歳による老いの感じ方

 成長は必然的に老いを孕むものだから、人は成長するにつれて、必然的に老いの兆候がやって来て、それを感じさせられることになるのは止むをえないことであろう。 35〜40歳ぐらいにでもなると、自分ではまだ若いと思っていても、遅かれ早かれ、老いの兆しが出てくるのが普通である。

 私が初めてそれを感じて驚課されたのも40歳の少し前頃だったような気がする。私は子供の頃から、視力検査で、視力表の一番下の2.0まではっきり見えていたので、視力に関しては、人に負けない自信のようなものを持っていた。ところが、何かの機会にたまたま、少し年下の友人と遠くの物を識別する機会があり、友人がそれを確かめたのに、私にはどう見てもぼんやりしてはっきり見えないことに気付かされたことがあった。

 まだ老化のことなど考えてもいなかった時期だったので、ショックでったが、事実は受け入れざるを得なかった。これが私が老化の兆候を感じた初めの出来事であった。遠視の人は老眼が来るのが早いそうである。

 やがて40歳を過ぎたが、まだまだ元気で30歳代と同じ気分でいたが、仕事などで夜眠れない日が続くと、昼間が辛くなる感じがするようになってきた。その頃のNHKに興味深い番組があったのを覚えている。40歳代の男2人と、30代の男2人の4人で徹夜マージャンをさせ、時々、間で疲労度の検査をする実験のテレビであった。それによると、12時頃までは、40代の方が勝っていたが、12時を過ぎた頃からは、てきめんに40代の二人の疲労度が増していき、勝負も次第に30代の方が勝っていったという結果であった。

 昔から42歳は男の厄年と言われてるが、この年代頃の人は自分ではまだ青年のままで元気だと思っている日tが多いが、気分は若くとも、多くは二十歳代ごろからの無理がたたって、その積み重ねの結果がそろそろ出始める頃とな利用である。見かけは元気でも負担をかけてみると、もはや老兆が隠し難くなるようである。成人病検診などで血圧や血液脂質、糖尿病などを指摘されることが多くなるのもこの頃からである。

 50歳代になると、それまで自分は永遠の青年だと思って来た人たちも、もう殆どの人が「歳を感じる」ようになる。30代では健康診断で異常を発見されるのはまだ少数派であるが、40代になると何かに異常が出る人が増え始め、50代ではもう何処にも異常を指摘されない人の方が少なくなるものである。

 私は57〜58歳頃、四国へ赴任しており、久し振りで大阪へ帰って、心斎橋を歩いた時に感じさせられたことを覚えている。心斎橋は若い時から始終通っていた馴染みの通りである。それまでは一緒に歩いている周りの群衆が、殆ど皆自分と同じぐらいか、それより年上の人ばかりという感じだったのに、ふと気付いて周りを見ると、皆自分より若い人ばかりではないか。知らない間に、いつしか歳をとってしまったのだなとつくづく感じたものだった。

 60過ぎて、病院を辞めて、第一線を退き、企業の産業医の仕事をするようになった。こうなると、嫌でも老人の仲間入りを自覚させられ、仕事も老後の仕事として割り切ることとなる。地域の医師会に入れて貰うと、大学の同級生もおり、さらに先輩格の人もいて、老人の中では若い方で、少し若返ったような感じもしたが、もはや周囲の老人に囲まれて、自らも自然と老人の仲間入りということになってしまった。

 それでも、健康状態には変わりなく元気に動き回れたので、80歳を過ぎてもなお仕事を続けていた。幸い70歳代には病気をすることもなく、時間的なゆとりも出来たので、趣味の絵や写真、それに美術館や画廊巡り、芝居や音楽会などに時間を費やしたり、国内ばかりか世界をあちこちを女房と一緒に歩いて楽しむことが出来た。老年の比較的安定期であったとでも言えようか。

 ただ、80歳を過ぎてからは、もはや平均年齢を生きたし、後はいつ死んでも良い、成り行きに任せようと思うようになり、自然体の生活を心がけ、それまで毎年チェックしていた健康診断は受けないことにした。自覚症状もないのにわざわざ検診でガンが見つけて悩むことはない。誰しもいつかは死ぬものであり、最早いつ死んでも良いと思うようになった。

 ただ生きている間は健康でいたいので、80歳からテレビ体操や自分なりのストレッチ体操を始め、毎月箕面の滝まで行くなど、出来るだけ歩くようにした。そのお蔭もあってか、その後も元気な生活を続けることが出来たが、85歳を過ぎる頃からは友人が次々と死んでいき、次第に周りが寂しくなり、残っている者も会合が終わって別れる時には「生きていたらまたね」というのが挨拶になった。

