体力の衰え

 いつの間にか満年齢でも、九十二歳を超えてしまった。こんなに長く生きるとは思っていなかったが、これも自然の成り行きだから仕方がない。最近は長く生きる人が増えて、人生百年時代とも言われ、百歳以上の人が8万人以上もいるそうだから、九十を少し超えたぐらいではまだまだ偉そうなことは言えない。

 幸か不幸か、私も長寿を自慢しようとは思わないし、百歳まで生きてやろうという野心もない。ここまでくれば、もう自然に任せるのが一番ではないかと思っている。 幸い、まだ自分では元気だし、心筋梗塞でステントが一本入っているが、食欲はあるし、夜はよく眠れるし、若い時のような元気はないが、どこかが具合が悪くて特段困るようなこともない。血圧も普通だし、太ってもいないし、高脂血症や糖尿もない。薬もビオフェルミン以外は何も飲んでいない。自分で苦痛がないから医者にもかかっていない。

 それでも歳並みに、体は弱って行くようで、八十七歳で心筋梗塞でステントを入れられ、九十歳で酔って階段を踏み外し、側壁で前頭部打って怪我をし、縫合して貰う事故に会い、九十一歳で脊椎管狭窄症になり、シルバーカーを押してでないと歩けなくなったりなど、次々に災いが起こって来るようになった。

 とは言っても、心筋梗塞の時も、自覚症状も殆どなく、当日に地下鉄の長い階段を上がって仕事に行っていたし、梗塞部位も急所を外れて軽く済み、半年で薬も全て止めた。頭部外傷の時も、歳の割に治癒が早いと褒められた。脊椎管狭窄症の時は、流石に九ヶ月ぐらいかかったが、思いもかけず、またすっかり普通に歩けるようになった。幸いだったというべきであろう。

 しかし、やはり歳は争えないのか、良いことばかりではない。その間にも、老いは静かに確実に進んできているようである。先ずは歩くスピードが遅くなった。以前はいつも人を追い抜いて歩いていたのに、今では街中の人の流れにさえ遅れがちになり、次々に他人に追い抜かれるのが普通になってしまった。昔は気にもしなかった距離がいつの間にか遠くなってしまった感じである。

 また疲れ易いというのか、何かで体を使ったりすると、作業は普通に出来ても、終わると横になりたくなる。仕事に行かなくなったせいもあるのか、朝は次第に早起きになり、4時ごろ起きるが、9時頃には一眠りしないではおれなくなる。夜は7時のニュースが済めばもう寝てしまい、睡眠時間は8時間は充分取れているのに、それでもまた眠くなる。寂聴さんが寝てばかりと書いていたが、次第にいくらでも寝てられる感じがして、やはりそうなって行くのかという気がしたりする。

 八十歳から続けているラジオ体操や、自分で決めた腕立て伏せから始まる約30分程度のストレッチ体操などは毎朝続けているし、毎日の30分から1時間程度の散歩と、月一回の箕面の滝参りも殆ど欠かしたことがないが、何となく疲れやすくなったのは仕方ないのであろうか。

 八十代の頃は朝の一番電車で出掛け、5.6キロの滝道を1時間あまりで往復して、電車に乗って帰って、急いで帰宅すれば、まだラジオ体操の時間に半分は間に合ったものだが、今では滝道の途中で1回か2回は休憩しなければならないので、そのようなことは最早、曲芸にしか思えない。ただ、幸い息切れなどを感じて休まなければならなくなったようなこともなく、毎月続けられるのが有り難い。

  九十一歳の今年の正月過ぎには下腿の浮腫が生じ、これはいよいよ心不全の始まりかとも心配したが、1月ぐらいで消失し、、心不全の検査のBNPなども正常であったし、その後は浮腫も起こらない。まあ細かいことを言えば、色々あろうが、こんな調子で行けてれば、歳から言えば良いとしなければならないのではなかろうか。

 最早、いつ何が起こってもおかしくない年齢である。自然の成り行きに任せて様子を見るのが一番懸命なのではないかと思っている。(2020.10.16に発表)

 

 

 

 

今の日本があるのは韓国のお蔭

 戦後占領軍は日本を二度と戦争の出来ない国にしようとして、日本に残った工場の設備などを、当時同盟国であった蒋介石の中国へ移転しようというしていたことがあった。軍備を持たないという平和憲法を推し進めたのも同じ路線であり、日本はまだ、荒廃して貧しいままで、日本は三等国だということがよく言われていた。

