息した映像がSNSで流されて、世界中の人々の怒りを買い、それに反対して、Black Lives Matterの運動(B.L.M.)が、全米各地だけでなく、世界中に広がり、続いている中での判決で、一層人々の憤りを高めました。

 B.L.M.の運動については、日本人の大坂なおみ選手が、全米テニス選手権に優勝した試合で、これまでの不当な警察の絡んだ犠牲者7名の名前を書いた帽子を被って抗議の意思を示したことで、日本でもよく知られるようになりました。これまでに繰り返されてきた警察による黒人の命の軽視の一環であり、これは歴史的なアメリカの司法制度に問題があると見なければならないでしょう。中国の新疆や香港の人権問題を騒ぐ前に、足元の自国での人権無視をもっと重視して、優先した問題として取り上げるべきではないでしょうか。

 その上に、未だに解決に程遠いアメリカ社会の銃規制の不備というより無さが、事件をより悲惨なものにしていると言えるでしょう。 銃規制に関して言えば、アメリカでは民間に3億丁からの銃があり、毎日百人、年間4万人が銃で命を落としているそうです。アメリカの人口が世界の約3%なのに、世界の銃の半分がアメリカあるとも言われていますが、今だに銃の規制は一向に進んでいないようです。

 勿論、銃がこの問題を起こしたのではなく、人種差別による人権無視の判断や実行がこの悲劇を引き起こしたものであり、これはアメリカだけの問題ではなく、人類全体に共通する人権の問題であることを強調しておかねばなりません。

 

 

 

 

 

 

 

こどもの頃のマスク

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 コロナが流行し出してから、この国ではでどこへ行ってもマスク姿ばかりと言っても良い。マスクはコロナの予防に確かに効果があるようで、初めのうち、否定的であった国々でもそのことに気づいて、何処の国でもマスクが推奨されている。

 ただ、日本ではむしろ必要以上にマスクが流行っているのではなかろうか。最近でこそマスクをしていない人にも出会うが、ひと頃は何処へ行っても、一人残らずマスクをしている感じで、慣れないせいもあってか、何か恐ろしささえ感じたものである。

 人通りの少ない住宅地でも、郊外の川の堤防の上の道のような風のよく通る開けた所でも、皆マスクをして歩いている。折角、清々しい空気を胸一杯に吸えるような所なのに、行き交う人は一人残らずマスクをしている。どうも、皆がしているからしておかねばと、単に同調してマスクをしている人も多いのであろうか。

 それは兎も角、日本人はマスクが好きなのか、外国ではマスク姿など殆ど見られなかったのに、日本では花粉症のためか、随分以前から、冬から春にかけてはマスクをつけている人が多かった。女性では、それに便乗して、スッピンを隠すためにマスクをしているという人もいたらしい。

 マスクも初めのうちは白い不織布の使い捨てのようなものが殆どであったが、これだけ広がると、色や模様のついたもの、顔にフィットしやすいような形をしたもの、ひんやりした感じのもの、自家製のものなど、多様になった来た。マスク専門店まで出来ているのには驚いた。

安いものは10円ぐらいから、高いものは何万円するのまであるとか。

 そう言いえば、私が子供の時にもマスクをしていたことを思い出した。昭和9年にインフルエンザが流行ってマスクがよく売れたというっ記事があったので、その頃のことだろうと思うが、今のマスクと違い、黒い三角形のような形をしたマスクであった。

 私の記憶では、立体的な作りで、芯に茶こしのような細かい金網が入っており、その表裏に布を張ったようなもので、表面は黒い別珍かビロードのような生地で覆われ、表面に四つか六つの小さな穴が開けられていたと思う。表面から見た感じは、この文の先頭に掲げた写真に見られるようなものであった。

 マスクそのものは明治の初めから日本に入って来ていたらしいが、1918年から20年にかけてのスペイン風邪の世界的な流行で一気に広がったようである。上の写真はその頃のものであろう。その頃からの影響で、私たちもインフルエンザの予防ということで、黒いマスクをさせられていたものだったのであろう。

