6月23日は沖縄慰霊の日

 6月23日は沖縄戦で陸軍の現地司令官だった牛島満中将が最後の激戦地であった糸満摩文仁で自決し、日本軍の組織的戦闘が終結した日であり、この日が県民の4人に一人というこの戦いで犠牲になった戦没者の霊を追悼する沖縄慰霊の日と定められている。

 戦争が終わって75年、今や戦争を体験した人たちで生存している人も少なくなり、戦争の実相の継承が困難になりつつあることが問題になっているが、ここで政府や軍が犯した過ちは決して忘れてはならない。同時代を生きたものとして私にとっても忘れられない日である。

 自分の住んでいる故郷での戦争が如何に過酷なものか想像に余るものがある。軍隊は決して一般住民を守ってくれるものではないことがこの沖縄戦でもはっきりしている。当時の住民の話で「アメリカ兵より日本軍の方が怖かった」という話も聞いた。

 軍隊は組織として敵と戦うもので、戦争に勝って初めて住民を守ることも出来るが、戦いの中では、住民はむしろ戦さの邪魔者なのである。沖縄戦の場合にも敵に追い詰められて、住民の食料を奪ったり、避難していた住民を壕から追い出したり、集団自決を強要したり、スパイを疑って殺したり、一般住民に対する悲惨な事件が繰り返されたことを忘れてはならない。

 軍隊が住民を守るものでないことは戦後も変わらない。自衛隊ソ連軍が北海道へ侵入して来たことを想定した机上訓練でも、札幌は人口が多く、住民の避難に手こずるので、一旦札幌は放棄して、周囲の山に立て籠もって、反撃に出るというのが結論であったということもあった。

 なお、沖縄の戦争は6月23日で終わったわけではない。北方へ逃れた敗残兵や中野学校卒業の将校が組織した護郷隊などによるゲリラ戦は8月の敗戦日以後まで続き、無駄とも言える犠牲者も増えたのである。最近出版された「証言・沖縄スパイ戦史」(三上智恵著・集英社新書)を読んだが、護郷隊というのは私と同年輩の、当時まだ15〜16歳の少年を組織したゲリラ部隊で、山の隠れ家に篭り、情勢を見ては撃って出るという戦いを続けていたようである。

 当時、私がまともに天皇陛下の御為には命を投げ出してもと思っていたように、護郷隊の少年たちも絶望的な状況にあっても、戦艦大和が助けに来てくれる、それまで何とか持ちこたえなければなどと真剣に思って戦っていたようで、当時の雰囲気が分かるだけに、我が事のようにこの本も一気に読んでしまった。

 それにしても、牛島中将が大本営宛の最後の通信で、「沖縄県民はよく戦った。将来特別のご配慮を」と言ったそうだが、沖縄のその後の歴史はどうであったのであろうか。日本政府は国民の反対に配慮して、アメリカの基地を沖縄に集中し、沖縄の人たちの犠牲や切実な願いにも関わらず、度重なる選挙によって明らかな民意さえも無視して、戦後一貫して、沖縄の人たちのためではなく、すべてアメリカに奉仕し、今でも辺野古の基地建設を強引に進めようとしている。政府にとっては沖縄は日本でなくて、アメリカに提供した植民地なのであろうか。沖縄戦の犠牲者の慰霊とは全く逆の行為である。

 さらに最近の西南諸島や先島列島への自衛隊の配備は沖縄戦の再現をも起こし兼ねない危険を孕むもので、亡くなられた多くの沖縄の人たちへの冒涜ともなり兼ねない。沖縄の慰霊の日の条例の第一条には「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」と書かれているのである。

 政府は沖縄慰霊の日を殉国の戦士の表彰の日と考えるのではなく、かっての大日本帝国やその軍隊の犯した大きな誤りの犠牲となって無残に亡くなられた多くの沖縄の人たちへの静かな慰霊の日と捉えるとともに、それに答えて、辺野古基地問題をはじめとする、現在の沖縄の人々の切なる願いに応えるべきであろう。

 

 

 

私の脊椎管狭窄症

 昨年の10月半ばから脊椎管狭窄症に罹り、少し歩くと右足が痛くなって立ち止まらなければならず、少し休めばまた歩ける、いわゆる間歇的跛行になり、日常生活にも不自由するようになった。