 87歳で心筋梗塞になった。漠然とした強い倦怠感で自分でも高速を疑ったが、確かめようとして受診したのが運の尽き。救急車で運ばれて循環器センターに入れられ、有無を言わせず、ステント入れられ軽くて助かった。いっそ、太い血管の閉塞で頓死していたら良かったかもと思ったりした。Do not CPRというプラカードまで作っていたのに役に立たなかった。これを機会に仕事も基本的に辞めた。

 90歳を超えると、もう老年的超越か、死が近くなり、益々いつ死んでも良い、自然の成り行きに任せようという思いが強くなった。次第に朝起きるのが早くなり、寝る時間が長くなってきた。速歩が自慢であったのが、流石に歩くのが遅くなり、皆に追い抜かれて行くようになった。 周りの友人が皆死んでしまって、友人がいなくなるし、何処へ行っても長老扱いされることになる。

 それでも最近はまだ年齢の上の人もいる。百何歳だという人にも出喰わすが、強いてそこまで生きたいとは思わない。政治や社会に腹の立つことも多いが、もはや自分がどのように出来るものでもない。それより今の生活を続けて、成り行きに任せ、来年にでもまた娘や孫たちに会えればと思っている。

中学から高校を飛ばして大学へ行った世代

 コロナの流行で学校閉鎖が行われ、子供の学力低下や、仕事を持った母親の負担などが問題になっているが、この国のこれまでの歴史の中で、学校の勉強がもっと長い間止められて出来なかったことがあったことを忘れないで欲しい。

 それは我々の世代の中学校の時に起こったことであった。日中戦争がこじれて、第二次世界大戦となり、大量の兵士が海外に動員され、国内の人手が不足し、それを補うために、朝鮮人や中国人が連れてこられて強制労働などが強いられたが、それでも足らず、国民総動員法が出来て、老いも若きも動員され、1943年頃からは大学生の学徒動員ばかりでなく、中学生までが、勤労動員の名の下に、学業を放棄させられて、色々な作業に駆り出されるようになったのであった。

 我々1941年、日米戦争が始まった年に入学した中学生は、1943年の三年生の時から、この勤労動員につかされ、教師の引率の下、初めは空襲に備えた貯水槽掘りに半日動員され、1944年の4月からはもう学業は全廃で、殆ど毎日、朝から夕方まで一日中、学校ではなく工場に出勤して作業する生活となり、学校での勉強は全くなくなってしまった。

 行った先によって仕事は色々であったが、私の仕事は飛行機の燃料タンクを機械でプレスして成形したものを、そのままでは目的の場所にうまく収まらないので、ハンマーで叩いて隅のカーブを飛行機の収納場所にフィットするように修正するものであった。折角、機械で整形したものなのに、そのままでは利用出來ず、効率の悪い手作業で調整せねばならないようなことで、果たしてアメリカに勝てるのだろうかと、ふと不安がよぎったことを今も覚えている。

 そんな工場での仕事が1年間続き、戦局の悪化とともに1945年の3月には我々の学年だけ、4年で中学校卒業ということになった(当時の中学校は5年制であった)。大阪大空襲の直後ということもあり、卒業式もなく、中学校を追い出され、私は当時、江田島にあった海軍兵学校に行ったが、その年の8月には敗戦ということになったわけである。

 戦争が終わって翌年、旧制度の第八高等學校へ行ったが、戦後の混乱で、あまりまともな勉強る出来る環境ではなかった。それでもその後、何とか大学へ行ったが、現在で言えば、皆が一番しっかり勉強をする高校時代の年代を、すっかり飛ばして、今の中学校から高校を飛ばして、大学へ行ったようなもので、その後の人生でも、長く何処かに基礎的な教養に欠ける所を抱えたままだったような気がする。

 我々の狭い範囲の世代だけのことなので、あまり社会的に目立たなかったのであろうが、この成長期の重要な教育の欠落は、一生かかっても補えないような欠陥を我々に残したような気がする。二度とこのような欠陥世代を生まないためにも、何よりも国が戦争をしないこと、国の目的だけのために、安易に国民から教育の権利を奪わないことを願って止まない。

 