 それ以来、マスクは色々改良されてきて、現在のようなものになったらしいが、最近知人に教えられて、これをするとマスクが顔に密着しないで、呼吸や話をするときに楽だと言って買ったのが、顔とマスクの間に挿入して用いるプラスチックで出来た型枠のようなものである。 実際使ってみると、特に吸気の時などに、マスクが鼻などに密着せず気持ちが良いの

で、最近はずっと愛用している。

 これは要するに昔、我々が子供の頃に用いたマスクの金網と同じような物なのである。ひょっとしたら、この型枠のようなものを考案した人も、昔のことを知っていて作ったのかも知れない。いつまでコロナが続くのかは定かではないが、少なくとも今年の冬から来年の春ぐらいにかけては、まだお世話にならなければならないマスクであるから、出来るだけ快適なマスク環境を整えておきたいものである。

 

 

日本会議・神道政治連盟内閣

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 漸く安倍内閣が終わったが、ずっとその間、官房長官を務めた菅氏が後継内閣の首班となったので、これでは全く代わり映えがせず、スッキリした気分にもなれない。

 菅新首相も自ら安倍政権の施策を継承していくと言っているし、閣僚の構成も留任や再任が多い。当然のことながら、新内閣でも安倍内閣同様に、日本会議神道政治連盟に加盟している閣僚が多く、新内閣の大臣20人中18人が、いずれか(または両方)の議員連盟に加盟していることが報じられている。(公明党籍の大臣を除く)

 安倍政権の時もそうであったが、かつての侵略戦争を肯定・美化する志向を強くもつこれらの団体に殆どの閣僚が属していることはどう見ても異常である。多くの国民が選挙で選んだのは表の顔の議員についてであって、裏の顔を見て選んだ訳ではなかろう。しかし、これだけ多ければ、これらの団体、日本会議神道政治連盟が政権を支配しているとさえ言えるのではなかろうか。
 Wikipediaによると、日本会議憲法改正、自虐的歴史教育の是正、公共心、愛国心、豊かな情操教育、行き過ぎた権利偏重の是正などの教育改革、自衛隊法改正、総理大臣の靖国神社参拝、従軍慰安婦南京大虐殺の否定、夫婦別姓男女共同参画条例反対、外国人地方参政権反対などと、右翼的政策を掲げ、外国からは「日本最大のナショナリスト団体」「急進的な国粋主義グループ」「影で日本を操る『宗教カルト集団』」「超保守的なロビー団体」などと評価されている。
 また、神道政治連盟は神社界を中心に構成される政治団体で「日本の歴史、文化、伝統を後世に伝えることを活動目標としており、中央本部は神社本庁にある。日本国憲法では第20条で、国及びその機関は、宗教教育その対価なる宗教活動もしてはならないとあるので、政治活動をする国会議員がこの連盟に加わることには問題があるのだが、この神道政治連盟に賛同する国会議員からなる、議員連盟として「神道政治連盟国会銀懇談会が存在し、一応別団体としている。
 こう見てくると、誰が見ても、この両団体の主張や活動方針が、現政権の施政方針に影響を与えないとは考えられないであろう。しかも、閣僚がこれだけ日本会議神道政治連盟に属していることは国民によくは知られていないし、神道政治連盟に至っては、上述の如く、憲法上の問題としても、微妙なものがある。これでは政府の政策が広く国民のためと称しても、日本会議神道政治連盟の方針が優先されかねないと思うのは私だけではないであろう。
 こういう閣僚人事の異常さだけを見ても、新政権が誰のための政策を進めようとしているのかを見極める時の参考にすべきであろう。
 

    

自民党は人種差別主義政党なのか

 日本国籍のテニスの大坂なおみ選手がアメリカの大会で2回目の優勝を果たした。日本の新聞も大きく報じ、多くの人がその偉業を賞賛した。試合の時に大坂選手がアメリカのBlack Lives Matterに賛同して、殺された七人のアフリカ系アメリカ人の名前を帽子につけて臨んだことについても、賞賛してその七人についての紹介までした新聞もあった。

 安倍前首相も、9月13日に「二度目の全米オープン優勝、おめでとうございます。最後まで諦めることなく、フルセットでの逆転勝利。感動をありがとう!ますますのご活躍を祈念しております」とSNS に投稿している。