 この歳で下肢の神経が圧迫されて痛むとなると、坐骨神経痛ではないとすれば、症状からいって脊椎管狭窄症らしい。ひょっとすれば、前立腺癌の骨転移でも出てきたのかも知れない。一応は調べてもらっておいた方が良いだろうと、近くの医師に紹介状を書いてもらい、ステッキをついて、途中で休み休み病院に行き、MRIなども撮ってもらい調べてもらった。幸い、がんの転移の兆候はなく、脊椎周辺の変化は大したことなく、90歳過ぎていてこれぐらいなら様子を見ればはということで帰ってきた。

  しかし症状は悪くなるばかり。初めはそれでも百米か二百米ぐらいは歩けたが、とうとうそれすら出来なくなり、一番具合の悪い時は、約束があったので出かけようとしたが、門を出て歩き出してすぐに足が痛くなって、電信柱毎ぐらいで立ち止まらなければならくなり、とうとう途中で引き返さざるを得ない羽目になってしまった。仕方がないので、約束も断らなければならなくなってしまった。まるで犬が電信柱毎にpissして行くようだなと自嘲せざるを得なかった。

 それでも、家の中で動く分にはさして困ることもなかったので、日常生活は何とか続けられたが、買い物にも行けない。以前から続けていた朝のラジオ体操の時も右脚を伸展したりするのが痛くて出来なくなるし、夜寝る時も、従来右側臥位で寝るのが癖だったが、それも痛くて出来ず、背臥位でも足を伸ばせず、そうっと左側臥位でなければ寝れなくなった。

 仕方がないので、もう一度病院へ行って神経性疼痛の薬ぐらい貰ってきておいた方が良いのではと思い、病院に再診の予約をしようと思って電話をしたが、何度かけても混み合っていてか、繋がらない。仕方がないからまた明日にでもしようと思って延び延びになっていた。

 ところがそのうちに急にコロナ(Covid19)が流行りだした。こうなると病院の外来などは一番感染を受けやすい場所である。薬がないとどうにもならないわけではないので、このまま様子を見た方が賢明だなと考えて病院へ行くのを諦めた。

 あとは出来るだけ脊椎管狭窄症に良さそうなことを考えて、自分で色々試しながら様子を見ていくより仕方がない。朝の体操は痛くてもそのまま続け、理学療法士などの勧める体操などで良さそうなものを取り入れて、自分なりに試してみたりしながら、休み休みでも歩くことは出来るだけ続けるように努めた。

 初めはステッキだけで歩いていたが、ある時、女房がショッピングカートを引っ張っているのと一緒に歩いた時、空いた手でそれを持ち、両手で杖をついた方が楽なことに気付き、以来昔買ったノルディックのダブルスティックスを取り出して、使うようにした。それで少しは歩く距離が伸びたようであった。

 更には脊椎管狭窄症の人でも自転車ならどこまでも行けることを知っていたので、年寄りが乳母車のようなのを押して歩いている姿を思い出し、パソコンで老人用の歩行補助器のようなものを探し、歩行補助器とシルバーカーの違いなどを調べ、近くのフランスベッドの店で実物を見、シルバーカーを買い求めて、それを利用することにした。

 これが良かった。自転車と同じなのであろう。少し前屈で車を押して歩く格好になるせいか、シルバーカーを押すと何処までも行けるではないか。ダブルスティックスで歩いた時に痛くなって休んだ所も、スタコラ通り過ぎてどんどん歩けるではないか。それに気を良くして、以来もっぱら、このシルバーカーを押して出来るだけ遠くまで出歩くようにした。

 幸いコロナの流行のおかげで、色々な会合は全てなくなり、劇場も一般商店も休みとなり特別措置法などまで出て、三密を避けて、ステイホームということになったので、医師会などの仕事もなくなり、他にすることも減り、時間は十分出来た。そこで毎日もっぱら家から近い猪名川の堤防や、河川敷の公園を中心に歩き回ることにした。

 そうこうしているうちに、いつしか6月となったが、そのままシルバーカーを押して歩き続けている内に、いつからか、長道を歩いても、何だか足の痛みが起こらなくなり、途中で休憩を入れなくても長道を平気で歩けるようになり、朝の体操の時も右足に負荷がかかっても痛みを感じなくなり、夜もいつしか背臥位でも右側臥位でも寝れるようになった。