今度はまともな観光日本を育てよう

 コロナの流行する直前まで、日本は観光立国を国策として掲げて、外国からの観光客誘致に力を入れ、その結果、最近は年々観光客が激増し、今年は訪日外国人4千万人を目標にしていたところであった。この目標はコロナの流行のおかげであえなく潰えたが、近年はあまりにも急激な観光客の増加にその対応が追いつかず、オーバーツーリズムというのか、色々なところで問題が生じていた。

 大阪の心斎橋筋など、大きなバッグを引きずった観光客ばかりだし、ドラッグストアの前では開店前から人だかりが出来ている。大丸も各階とも観光客で溢れ、あべのハルカスのエレベータに並んでいるのも外国人ばかりのようであった。京都の市バスは観光客に占領されて、肝心の市民は満員で乗れない。銀閣金閣の門前は観光客に溢れてなかなか中へ入れないどころか、途中の道を横切って進むことすら難しいぐらいである。「今日わ」というより「你好」と言う方が普通のような感じであった。

 観光客の激増で、静かな京都の観光地や交通機関が、ただ観光客の大群に溢れるだけならまだしも、周囲の環境が荒らされ、混雑などで住民の日常生活にも影響がで出てくるなど、マイナスの影響も目に余るようになって来ており、ここらで受け入れ体制を一度根本的に見直すべき時になっていたような気がする。

 観光で経済的発展を試みることは悪くないが、本来の姿を維持しながら観光客を迎え、観光客にも満足して貰いながら、町の伝統も守られ、住民の普段の生活も邪魔をされない、共存出来る観光の姿を作っていくべきであろう。

 京都を拠点に、地域再生などに取り組んでいる、米国生まれのアレックス・カーさんも、最近の新聞紙上で、コロナ禍という災厄を、日本の観光業が抱えている「毒」を解毒する機会と位置付けるべきだと訴えていた。

 神社やお寺の参道を埋め尽くすような人の波、それに対応するために、本来の襖絵を劣化から守るために、キラキラ輝く複製に替えたり、伝統ある錦市場にアイスクリーム屋やドラッグストアが増えたりするなど、文化的にはマイナスになるようなことも進んで来たと言う。

 幸か不幸か、春以来のコロナによる観光客の激減後の観光業の再発展に際しては、ただ観光客の人数を増やし、経済的な利益を追求するだけでなく、時間がかかっても、この際、伝統的な静かな街の価値を維持しながら、その中で市民生活と共存できる観光を確立するように努力すべきだと考える。

 コロナ対策として取り入れられた入場制限などの対策も、場合によっては続けるべきであろうし、環境の保持に出来ることは優先させ、観光客にも伝統的な真の姿を見せられるような工夫を考えるべきであろう。国に任せるのではなく、その地に住む人たちや、観光業者、行政機関が話し合って、どのような道を選ぶのか決めるべきであろう。

 それが長期的に見れば、京都の伝統を守り、市民生活をも維持しつつ、真の姿を診て貰うことで、永続的な観光が成り立ち京都の発展にもなるのではなかろうか。こよなく愛する京都だけに、静かな伝統のある優雅な街の姿をいつまでも続けて欲しいものである。

「むら社会」のコロナ

 

 

 

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 新型コロナウイルスに感染するのは本人が悪い――。この表は最近見た三浦麻子・大阪大教授ら心理学者の研究グループがまとめた調査結果であるが、日本では他国に比べて、コロナ感染は自業自得だと思う人の割合が飛び抜けて多いことがわかる。

 こうした意識がこの国での、感染者がむやみに非難されたり、差別されたりしたことと、関係しているのではなかろうか。何年か前にシリアで拘束されたフリーのカメラマンが自己責任だと非難されたことを思い出す。

 感染者の家族が通う学校に「その教室だけ消毒してほしい」と保護者から電話があったり、医療従事者がタクシーや引越し業者、馴染みの飲食店の利用を拒否されたり、医療従事者の子供が保育園の通院を拒否されたり、中華街の店に「中国人は早く日本から出て行け」と手紙が来たなど、各地で嫌がらせが横行しているようである。

 若い女性が一歳の子供をマスクせずに乳母車に乗せて街へ行ったところ、通りがかりのおばさんからマスクをさせなさいと言われたという極端な例まである。おばさんに悪意があるわけではなく、大勢に従わないことが気になって、つい忠告したくなったものであろう。

 中には相互監視が行き過ぎて「自分は我慢しているのに我慢していないように見える人への嫉妬心から「懲らしめてやろう」という感情を生んで、行動が軽率だの、不注意だのと社会的な制裁を加えたくなることもあるのではなかろうか。自粛警察と呼ばれたりする動きである。

