ALS患者嘱託殺人事件が問うもの

 ALSの患者の依頼による二人の医師による嘱託殺人の事件については、このブログでも、既に7月27日に書いているが、その後の新聞でも、いくつか関連した記事や論説が記載され、近くの老人の間でも話題になっているようなので、もう一度取り上げたい。

 始まりとなった嘱託殺人については、誰しも肯定しないようだが、それではALSに罹患して絶望した本人が死を選ぼうとした時、周囲の人がいつもそれを否定し、死を思い留まらせることが出来るであろうか。

 もちろん死が本人の価値観による選択でも、誰しも一度は思いとどまるよう働きかけるであろう。しかし、本人の意思が固い場合果たしてどこまで説得出来るであろうか。

 いつかの夕刊に載っていた、サッカーJ3/Fc岐阜の前社長のように、指一本動かせなくても、i Padと口文字で自分の意思を最大限尊重すべく動いてくれるスタッフがいてくれれば、不便であっても、社会生活を維持出来れば、死ぬことなど考えなくても済むであろう。

 しかし、孤立無援な独身女性などでは、ALSのような不治の病に冒され、日常動作も出来なくなった自分が、今後も社会の一員として生きていける希望が持てるであろうか。殊にある程度歳を取ってでもいれば、社会的な援助も期待出来ない状態で、今後の生きる希望が見出されないと言われても、現状ではそれを打ち消すことは誰にも 困難ではなかろうか。「もう少し私たちと話し合ってくれませんか」と話しかけて引き延ばすのが精一杯ではなかろうか。

 人生の最終段階で、無理に生命維持をしない方が本人の心身の負担を和らげ、本人らしい最期を迎えられるという考えは、次第に多くの賛同を得つつあるようで、安楽死が公認されている国も増える傾向にあるようである。

 自分の命をどう決めるかは最終的には本人が決めることであろう。同じ仲間が自然の死がやって来る前に死なれたくない社会は、死なないで共に生きて行けるような支援を提供すべきであろう。社会の支えがあってこそ、初めて本人に生きる希望を与えることが出来るのではなかろうか。

 生産力がなく、移動生活に耐えなければならなかった時代のゆとりのない人間社会では、老人や弱者の切り捨てをしないと集団の生存がおぼつかなかったであろうから、姥捨山の伝説も作り話だけではなかったことだと思われる。

 逆にゆとりのある社会の助けがあれば、社会に役立たなければという意識から解き放たれて、何も出来なくとも、「鳥を数えた一日や、星が見えたことが最高だね」と思えることに価値を置く社会の可能性も生まれ、生きる意味が変われば、生きている限り自ら死を選ぶ選択肢も無くなるのではなかろうか。

 ALS患者に対しても、死の選択を拒否するのではなく、死の選択をしなくても済む社会を作ることがこの問題の回答ではなかろうか。