 他にもSNSでも賞賛の声も多かったが、日本では、よく言われるように、「スポーツに政治を持ち込むな」といった批判も結構あったようで、安倍首相も大坂選手の反差別アクションについては完全に無視していた。スポーツ選手であろうと、どんな職業の人であろうと、政治的な発言をするのは当然の権利で、何も言わない方がおかしいのではなかろうか。その人の政治的発言がどうであろうと、試合に勝ったことを素直に喜べば良いのではなかろうか。

 SNSからの報道によると、自民党松川るい参院議員も、大坂選手の全米優勝のニュースをリツイートし、下記のような投稿をしていた。

大坂なおみさん、優勝おめでとうございます!!優勝だけでもすごいのに、7枚のマスクに込めたメッセージは凄いインパクトを米国に世界に与えました。日本人として誇りに思います。米国警察は黒人の命を軽視するのをやめてほしい。〉(9月14日10時55分)

 ところが、この松川議員、それから2日後、この投稿を削除し、謝罪してしまっているのである。黒人差別のツイートを削除・謝罪するならわかるが、黒人差別への抗議を撤回・謝罪するとはどういうことなのだろうか。自民党支持者からの非難や攻撃があったからのようである。

〈お前はアホか!! 自民党参議院である自覚はないのか。議員にしてはあるまじき情弱の極み。BLMの現状をしっかり把握してツイートして下さい。野党議員と同レベル。絶対に許せません!!〉(絵文字を省略した以外は原文ママ
〈松川さんのあまりの稚拙なツイートを見て驚きました。これが日本の参議院議員のレベル!? アメリカの差別の問題と、今回のBLMのきっかけは別物。殺された黒人は、犯罪を繰り返していた前科持ちの凶悪犯で、白人の警察官も身の危険を感じながらの攻防である。無実で無垢な黒人が殺された訳ではない。〉
〈黒人犯罪者は米国警察官、そして遵法市民(他の黒人を含めて)の命を軽視するのをやめてほしい。国会議員の立場で前科何犯もあり、逮捕時に抵抗して警官に危険を及ぼすような挑発的な行為する犯罪者を擁護するのをもやめてほしい。〉(原文ママ
〈終わったね、松川るいさん、小賢しいこと。大坂なおみは日本中から見放されてるよ。貴女は自民出て立憲に行けばいいよ〉などなど。
 こんな差別的な投稿が殺到していたのだ。差別に反対したことを、「国会議員にあるまじき」とか「自民党を出て行け」とか「終わった」とか……。自民党の支持者ってどこまで低俗なのかと思わざるを得ない。さらに百田尚樹も〈最後の一行、国会議員がこんなこと言っていいの?自民党は注意しないのか?〉と言っているそうである。

 BLM運動拡大のきっかけとなったジョージ・フロイドさん殺害に限らず、アメリカで警察による黒人の殺害が長く問題となってきたことは紛れもない事実であり、そもそも「黒人の命を軽視するのをやめて」というのは政治的立場を超えて人権問題であり、人類共通の課題である。それについて素直に自分の受け止めた感じを書いただけなのに、なぜ「こんなこと言っていいの?」などと咎めなければならないのか。咎める方も差別される側にいることを知らないのであろうか?

 松川議員も情けない。〈下記Twitterについて。殆どの警官の皆様は命懸けで市民を守っています。それにもかかわらず、軽率なコメントをしてしまったことを関係者の方々に心からお詫び申し上げます。本当に申し訳ありませんでした。〉と書いて元のツイートを削除してしまったのである。

 アメリカの人種差別問題を少しは勉強すべきであろう。未だに日本人の中には、アメリカ社会を白人主流の社会と思い、人種問題については自分たちの関心外のこととし、自分たちがが白人側にいると思って、黒人の運動は異分子の騒動ぐらいにしか考えない人がいる。

 しかし、少し調べればすぐにわかることであるが、アメリカの人種問題は、世界の流れから遅れた、歴史的、構造的なもので、世界の何処の人々にとっても重要な人権問題なのである。自民党関係者やその支持者たちも、いつまでも無知な者のアメリカ礼賛を止め、冷静に客観的な世界の動きを見ないと、世界の変化から取り残されてしまうであろうことを知るべきである。