 そこで先ずは、毎月決まって行っていた箕面の滝詣でが、2月から途切れてしまっていたので、復活させようと、思い切って行ってみた。往きはシルバー・カーを押して登り、帰りはダブルスティクスで降りてきたが、往復ともに途中で2回休んだだけで、何とか無事に行って来れた。

 それに気を良くして、今度はシルバーカーを家に置いたまま、ダブルスティックスだけで河原のいつものコースを行き、それにも成功したので、次には、初めて、ステッキ1本だけで、近くを3000歩ぐらい、試しに歩いて来た。家に帰り着くぐらいの所で少し右足が痛くなったが、これなら上出来である。

 そこで先日はとうとう、以前に戻って、ステッキだけで、池田の駅前のマンションに寄ってから、池田城まで行ってきた。途中で休みを入れることもなく行けた。帰った頃にはまだ少し右脚に軽い痛みというか違和感を感じることはあったが、これなら昨年の脊椎管狭窄症が起こる以前とたいして変わりないのではなかろうか。

 万々歳である。初めからおよそ8ヶ月かかったが、このまま痛みが再発することなく、いつ迄も、ずっと何処までも歩けることを祈るばかりである。

 

 

 

 

 




朝の体操

 まだ若くて仕事をしていた頃は、毎日忙しく動き回っていて、決まった体操などをしたこともなかった。もともと子供の頃から体の動作が不器用で、走るのも遅く、体操にはあまり興味がなかったので、学生時代にも野球や他の球技も殆どしなかったし、大人になってからも、ゴルフなどだいぶ勧められたがとうとうしなかった。ただ歩くのは好きだったし、好奇心だけは強かったので、暇があればあちこち見物などにはマメに出かけていた。

 ところが80歳を過ぎて毎日の仕事がなくなり、動く量が少なくなって、体の衰えも感じ始めるようになり、健康のために少しは体を動かした方が良いだろうと思うようになり、一番容易に始められるので、毎朝テレビのラジオ体操を始めた。もう時間もあるし、歳をとって朝起きる時間も早いので、毎朝欠かさず続けることが出来た。

 こうしてラジオ体操をずっと続けていたある日、何かの機会に腕立て伏せの話が出て、そのぐらい簡単なことだと思って試してみたところ、たった一回でも一旦下げた上体を上げられないではないか。こんな筈じゃなかったのにと驚いて、これではいけないと、以来ラジオ体操の前に腕立て伏せをすることにした。

 以来腕立て伏せを毎日していると、えらいものである。初めは一回でも腕が上がらなかったのが、毎日やっているうちに、次第に回数を増やしても出来るようになり、最後には毎朝25回腕立て伏せをして、後10回膝をついての同様動作を10回することになり、以後それがずっと続いている。これが私の自己流体操の始まりである。

 その頃からラジオ体操のような有酸素運動ばかりでなく、いわゆる筋トレ運動もした方が良いと思っていたので、まずは腕立て伏せに続いて、膝の屈伸なども加えることにした。そのうちに、相撲を見ていて、日馬富士の仕切りの際の低姿勢の踏ん張り姿勢や琴奨菊の後方へ両腕を上げての反り返る動作が気に入ったので、その真似をも取り入れることにした。

 それと同時に、相撲の稽古でよくされている、膝を曲げたままの姿勢で、腕を伸ばしたり曲げたり回したりする運動も加え、終わりに四股を踏むことにした。

 そのうちに今度はテレビで、地面からどのぐらいの高さで、腰を下ろしている姿勢から片足で立ち上がれるかが問題とされる話を見て、今度はそれも取り入れて、低いテーブルに腰を下ろし、そこから片足で立ち上がるのを繰り返すことにし、ついでにその時、握力を高めるグリップを両手に持って、立ち上がるのと同時にそれをも握るようにした。ついでにエクスパンダーを両腕で広げる運動もその後に加えた。

 またある時、片足立ちが難しいことに気がついて、それも取り込んで、片足づつ1分間、一本足で立つ時間も作ったが、案外これが難しかった。目を瞑ると5秒も立っていられない。開眼でも、ついふらついて途中で足をつくことになりやすい。

 今度はある時の医師会の会合で、スポーツのインストラクターから教えて貰った、ゆっくりと片足づつ膝を曲げて横に下げた手が地面に着くまで膝を曲げる動作を、片足づつ10回続けたり、かがとだけ、足先だけで姿勢を正して歩く動作も取り入れることにした。