 また、最近の経験でも、特措法が解除されてからも、広々とした人通りも少ない大きな川の堤防を散歩していても、出会う人は殆どの人がしっかりマスクをしている。折角の広々とした空間で、気持ちの良い風も吹いてくるというのに、お上に言われたことは自然に守ることになっている社会は何か異様で、一歩間違えれば、恐ろしい社会に変貌することになりかねない気がする。

 戦争経験者の私には、大日本帝国の時代が思い出されるからであろうか。皆が同じような服装をして、一億一心などと言い、一斉に宮城遥拝をし、祝日にはどの家にも日の丸が掲げられ、日の丸が出ていないだけで、あの家は非国民だと疑われた時代であった。

 ステイホームも三密を避けるのもコロナの予防のためには必要であり、緊急時には当然守るべきであるし、政府のコロナ予防の要請には答えるべきであろう。しかし、あくまで実際の行動は自分の判断で決めるべきもので、ただ盲目的に周囲の人たちに追随するべきではないであろう。

 ましてや、他人の色々な価値観を認めず、自分の狭い了見で、周囲の人たちの流れに追随して、自分と違うからといって非難するべきでないことは当然であろう。人々の多様性を認め、自分の判断ばかりでなく、他人の判断をも尊重するべきであろう。

 未だにに社会の底辺に執拗に生き続けているこの国の「むら社会」では、このコロナのパンデミックにおいても、皆と違った異端者は差別され、排除されることになるようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小学校のコロナ対策授業

 コロナの流行で学校閉鎖が行われ、学業の遅れだけでなく、子供達の精神的な影響などが問題になっている。学校が再開されて、遅れを取り戻すために、夏休みの短縮や、土曜日の授業なども考えられて実行されているようだが、学校ではあくまで感染予防対策をとった上でということは当然であろう。

 しかし、その感染予防対策の子供に対する精神的、肉体的な影響はどのように考えられているのであろうか。感染予防を出来るだけ完璧にするかということにのみ目が向けれていると、学校の急な変化や、その中での対人関係など、子供の成長に対していろいろな悪影響も出てくるのではないかと気になる。

 テレビで見ると、分散教育になっていて、半数づつの子供が登校し、教室では座席の間隔をあけ、先生も子供も皆がフェイスシールドをつけ、教壇の前には透明な膜を張って、先生は膜の向こうから話をするという構図になっているという説明であった。

 感染予防の完璧化を図って考えられてもので、その努力には頭が下がる思いであるが、客観的に見て、これが正しい方策であろうか、少し疑問が湧いた。感染予防が完全に出来たとしても、それによって起こる教育の歪みの影響などは検討されているのであろうか。

 子供にとっては、単に学習内容に沿った話を聞き、それを身につけるだけが学習ではないであろう。先生や友人との一緒になった人間的な接触や交流が、発育盛りの子供にとって、学校教育の重要な内容であろう。感染を恐れるあまりに、そちらがおろそかにならないことも考慮すべきではなかろうか。

 二重教育や感染予防策などによる先生の過労、シールド越しのやりとりや、身体的な接触や会話の減少による子供の精神的発達への影響など、感染防護策が子供の教育や発達に及ぼすマイナスの影響も十分考えられなければならないであろう。

 コロナが感染症であるとはいえ、コロナの感染率は非常に低いものであるし、子供が感染しても重篤になる率は低いと言われている。クラスに感染者が出れば、もちろんそのクラスは一時的に閉鎖すべきであるし、場合によっては学校閉鎖も必要となろう。

 しかし、現在のように社会の感染率も子供の感染率も極めて少なく抑えられている場合に、極端な予防策はそれによるマイナスの面も考慮して、感染の危険と子供の教育や発達とのバランスを慎重に考えるべきではなかろうか。コロナ以外にもインフルエンザや腸内感染症他色々な感染症の危険も従来から存在するのである。

 この初春の学校閉鎖は果たして正しかったかどうか疑問に思ったが、過去のことは兎も角として、今行なわれている学校でのコロナ対策も、もう少し深く考えてみる余地があるのではなかろうか。

アメリカの刑務所産業

  アメリカの人口は世界の5%であるが、アメリカの刑務所に収容されている人の数は世界中の全収監者の25%になるそうである。アメリカの収監者数は1970年ごろから増え、現在は230万人に及び、もちろん世界一である。