 それが変わったのは、朝鮮戦争が始まったからである。韓国が殆ど全て占領されかかり、アメリカが、国連軍を作って大義名分として、仁川への上陸作戦を行い、戦争が長期化し、全半島が荒廃させられたが、日本はこの間、朝鮮戦争の米軍の兵站基地として、嫌でも戦争に協力させられることになった。

 ところが、幸か不幸か、日本は戦後アメリカ主導で、永世中立の平和国家で、軍隊を持たないという新憲法を作ったばかりであった。そのため、日本にとっては幸運だったが、日本人を戦闘に使うことが出来ず、警察予備軍という自衛隊の前身を作るだけで我慢しなければならなかった。

 しかし、米軍は地の利のある日本を絶好なの後方基地として、フルに利用し、兵員も武器も殆どすべてが、日本経由で朝鮮戦線へ送られた。伊丹空港には、アメリカ兵の袋詰めの遺体が次々に運ばれて来ていたし、戦に巻き込まれて戦死した日本人がいたこともわかっている。

 それよりも日本にとって貴重だったのは、補給基地としての役割であった。大きな武器類はアメリカ本土から運ばれて来たが、銃弾や食料品をはじめとする消耗品などは日本を利用した方が遥かに便利である。日本の生き残っていた大企業は、もっぱらその需要に飛びつき、特需景気という言葉さえ流行った。ダイキンなどもアメリカ軍用の銃弾などを造っていた。

 武器ほど儲かる商売はないのである。武器には公定価格のようなものはないし、戦争でどんどん消費してくれるしので、生産から消費の輪はでいくらも回るので、笑いが止まらない。実戦に関与しない戦争ほど儲かるものはない。第一次世界大戦がそうであった、日本が闘ったのは青島と南洋のドイツ軍とだけで、殆どの戦わずして、連合軍の後方支援で大儲けした。その幸運が戦後のどん底の日本経済を復活させてくれたと言っても決して過言ではない。

  しかし、その陰で、戦場となった韓国や朝鮮の人々がどれだけ悲惨な酷い目にあったことか。そこに想いを馳せる日本人は少ないかも知れないが、その犠牲の上に、日本が戦後の復興を遂げたことを忘れてはならない。戦前に日本が韓国を植民地にして、韓国の人たちに大きな災難を齎しただけでなく、戦後においても、韓国の犠牲の上にで我が国が復興出来たことを忘れてはならない。

 こういう歴史を振り返れば、とかく韓国を下に見て、過去の歴史を否定し、何かにつけて問題を起こしがちな両国関係であるが、日本はもっと韓国に対して謙虚に振舞うべきだと思うがどうであろうか。

映画「判決、二つの希望」

 表題の映画を見た。コロナの流行で途切れていた国立民族学博物館の「みんぱくワールドシネマ」の久しぶりの復活であった。

 1990年の内戦終結後も、根深い遺恨がくすぶり続けるレバノンの首都ベイルートを舞台に、キリスト教徒のレバノン人とイスラーム教徒のパレスチナ人との個人的な諍いが、やがて国家全土も巻込む大論争へと膨らむ顛末を描いた人間ドラマである。

 難民キャンプに住み、不法労働ながら建設業の現場監督をしているパレスチナ人が、現場でトラブルになったレバノン人の自動車修理工場に謝罪に赴くが、パレスチナ人への憎悪むき出しの侮蔑の言葉に耐えかね、殴り倒して重傷を負わせてしまう。

 その結果裁判になるのだが、原告、被告双方の思惑や複雑な要素が入り混じる厄介な裁判となり、それに伴って、当事者二人の悲痛な記憶までが次第にあぶり出されていくこととなる。

 レバノンは宗教的にもマロン派カトリックフェニキア人の子孫としての誇りを持った人たちや、パレスチナから逃れて流民として暮らす人の他にも、シーア派スンニ派イスラムの人たちが混在し、そこにフランスによるシリアとレバノンの分離の歴史も絡み、日本では考えられないような複雑な世界である。

 政治体制でも、大統領はマロン派、国防相はドルーズ、国会議長はシーア派などから選ぶことになっていると言う宗派主義が採られている。社会的にも、歴史的に父権が尊重され、一族の有力者が全てを取り仕切ってきたという社会で、そこにPLOによる虐殺なども絡む複雑な歴史的背景も存在しているのである。