 こうして色々なものが取り揃えられ、これらが組み合わされて、自然と私なりの体操プログラムが出来た。最後は地面に尻をついている姿勢から手をつかずに片足立ちで立ち上がるのを10回繰り返して終わることになった。

 以来毎朝ラジオ体操の前にこれらを続けて行うことにしている。少し盛りたくさん過ぎるようになったきらいはあるが、折角の出来たプログラムなので出来るだけ続けていきたいと思っている。全部で40分ぐらいはかかるので、始めるのが少し遅れると、ラジオ体操に間に合わなくなり、途中で止めてラジオ体操に移行しなければならなくなることもある。

 それでももう10年は続いている。そのおかげで昨年秋に起こった脊椎管狭窄症なるものも、8ヶ月かかったが、殆ど良くなったのではなかろうか。体が言うことを聞いてくれる間は続けたいものだと思っている。

古新聞紙

 今朝も早くから家の周りを廃品回収の軽トラックが回っていた。市のゴミの分別回収で新聞などの燃えるゴミの日には、市の回収車より早くに、個人的な業者の軽トラックが何台もやって来て、戸外に出された古新聞を回収していく。古新聞の需要によって来る軽トラックの台数が変わってくるようである。ただ彼らの狙いは新聞紙だけのようで、一緒に出されているダンボール紙などは見向きもして貰えない。

 現代ではこのようにして、各家庭に配達された新聞は読まれたら、そのままビニールの袋に入れられてしばらく保存され、回収日が来たら持っていかれることになるわけだが、我々の子供の頃は今とは違って、古新聞はただ回収されるのではなく、貴重な資材であり、殆どフルに利用されていたものであった。

 今はどうか知らないが、昔はどの部屋の畳の下にも、必ずと言ってようぐらい、古新聞が敷かれていたものであった。そして最近は、これも流行らなくなったが、年末にはどの家でも畳を上げて大掃除をするのが恒例であった。

 畳を上げた時にその古い新聞がひょっこり顔を出すことになるのである。古い日付の新聞なので、ついそれに目をやることになる。すると、もうすっかり忘れていたような何年も昔の新聞の見出しが目につく。つい懐かしく思い出したりして、その記事を読むことになる。そこで大掃除がストップしてしまう。「いつまでそんなもの読んでるの。早く仕事をしなさい」と怒られて、仕事を再開するというのが筋であった。

 また、当時はまだ今のようにビニールなどのプラスチックの袋がない時代だったし、まだスーパーもコンビニもない時代だったので、肉や魚、野菜などはすべて市場や個人商店の肉屋さんや魚屋さん、八百屋さんで買っていたが、これらの店での品物の包装はすべて古新聞紙であった。

 それ以外でも何かを包むといえば、先ず新聞紙が用いられたもので、古新聞はそのために保存もされていたのである。新聞紙はその他にも用途は広く、果物や割れ物の包装にも用いられたし、くしゃくしゃに丸めて箱詰めする時の緩衝材などとしても利用された。

 また、炭や薪を使った竃や風呂釜などで火を起こす時に、着火剤としても重宝されていた。子供は新聞紙を折り紙のように使って、模型の飛行機を作って飛ばしたり、兜を折って、それを被ってチャンバラゴッコに興じたりもした。

 その他、いろいろなことに用いられたが、珍しいものでは、戦後の物のない時には、新聞紙をそのままくしゃくしゃに皺だらけにして、背中のシャツの間に挟むと防寒に役立つというので、利用されたこともあった。

 もう一つ、忘れてならないのは、トイレットペーパーや鼻紙にも広く利用されていたことであろう。予め、新聞紙をA5かB6ぐらいの大きさに切って揃えて、平たい編み籠などに入れて、トイレに置いて使用していたものである。

 それに関して忘れられないのは、我々の小学校では毎日の新聞で、天皇や皇族の写真が載っていたら、その記事を切り取って袋に入れて溜めておき、決まった日に学校へ持っていって、集めて校庭で、それを燃やす行事が行われていたことであった。

 当時は天皇は現人神で、大阪の学校でも宮城遥拝をするぐらい、天皇は雲の上の存在だったので、恐らく皇室の写真が載っている新聞紙で汚いものを包んだりしては不敬に当たるからという趣旨だったのであろうあろう。ましてや、天皇の顔で尻を拭いてはバチが当たるということを想像した人がいたのであろう。