夢に出てくるのは死んだ友ばかり

 時々夢を見る。夢といっても若い時と違い、将来の夢のようなものとか、仕事での葛藤とかいうものはもう殆ど見なくなった。見るのは何処かでトイレがなくて探しているとか、帰ろうとしたら、来た時に玄関で脱いだ靴が見つからないので困ったといった、他愛もないような夢が多い。

 その他は、ぼんやりした夢で、目が覚めたらもう忘れてしまっているような夢ばかりである。そんな中に昔の友達なども出てくる。しかし最近では、出てくる友達が、皆もう既に死んでしまっていない友達ばかりである。

 一緒に旅行したり、一緒に飲んだりした友達や、何人かで時々集まったりした仲間なども若いい時には、その時なりに沢山いたが、八十歳を超える頃から次第に減っていき、歳とともに、一人死に、また一人と逝ってしまった。

 若いうちに死んでしまった者もいたが、退職してからもゆっくり付き合えた友人たちも、八十五歳を過ぎると、ぼつぼつ死んでいって残り少なくなっていく。定期的な集まりで「まだ生きていたらまた会おう」などと冗談を交わして別れた仲間も本当にいなくなり、仲間が減って、残った者もアチコチ具合が悪くなり、会合も自然消滅ということになる。

 この頃になると新聞や同窓会報などの死亡広告欄に自然と目がいくようになるが、あいつも死んだ、こいつもいなくなったかと昔の面影を偲びながら、記事を確かめることになる。

 こうして、九十歳を超えると、もう残った僅かの友人までもが消えていくことになる。私の父は九十四歳で死んだが、大学の二年上の友人が一人だけまだいて「小出くんはまだ若いのに」といったのが印象的であったが、寂しい葬式であった。その時思ったのは、「長生きが良いとは限らない。人間には死に時がある。まだ友人たちがいて、『あいつもとうとう死によったか』と言ってくれる間に死んだ方が良いのでは」と思ったものであった。

 親しくしていた友人がもう誰も残っていなくなると本当に寂しくなる。家族ぐるみで付き合っていた友人も、本人が死に、奥さんが後を追い、後、娘さんだけが時に訪ねて来てくれる。子供の時から仲の良かった最後の一人の友人も、始終電話で話し合い、時々会っていたが、いつしかボケて、老人ホームに入れられ、その後連絡が途絶えてしまった。

 現実にいなくなってしまったので、それを補うように夢で、いろいろな友人が出てくるのであろうか。最近、時々かっての友人の夢を見る。つい先日は小学校の時のクラスメートが出てきたが、以前その男が住んでいた家の近くを通って思い出したからであろうか。それに触発されてか、違う夜には、また小学校の時と大学で一緒になった友人で、最後はボケてしまったが、一緒に何かしている夢を見た。

 いずれもぼんやりとしか残っていないが、その他にも、病院で一緒だったことのある「永遠の青年だ」と言っていた男や、痩せた小柄な人で戦前北京に住んでいたゴルフ好きの女医さんも最近夢に出てきた。夢に出てくるのは必ずしも特別に親しかったという関係とはまた別なようで、もっと親しかった死んだ友人がそれだけよく現れるものでもないようである。

 多くの夢は、その時ははっきりしていても、目が覚めた時にはもうぼんやりとした印象だけで、委細は思い出そうとしても思い出せない。ただ皆死んでしまっている人ばかりだということを認識するだけである。夢で会うといういうのはこういうことであろうか。

 

 

ALS患者嘱託殺人事件が問うもの

 ALSの患者の依頼による二人の医師による嘱託殺人の事件については、このブログでも、既に7月27日に書いているが、その後の新聞でも、いくつか関連した記事や論説が記載され、近くの老人の間でも話題になっているようなので、もう一度取り上げたい。

 始まりとなった嘱託殺人については、誰しも肯定しないようだが、それではALSに罹患して絶望した本人が死を選ぼうとした時、周囲の人がいつもそれを否定し、死を思い留まらせることが出来るであろうか。

 もちろん死が本人の価値観による選択でも、誰しも一度は思いとどまるよう働きかけるであろう。しかし、本人の意思が固い場合果たしてどこまで説得出来るであろうか。

 いつかの夕刊に載っていた、サッカーJ3/Fc岐阜の前社長のように、指一本動かせなくても、i Padと口文字で自分の意思を最大限尊重すべく動いてくれるスタッフがいてくれれば、不便であっても、社会生活を維持出来れば、死ぬことなど考えなくても済むであろう。