 裁判でも、両者の弁護士が親と娘で、父親の方は昔の歴史までほじくり出して何としてでも勝とうとするのに対し、娘の方はパレスチナ難民の窮状を救おうという立場で、傍聴席も色々な立場の人がおり騒ぎが続く。

 しかし、裁判が進むうちに、当事者同士は色々なことがわかり、個人的には次第に相手を理解するようになる。裁判の方も紆余曲折の末、結論として傷を負わせたことは許せないが、その原因となった侮蔑の言葉も絶対に言ってはならない暴力の値する言葉であり、両者を考えて無罪となったというストーリーになっている。

 日本では考えられないような複雑な社会であるが、それでも人々は本質的には理解し合うことが可能であり、ともに一緒にやっていけることを示しており、非常に印象深い秀作であった。 (2020年9月18日)

18歳と81歳

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 以前にもどこかで見た18歳と81歳の違いである。面白かったので引用させてもらっておく。

 この他にも、いくらでも作れる。

道で人を追い抜く18才、追い抜かれる81才

前髪が目に入って困る18才、どこまでも禿げてしまった81才

虫歯で困る18才、入れ歯のがたつく81才

タバコを吸いたい18才、今更止められない81才

夜になれば目がぱっちり開く18才、夜中を過ぎればもうぱっちり目覚める81才

朝はいつまでも起きられない18才、早朝3時に目覚める81才

3杯おかわり18才、半膳だけの81才

早飯早糞18歳、時間のかかる81歳

公衆トイレ、さっさと済ます18歳、いつまでも時間のかかる81歳

飛び過ぎて便器を汚す18才、ぽとぽと床を汚す81才

滝の勢いの18才、ちょろちょろ小川の81才

興奮で震える18才、中風で震える81才

気が向けばさっと飛び出す18才、鍵がないメガネがない、なかなか出れない81才

メモしなくても覚えてる18才、メモしても見るのを忘れる81才

講演会、一番後ろの18才、一番前の81才、見えない、聞こえない

階段を駆け下りる18才、手摺につかまりよちよち降りる81才、等々

 時間は冷酷に不可逆的にしか進まないので仕方がない。81歳でもこれなのだから92歳ともなれば、おして知るべしである。

羽化し損なった蝉

 庭木の幹の下の方で、脱皮して羽化しそこなった蝉が、半分殻から身を乗り出して、反り返ったまま死んでいるのが見つかった。

 蝉は通常、十何年も地中で暮らした後にやっと地上へ出て、羽化し、蝉となって鳴きながら、僅か十日余りで命を終えると言われている。折角の長い間の地中生活に耐えてきて、やっと地上へ出、羽化して蝉になるところで、無念の最期を遂げてしまったことになる。

 人から見れば、全く残念至極で、その悲運を哀れまなくてはおれないところである。蝉の抜け殻は空蝉(うつせみ)と言われるが、空蝉を残して蝉となることも叶わず、命を落とした蝉には一層哀れを感じざるを得ない。

 私には、つい戦争中の特攻兵士の運命が重なって思い出させる。純情な他の世界を知らない青年たちは、真剣に天皇陛下のため、国のために自ら選んで死んでいったのである。そして大日本帝国は戦に負けて滅んでしまった。もう戦争が半年も続いていたら、私もほぼ確実に死んでいたところである。

 「うつせみ」とは元々は現(うつ)し人(おみ)」で、「現実の人間」のことを指すものであり、仏教思想により、生きている現実の人間ははかなく空しいものだという考えから、「うつしおみ」→「うつせみ」という言葉に「空蝉」という漢字が当てられ、この言葉が「セミの抜け殻」「空しい世の中」「はかない人間」といった意味で用いられるようになったものだと言われている。

 それを知れば、空蝉さえ残せなかった蝉の無念さがわかるような気さえする。目的を果たせず死んでいった無念の特攻兵士のようである。空蝉はいわば墓標で、はかない人生と重ね合わせる時、空蝉にさえ残し得なかった蝉の命は、自然の流れを中断された事故であり、人生に当てはめてみれば、言わば、無念の事故であり、自殺である。一層哀れを催さずにはおれない。

 但し、これは人間からの見方に過ぎない。蝉には蝉の仲間の世界があり、その中での蝉の一生がある。当然、同じ蝉にも色々個体差があり、長い地下生活の間に地下で死ぬものも多いだろうし、地上へ出てすぐ死ぬもの、天寿を全うするものなど色々であろう。人の知る蝉の姿はそのほんの一部分でしかない。