 今から考えれば馬鹿げたことだが、戦前の社会の一面を表す象徴的な行事の一つでもあったのであろう。同じ新聞紙でも時代によって扱われ方は違って来るものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「集中治療を譲る意思カード」

 先般コロナ(Covid19)の感染が広がり、特別措置法まで出され、医療崩壊が心配された時、ICU等での人工呼吸器や人工肺(エクモ)などが不足がした場合に、それをどの患者に使用するのか、その選択をどういう基準で決めるかが問題となった。人命の選択を迫られることだけに、それに直面する医療従事者の精神的負担も大きい。

 日本ではコロナの流行以来、その診断にPCR検査が制限され、基準が作られて、医師が必要と考えて、窓口とされた保健所の「帰国者接触者窓口」に申し込んでも断られることが多く、それが元で死亡例も出たと問題になったが、そんな中で橋下徹氏や某プロ野球選手、西村経済再生大臣が、該当する症状もないのにPCR検査を受け、有名人は別格なのかとの非難を浴びたことも参考にしなければならない。

 当然人の命に関することは平等であるべきである。その平等であるべきことが守れないところに医療崩壊の問題があるのである。常識的に社会的な利益からすれば、将来の長い若者を優先して、先の短い老人を後回しにするのが良いということのなり易いが、多様な個人はまさにあらゆる面で多様である。コロナで予後の悪いのは断然高齢者であるが、高齢者こそすべてが多様で、考え方もより多様である。それを他人の判断で命を決めてしまって良いものであろうか難しい問題である。

 人の命は天運によって決まるとしか言いようがないが、その中で決められるなら、自分の運命は自分で決めるべきであろう。CPCなどの救急治療は急を要するために、機械的に運ばれ、機械的に処理され勝ちであるが、救命医療を受けるかどうかは本来は自分が決めるべきものである。医療崩壊に際しての集中治療も本来は自分で決めるべきところを、それが不可能な場合にどうするかという問題である。担当する医療者の精神的負担は大きいのは当然である。

 このような背景の下に、表題の「集中治療を譲る意思カード」というものが作られたのであろう。作ったのは64歳で、多発性の骨転移を来した前立腺癌の加療中の医師で、「新型コロナの治療で過度な負担がかかる医師らに、人工心肺装置エクモなどが足りないからといって治療をするかどうかを判断させるのはあまりに酷だ」と語っている。

 この経過から見ても、このカードはあくまでも善意の下に作られたものであり、作者も述べているように「高齢者が切り捨てられる」といった批判があることは承知しているが、いざという時にどうして欲しいのか。先送りせず、考えるきっかけにして欲しい」と訴えている。

 私の場合は、元から「Do notCPR(救急車を呼ぶな)」というプラカードまで作っており、今回のコロナに際しても、このカードを見る以前から集中治療を受けないことに決めているので、このカードの如何によらず、コロナに罹患してもエクモなどのお世話になりたくないが、一般の老人となると、選択は複雑となろう。

 こういうカードは便利だからといって作られるべきものではない。いきなりこういうカードに遭遇させられた老人は、多くの人がどう選ぶべきか迷うのではなかろうか。殊に日本では、社会の同調圧力に弱い老人が多いのである。自分の身にかかる重大な決定でも、人から勧められれば、それに従っておいた方が良いのではと思う人が多く、結果として、老人が切り捨てられることが本当に起こってしまう恐れがあるのではなかろうか。

 このカードはあくまで医療者側の要望から生じたもので、医療における人間関係で言えば、今では時代遅れとされる「父性的医療」に基づいていることになる。現在では一般医療でも「説明と同意」の時代である。あらかじめ十分な説明があり、本人が真に理解した上で、同意してカードにサインした場合には良いが、一旦カードが出来てそれが広く利用されるようになると、カードは多かれ少なかれ一人歩きし勝ちなのがこれまでの歴史である。

 面倒で、しかも同意が取りにくい状況であろうことは十分理解できるが、やはりカードのサインさせるような安直な方法をとるのでなく、医療者側がいくら酷であっても、症例ごとに、個々の患者と十分に向き合って、十分「説明と同意」の上で判断して決めるべきことだと思う。それが医療のあるべき姿だと思うがどうであろうか。

 

 

 

 