 しかし、孤立無援な独身女性などでは、ALSのような不治の病に冒され、日常動作も出来なくなった自分が、今後も社会の一員として生きていける希望が持てるであろうか。殊にある程度歳を取ってでもいれば、社会的な援助も期待出来ない状態で、今後の生きる希望が見出されないと言われても、現状ではそれを打ち消すことは誰にも 困難ではなかろうか。「もう少し私たちと話し合ってくれませんか」と話しかけて引き延ばすのが精一杯ではなかろうか。

 人生の最終段階で、無理に生命維持をしない方が本人の心身の負担を和らげ、本人らしい最期を迎えられるという考えは、次第に多くの賛同を得つつあるようで、安楽死が公認されている国も増える傾向にあるようである。

 自分の命をどう決めるかは最終的には本人が決めることであろう。同じ仲間が自然の死がやって来る前に死なれたくない社会は、死なないで共に生きて行けるような支援を提供すべきであろう。社会の支えがあってこそ、初めて本人に生きる希望を与えることが出来るのではなかろうか。

 生産力がなく、移動生活に耐えなければならなかった時代のゆとりのない人間社会では、老人や弱者の切り捨てをしないと集団の生存がおぼつかなかったであろうから、姥捨山の伝説も作り話だけではなかったことだと思われる。

 逆にゆとりのある社会の助けがあれば、社会に役立たなければという意識から解き放たれて、何も出来なくとも、「鳥を数えた一日や、星が見えたことが最高だね」と思えることに価値を置く社会の可能性も生まれ、生きる意味が変われば、生きている限り自ら死を選ぶ選択肢も無くなるのではなかろうか。

 ALS患者に対しても、死の選択を拒否するのではなく、死の選択をしなくても済む社会を作ることがこの問題の回答ではなかろうか。

自助、共助、公助

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『9月16日に書いた文章が操作ミスで復活できなくなり内容もわからなくなったので、記憶を頼りに大意をここに記しておく。』

 

 安倍首相が辞めて、やれやれあの顔を見なくて済むかと思っていたら、今度は安倍と一緒に長年ずっと官房長官を努めてきた菅氏が跡を継ぐこととなり、菅氏自身が安部政治を継承すると言っているから、あまり変わる気配もない。

 それにしても、菅氏はどう見ても、番頭であって主人の器ではない。党三役の経験もないし、皆に担ぎ上げられただけで、外交などの経験もない。これまでの官房長官としての実績を見ても、裏の駆け引きや調整は出来ても、自らの広い展望や方針は分からない。記者会見を見ても、むっつりした顔で「それには当たらない」「既に述べたとおり」などと紋切り型の答弁をするばかりで、嫌いな記者の質問に対しては「それには答える必要がない」とまで言ってきた。

 その菅氏がまず掲げたのが、上の写真のように表題の「自助、共助、公助」なのである。これが次期首相が真っ先に言うべきことであろうか。直接聞いていないので詳しいことはわからないが、およそ政府が掲げるスローガンではないであろう。

 政府は知らんから先ずは各自が自分でしっかりやれ。次いでは、共助で政府に頼らず、家族や周辺で助け合ってやれ、公助はそれから先のこと、政府は最低限のことしか出来ないから当てにするなと言っているようなものである。

 安倍首相は坊ちゃんなので、怖いもの知らずで、随分勝手なことをして、強気で乗り切ろうとしてきたが、菅氏は自分でも強調するように、貧しい田舎から苦労して叩き上げて来たからと言っているように、安倍首相と違って、陰険で恐ろしい感じである。顔からして陰気な感じである。

 長年一緒にやってきた同じ穴の狢が継承すると言っているのだから、何も新たな展望を期待することは出来ないであろう。そんなことから既にTwitterには「#スガやめろ」のハッシュタグまで現れ、一万五千以上もの同調者があらわれている。

 就任する前から「やめろ」

と言われる総理大臣は初めてなのではないだろうか。希望は持たないが、先行きが心配である。

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