 蝉にとっては、長い間の地下生活こそが命をを楽しむ成長の期間であり、最後に地上に出て、羽化し、蝉となって鳴き声を響かせるのは、命の終わりに卵を産んで子孫につなぐための、ごく短期間の生活に過ぎないのかも知れない。羽化に失敗して死ぬ蝉も、すでに大半の生命を生き抜いて、残りの僅かな時間を失っただけに過ぎなかったのかも知れない。

 人の思いと蝉の思いは違うであろう。しかし、空蝉が人の世の儚さ、虚しさを象徴しているので、羽化の途中で命をなくした蝉を見ていると、地中からやっとの思いで地上に出て、脱皮して蝉となり、急き立てられるような蝉時雨に続き、忽ちに終える命の短さに、人の命を重ね合わせて、つい色々なことを考えさせられるものである。

 

 

 

 

老いのアヴェック

 「アベック」という言葉をご存知でしょうか?と聞かねば通じないような時代になってしまっているようである。私の若かった戦後の時代には、「アベック」とはもっぱら「恋人同士の二人」という意味で使われていた、一種憧れの言葉でもあったのに、1980年代に入ると殆ど使われなくなり、最早「死語」などと言われてしまっているとか聞く。

 今では、夫婦や恋人などのひと組は「カップル」とか「ペア」と呼ばれるのが普通で、若い人たちは「カレカノ」とか「ツーショット」などと言うらしい。しかし、私にとっては、夫婦などが一緒にいるのはやはり「アヴェック」もしくは「アベック」と言わないとピンとこない。

  ただ昔は、こちらも若かったためもあろうが、アベックといえば若いカップルをさすのが普通で、その頃は年をとった夫婦で、若い人のように一緒に手を繋いだり、体を密着させたりしている姿は殆ど見られなかった。夫婦が一緒に何処かへ行く時でさえ、旦那が先を歩き、嫁さんが二、三歩後からついていくのが普通であった。

 ところがそれから四分の三世紀も経つと、世の中はすっかり変わってしまった。高齢化社会と言われるようのなってから既に久しいが、最近では若いアヴェックが少なくなった代わりに、老いた夫婦のアヴェックがやたらと目につくようになった。

 毎朝、涼しいうちにと思って、近くの河原や公園などを散歩しているが、出喰わすのは犬の散歩か、ジョガーか、老夫婦の散歩である。たまに、サイクリストが風を切ってサーっという間に走り抜けていく。犬の散歩は途中で出会った犬友達と犬を介して話し込んだりしているのが多いが、ジョガーの方は孤独で、黙って通り抜けていく。

 こちらも老夫婦なので、結局、出会って挨拶を交わしたりするのは、一緒に散歩している老夫婦ということになる。もう退職して家にいるので、朝早く目がさめるし、少しは体を動かさねばと思って、涼しいうちにと散歩に出て来たような人たちである。

 色々な組み合わせの夫婦がいて、見ていると面白い。最近気が付いたのは、同じ年寄りのアベックでも歩き方が色々なのである。男が先に歩いて後から女がついてくるアベックから、殆ど一種に並んで歩いているアベック、女が先で男が後のアベックに分けられる。

 初めはそれぞれに性格や、色々と事情が違うからだろうと思っていたが、そっと見ていると、同じような老夫婦でも、年齢によって違うようである。歳を取っていても、まだ比較的若い世代のアベックでは、大抵、男の方が元気なので、男が先を歩いて女を引っ張っている感じのアベックが多いが、80歳を超えたような超高齢の夫婦になると、今度は、大抵は女性の方が年齢も若くて元気なので、嫁さんの方が亭主を引っ張って、歩かせている感じのアベックが多くなり、女が前を歩き、男がそれを追うという格好になってしまうようである。

 私の場合を振り返っても、以前は私の方が足が速く、丈夫だったので、いつも私が先を歩いて、女房が後からついて来るのが普通であったが、ここ一、二年、脊椎管狭窄症に苦しめられて以来、てきめんに歩くのが遅くなり、女房が先を歩き、それに私が何とか着いて行くという格好が普通になってしまった。

 そんなこともあって、余計に他人のことが気になるのであろうが、大きな傾向として、七十代ぐらいの間は男がリーダーシップをとっているが、八十も過ぎると、女の方が元気で、男がそれに頼って歩いているといった姿が多くなるようである。

 年老いてきた男どもは、やがてくる自分の体の衰え、女性の方が歳を取っても元気で長生きすることを考えて、手遅れにならないうちから、せいぜい嫁さんを大事にするよう心掛けておいた方が良いことを知っておくべきであろう。

 

Black Lives Matter (B.L.M.)