日本のIT化は遅れている

 新型コロナの流行で三密を避けよう、Social Distancing、Stay Homeなどと言われ、多くの人が仕事を休まざるを得なくなり、その補償が色々問題となったが、紆余曲折を経て、随分遅くて不十分だが、補償の方法や額も大分決まって実行される漸く実行されてきつつあるようである。

 何だかんだと問題を抱え遅くなった全国民を対象とする「特別定額給付金」として一律10万円の支給もやっと決まって実施されだした。ところが、日本の官僚制度の市民サービスの貧弱さによって、申請や実際の給付のトラブルが続いている。

 初めは申請者が殺到して三密の問題が起こりかねないので、マイナンバーを持っていれば、それを用いてオンライン申請をすれば便利だということだったが、マイナンバーの暗証番号の再登録などで、混み合って混乱し、申請してもマイナンバーと住民基本台帳 が紐づけされていないため、いろいろトラブルが発生して、思うように使われず、オンライン申請を受け付けないとした自治体も出てきたりして、結局、現段階では郵送申請をした方が良いことになってしまった。

 ところが書類による申請だと、申請された書類をダウンロードして、住民基本台帳と照合し、申請者の氏名や生年月日などに誤りがないかを2人一組の読み合わせと目視で確認するなどに時間を費やし、処理できるのは週1,000件程度だということらしい。ますます時間がかかり、中々申請者の所まで届かない。

 私も申請書類が届いてすぐに提出したが、実際に金が振り込まれるのは6月一杯ぐらいはかかるだろうと言われている。未だに口座にには振り込まれていない。私の甥は母親が施設にいるので代理申請をしたが、本人確認のために戸籍謄本まで求められたそうである。本来ならば国が戸籍を把握しているのだし、住民基本台帳もあることだから、その上に不要のはずである。折角マイナンバーを作っても、一向に事務の効率化さえ進んでいないようである。

 同じコロナ対策としての中小企業向けの持続化給付金とやらは、オンラインでなければ申請出来ないことになっているが、それでは申請出来ない事業主もいるので、ヘルプするシステムを作ったらしいが、こちらでも申請事務はスムースには進んでいないようである。どうも日本のオンライン申請は、まだ問題なく使える段階にまでいっていないようである。

 外国と比べて随分遅れているようである。、新聞によると、韓国にも緊急災害支援金なるものがあり、一世帯あたり、100万ウオンが支給されるそうだが、こちらでは、オンラインの申請には1分もかからなかった由である。支援金をクレジットカードなどで受け取れるので、そのクレジットカード会社のホームページや携帯電話のアプリで簡単に手続きが出来、2週間ばかりで97%の世帯に届いたそうである。

 日韓は給付金の財源となる補正予算をまとめるまでの道筋は極めてよく似ているそうだが、支給のスピードと効率は全く対照的なようである。IT化が進んだ韓国の行政インフラが、紙中心の日本のアプローチよりも迅速な行動に適しているのが鮮明に示されている。

  ヨーロッパでもコロナの休業補償があり、ドイツ在住の日本人も休業補償をオンラインで申請すればやはり1週間もかからず送って来たそうである。イギリスでも休業補償制度の申請は企業が従業員の情報と金額をオンラインで入力するだけで、申請すれば4〜5日後には入金される由である。中国のIT化が進んでいることもよく知られており、コロナに関しても武漢の閉鎖の場合には、いろいろな目的で、いろいろなアプリがフルに活用されたこともよく話題に上った。

 どうも、日本のオンライン化は他国と比べて恐ろしいほど遅れているようである。小中学校の休校によるオンライン授業なども殆ど行われていないようだが、中国や韓国と比較しても、かなりの遅れをとっているそうである。

 このような遅れは単に機械的なオンライン化の遅れだけではなく、官僚機構の縦割りや複雑さ、上から与えてやるといった態度なども関係して、事務的、機械的に効率よく出来るものさえ、遅くてまずいものになっているようである。官僚機構の構造上の問題も関係しているように思えてならない。

 このコロナ危機を逆にチャンスと捉えて、官僚のセクショナリズムなどを排し、いろいろな面で使いやすいオンライン化、IT化を進めなければならないのではなかろうか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人殺し

f:id:drfridge:20200610161420j:plain

 まずこの写真を見て下さい。これを見て怒らない人がいたら、その人は、少なくとも現代の市民社会に生きる、まともな人ではないと言っても良いだろう。これは劇中のことでもなく、作られた映像でもない。ここに写っている二人はともの現実の人間である。それを知れば、誰しも怒りを禁じえまないのは当然であろう。