 中でもアフリカ系の人口が全人口の6.5%であるにも関わらず、収監者の中でのアフリカ系が40.2%を占めていることは注目すべきことである。白人では17人に一人が一生に一度刑務所に入る割合になるのに対して、アフリカ系では3人に一人という割合になるそうでもある。

 これらは全て昨日見たNetflixからの受け売りであるが、最近問題となっている白人警官によるGeorge Floyd氏の虐殺事件によって引き起こされた、Black Lives Matterの運動を見て、アメリカにおける人種問題についての関心が呼び起こされて見たものである。これは4〜5年前に作られたものらしいが、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人の歴史を知るには必見の映像であろう。アメリカにおける人種差別の問題は歴史的なもので、未だに根が深く、構造的なものになっていることにいささか驚かされる。

 アブラハム・リンカーン奴隷解放の歴史は有名だが、解放された奴隷の労働力を失った南部の農園主たちは、その時に出来た修正憲法13条の例外規定である犯罪を犯したものは例外とされるところに目をつけて、アフリカ系の人たちを犯罪者に仕立てて奴隷労働を続けさせたようである。

 それ以後もずっと人種隔離制度を続け、クークラックス団その他による残虐なリンチなどが繰り返され、アフリカ系の人たちの人権を認めず、黒人は劣等で、恐ろしい人間だという印象を植え付け、経済的にも最下層に追いやってきた歴史が続いて来た。

 1960年代になってキング牧師などを先頭に公民権運動が盛んになり、モンゴメリー・バス・ボイコットやリトルロック高校事件などで幾多の問題を起こしながら、1963年のワシントン大行進を経て、人種隔離政策が破綻するが、それでも、その後も白人優位主義は強く、麻薬の問題などをテコにアフリカ系の人々に対する抑圧は長く続いてきている。

 そして1980年代になると、今度は刑務所の民営化が進み、大量の受刑者を収容し、劣悪な条件の下で労働させ、そのピンハネをする業者の運営によるビジネスが成立するようになり、益々受刑者数を増やすことになっている。貧困な受刑者には裁判も受けさせず、看守による暴行なども多く、あまりにも劣悪な条件に対する受刑者の抗議や暴動、訴訟などもあり、結局、刑務所の経費節約にもならず、再び官営に戻す動きも起こっているようである。

 それにしても最近のSNSに見るアメリカの警察官のアフリカ系市民に対する対応はこれが文明国で行うなわれていることかと驚かされる、およそ日本では考えられない、白昼堂々とした野蛮な行動であることは見るものに戦慄を覚えさせる。我々直接には関係のない第三者から見ても、目を背けたくなるような残虐さである。何とかならないのかと思うのは私だけではあるまい。

忘れ難い光景ーー映像の発展とともに

 私の子供の頃にはまだテレビもなかったので、ニュースはもっぱらラジオで聴くものであり、時に映画館で何かの映画の前座にニュース映画を見るのが普通であった。

 当時は知らない街や地方の景色、珍しい花や鳥などはもっぱら絵葉書や図鑑などで見て、想像をたくましくしたものであった。しかし、その後の映像の発展は素晴らしく、先ずは、次第に写真や映画などで色々な映像を見れるようになり、静止画だけでなく、実際に動く映像も見ることも出来るようになり、より臨場感が強くなった。

 1961年のことであるが、私がアメリカで車で走りながらニューヨークの摩天楼を初めて見た時、まず頭に浮かんだのは「絵葉書と一緒だなあ」という感激であった。子供の頃からマンハッタンの摩天楼の絵葉書は何度も見ており、当時は日本には40米以上の建物はなかったので、世界にはこんな所があるのかと憧れの風景だったので、実際に見て、反射的にすぐそう思ったのであった。

 その後、テレビが普及してきて、誰もが何処ででも、実際の出来事をテレビの動画として観れるようになり、何か事件や災害があっても、単にある視点からの一部の写真でなく、動画として見ることが出来るようになって、出来事がより身近に感じられるようになった。

 当時のことで思い出すのは、ある時、まだ小さかった娘と電車に乗っていて、車窓から田植えをしている風景が見られたことがあった。その時、娘が「あテレビと一緒だ」と叫んだのが忘れられない。もう都市化が進んで田植え風景など滅多に見られなくなっていた頃であった。恐らく、テレビで田植えをしている場面を見て珍しく思っていた娘が、たまたま実際の田植え風景に出くわして、先に見たテレビの架空の世界を現実に見て驚いたのだったのであろう。テレビの映像が先で、実物が後からそれに照合される時代に驚かされたのであった。