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 先にこのblogでも取り上げたが、アメリカのミネソタ州ミネアポリスで、黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警察官に約8分間にわたって、膝で首を押さえつけられて殺された事件以来、警察官による黒人差別に抗議する運動が、全米のみならず、世界中の各地に広がり、「Black Lives Matter」のスローガンを掲げた運動は今なお続いている。

 この「Black Lives Matter」とは、日本語で言えばどういうことになるのか。この翻訳は助詞一つで微妙なニュアンスの違いが生まれ、いろいろ議論もされているようである。

「黒人の命は大切」「黒人の命も重要」「黒人の命こそ大事」どれが良いか、日本語では「は」「も」「が」どれも間違いとは言えないが、どれも正しく、どれも物足りないということになりそうである。

  SNS上でも、翻訳が問題になっていたが、英ロンドン大、日本語学科卒のブロードキャスターピーター・バラカンさん(68)はラジオ番組のリスナーに訳を問われて、「黒人の命を軽くみるな」と訳したが、「直訳は難しく、悩む人も多いと考えて番組で取り上げた。英語ではIt doesn't matter(気にしないで、大したことない)の表現をよく使うので、その反対と考えた」と言ったそうである。

 村上春樹は「いろんな人が翻訳しているんだけど、どれもピンとこない。もし僕が訳すとしたら『黒人だって生きている!』というのが近いように思うんだけど、いかがでしょう」と言っている。また、坂下史子・立命館大教授は、あえて訳さずにカタカナのままの方が良いとの立場で、言葉の先にある複雑な意味を考えるため、簡単に答えを出せない方がいいのではないか、という見方のようである。

 「 All Lives Matter」という言い方もあるが、黒人たちの願いはもっと強いものであり、アリシア・ガーザさんは「私たちはすべての命が大切だと当然認識しています。しかし、私たちはすべての命が大切だとされている世界には住んでいないのです」と語ったそうである。「 All Lives Don’t Matter Until Black Lives Matter」という書き込みも見られた。

 Gorge Floyd氏殺害後も、警察官による人権無視の黒人差別は続き、最近はWisconsin州で、Jacob Blakeさんが、自宅の前で子供のいる前で、後ろから7発も撃たれて、命は助かったが、両側下肢麻痺の重傷に陥った事件などもあり、Black Lives Matter運動による警察組織の体制の改善が叫ばれているが、抗議集会の一部が荒れたのにつけ込んで、トランプ大統領が州兵を動員して、治安を守れと号令するなどのことも起こり、解決にはなお時間がかかりそうである。

 日本語訳を巡る議論についての意見でも、セクストンさんは「どんな言葉を使うかということよりも、この問題に関心を持つことが大切だ。難しく考えずに、私たち黒人のことを知り、黒人差別が存在する現実を認めてほしい」と訴えている。

 アメリカのこの人種差別の問題は、かっての奴隷制度から、奴隷解放後の犯罪者除外規定によって続いて来た人種差別政策で、その後、公民権運動などを経て、次第に改善しては来ているものの、未だにこの古くからの人種差別はなくならず、しばしば、警察による、いわれのない人権侵害、ひどい時には投獄や殺傷、殺人にまで及ぶ黒人や、非白人に対する事件が後を絶たないようである。

 これは決して遠いアメリカでの黒人の話であって、自分には関係のないことではないことにも気付いて欲しい。何故ならこれは誰に取っても基本的な、人権の問題だからである。誰しも、無関心の善人であってはならない。現に不当な人種差別で人権を侵されている人たちがいるのである。世界中の民主的な人々と連帯して、あらゆる所で、あらゆる人々の人権が守られるように、アメリカの遅れた警察組織の改善を要求する義務があるのではないであろうか。

 基本的人権の尊重を求める声は決して「内政干渉」ではない。アメリカ政府がずっと世界に向けて主張していることである。日本人も、かっての黄禍論やJapなどと言われて差別される方であったし、今も同等に扱われないことも多い。1960年代には真の南部まで行かなくても、Virginiaでも、「White Only」と書かれたレストランなどが見られたものであった。

 世界の人々が無関心を装わずに、人々の基本的な人権を尊重するために、連帯して声を上げることを願ってやまない。