 言うまでもなく、この写真はアメリカのミネアポリスで警官が、アフリカ系男性の首を膝で8分何十秒間かも押さえ続け、男性の息が出来ないという訴えにも耳を貸さず、殺してしまった事件の写真です。今もI can't breathe, I can't breathe, I can't breathe という微かな声が聞こえてくるような気がしてならない。

 白昼堂々と街の中で、市民の目線のある中で、本来市民を守るべき制服姿の警官が行なった殺人行為であり、周囲の人からの中止の要望をも同僚警官が断った上での出来事だと言われる。これはどう見ても、公権力による意図的な虐殺としか言えない。

 これに対して、単に全米各地でアフリカ系だけでなく、広範な市民が反発して、Black Lives Matterというプロテストを前面に、大規模なデモが起こり、連日続いているばかりでなく、デモはますます拡大して、世界中に広がっている。イギリスではブリストル奴隷貿易で儲けた商人の像が引き倒され、川に投げ捨てられるデモも起こっている。日本でも、大阪で反差別を掲げてデモが行われたようである。

 アメリカではトランプ大統領連邦軍まで動員して強硬に押さえつけようとしたが、軍部の反対に合い、結局州兵までも撤退させざるを得なくなってしまった。秋の大統領選挙を控え、大統領は強気の姿勢をくずそうとしないが、民主党のバイデン候補はジョウジ・フロイド氏の葬儀にメッセージを寄せたりして、支持率を上げている。

 アメリカにおけるアフリカ系市民に対する差別の歴史は長く、長い歴史を経て今では法的には平等が保証され、基本的には大部分の人たちにも支持されているが、今なお、アフリカ系市民の経済的格差は大きく、社会生活上の格差も依然と続き、それを背景とした白人などの明からさまな差別主義者の行動も今なお続いている。

 Black Lives Matterというスローガンも2014年に7月にニューヨークでエリック・ガーナーが白人警察官による過剰な暴力により死亡し、8月にミズリー州ファーガソンでマイケル・ブラウンが白人警察官に射殺される事件が続き、その翌日にファーガソンで行われたデモ行進から世界的に認知されるようになったものである。

 それ以後もアフリカ系アメリカ人が犠牲となった警官の過剰な行為は後を絶たず、今年になってからだけでも、2月にはジョギングをしていたアフリカ系男性が、地元で発生した強盗事件の容疑者に似ていると勝手に決めつけた白人の親子に、トラックで追いかけられ、射殺された事件があり、3月には捜査する家を間違えた警察官が、緊急医療技術者である26歳のアフリカ系女性の家に、予告なしに深夜押し入り、テイラーさんを射殺した事件なども起こっている。

 なお、この Black Lives Matterというスローガンは「黒人の命も(が)(こそ)大事」というような意味であるが、今では世界中に広がっている。All Lives Matterの方が良いのではないかとの意見に対しては「私たちはすべての命が大切だと当然認識しています。しかし、私たちはすべての命が大切だとされている世界には住んでいないのです」と答えられている。

 これは決して遠いアメリカの話では終わらない。海外に広がったデモも、単にアメリカの出来事に同情して起こっているだけではない。コロナ流行以前までの世界的な人類の移動により、世界中の国で多民族が同居することになって、人種差別がこれまでになく、世界的な問題となってきたことが背景にあり、人種問題が必然的に社会的、経済的な格差に結びついていることが人々のこのプロテストの元になっているのである。

 今回のデモを見ても、日本では「私には関係がない」「日本ではそれほど人種差別の問題はない」と思っている人も多いかも知れないが、日本でも部落民朝鮮人アイヌ人、さらには最近の外国人実習生や避難民などに対する不当な差別の問題が続いていることに無関心であってはならない。

 大坂なおみや八村塁氏をはじめとするアフリカ系の日本人も増えてきたし、少子高齢化の社会の未来を見れば、移民を増やし多民族国家にしていかねば国が立ち行かなくなる恐れも高く、人種差別を含めて、あらゆる差別には敏感に反応して、それを乗り越えて行かねばならないのではなかろうか。

 黙っていることは差別を肯定していることになりかねない。トップに掲げた写真に怒りを感じる人は、この国でも、Black Lives Matterに呼応して、あらゆる差別に反対の声を上げようではないか。