 そのうちにテレビがますます普及し、旅行番組も多くなり、あちこちの都市や地方の景色がテレビで紹介され、有名な観光地などは繰り返しあらゆる方向からの映像が流されているので、実際にそこへ旅行しても、ただテレビで見た印象を確かめに行ったに過ぎないようなことにさえなった。例えば、パリのノートルダム大聖堂など、最早あらゆる角度から見た姿を知っているし、現場に行っても見えない、空からの映像さえ知っているのである。

 普通の都会や田舎の風景ばかりでなく、今や世界中のすべての、山であろうと谷であろうと、南極から北極まで、あらゆる所の映像がテレビで流されるので、家に居ながらにして世界中のあらゆる所の映像が観れるといっても過言ではない。こうなるともう絵葉書などは昔の姿を示す単なる骨董品になってしまった。

 映像は大写しだけではない、限られた視点や、変化するある時点、ある瞬間だけの映像も豊富になった。あらゆる物から映像が作られるようになった。平和的な映像ばかりではない。事件や災害などこそ、テレビで臨場感を持って見るに相応しい。インドネシア津波災害があった時に、津波が海岸に押し寄せる姿が、まるで自分がそこにいるかのごとき映像であったことを覚えているし、イラク戦争で、アメリカのヘリコプターからの映像で、地上にいる人間を計画的に殺戮する実像などもあった。

 しかし、何と言っても圧巻であったのは、9.11.の時のことである。飛行機がツインビルに実際に突っ込み、ビルが崩壊する姿を実時間で見たことであった。現実のことがまるで架空の映画のストーリーの上のことのようにしか思えなかった経験であった。こんな歴史的とも言える瞬間を実際に自分の目で見ることなど頭になかっただけに、今なおこの衝撃的な映像を忘れることは出来ない。

 次いで忘れられないのが東日本大震災の時の映像である。原子炉の爆発の映像もその恐ろしさに不安と恐怖に震えながら見たが、最も印象的で今も忘れられない映像は、津波が陸地をどんどん侵食し、もうすぐ集落を襲ってくると見ている間に、津波が集落に達し、それまでじっとしていた家屋が浮かび、上がり流されていく。車が逃げようとして走っているが、渋滞で進まない。そこへ津波の先端が来て忽ち車が押し流され、津波がどんどん陸地を侵食して進んでいく様が連続で流されていた。

 また山へ逃げた人が後から逃げて来る下の方の人に、早く早くとせき立てていた声や姿が今も忘れられない。こちらはテレビで見ているだけでどうすることも出来ない。ただ呆然として惨事を見ているよりなかっただけに、今も嫌な思い出として忘れられない。

 映像がこれだけ発達してくると遠く離れた場所の出来事でも、これだけ身近に感じさされるようになったのだなあと思っていたら、映像の進歩は更に止まるところを知らないようである。

 最近はスマホの発達で、個人的な映像が広く出回るようになり、いろいろな個人の撮った映像で、より身近な生活の中での思わぬ映像に出くわすことも多くなった。いろいろな違った環境での、小さな個人的な日常茶飯事のようなことが多いが、中には社会の中に埋もれがちだが、決して見逃してはいけないような映像もある。

 安倍首相の選挙演説時にヤジを飛ばしたり、プラカードを持っただけの聴衆が警官に取り囲まれて、無言で排除される映像などは、映像がなければ社会的に無視されてしまう出来事だが、このような小さな不法行為が小さなスマホの画像に記録されることは、民主主義を守る上でも大事なことだと思われる。

 最近私も見たが、アメリカで白人警官が黒人を逮捕して、膝で首を押さえつけ、息が出来ないとの訴えをも無視して、8分45秒に亘って抑え続け、ついに殺した映像が、初めから終わりまでスマホで取られ、FBに出回っていた。あまりにも残忍なその映像が元で、全米での連日に渡る大規模なデモが起こり、トランプ大統領が軍隊を動員すると言って、国防省からの反対の声が上がり、問題がさらに大きくなっているようなことが起こっている。

 このように近年の映像の発展は素晴らしく、映像がどこででも誰にでも簡単に扱えるようになるとともに、市井の無数の動画を誰もが共有することが出来るようになると、弊害もあろうが、これまで無視されていた貴重な映像が社会正義や民主主義のために貢献することにもなりうるであろう。出来るだけ多くの人たちが出来るだけ多くの映像を記録することは社会の発展のためにも好ましいことのように思われる。