「老年的超越」のつづき

 此の前、最近自分が何となく感じるようになった気分が老年的超越の表れかということを書いたが、そんなことを研究している増井幸恵という人の『「話が長くなるお年寄りには理由がある」ー「老年的超越」の心理学』という本を見つけたので読んでみた。

 新書版で読みやすい本だったので、コロナでStay Homeを強いられていたこともあって、家で寝転がって一気に読んでしまった。表題に「話が長くなるお年寄りには理由がある」とあるので、そんな老人の習癖などについていろいろ書かれているのかと思ったが、そんな記載はほぼ0で、殆どが「老年的超越」の解説にあてられていた。

 最初は、老人が衰えていく身体が環境の変化に適応していく戦略としての、パルテスのSOCの説明。すなわち、1.目標の絞り込み(Elective Selection) 2.目標の切り替え(Loss-based Selection )3.最適化(Optimization )4.補償(Compensation)の四つを組み合わせて老人は何とか対応して行こうとするものだが、超高齢になってくると体力気力の低下とともに、結局、目標の絞り込みだけが残るとことになるという。

 ついでエリクソンの8段階の心理社会的発達理論についての説明があり、晩年のエリクソンが第9段階として、老いの否定、孤独感、感情の安定などの特徴をあげ、続いて後半で、老人的超越について書いている。

 一人で心の中で思いを巡らせることが老年的超越に到達する方法であるといい、ただ歳をとれば自然体での繋がりが大事で、何かを乗り越えて到達するものではなく、受け入れることから始まるという。

 生と死がとても近く感じられるようになり、生きていることに「神秘性」「不思議さ」を感じ、先祖や次世代との繋がりを感じ、自己中心性の減少、無為自然、自然のまま生きて、感謝の念を持つ、というのが老年的超越ということになるようである。ただ、日本人ではトルンスタムのいう時間空間の超越はあまり話されない由である。

 生涯現役ピンピンコロリが比較的若い老人を対象とした場合には理想とされ、超高齢期となれば、それとは違う老年的超越というもう一つの段階に発展するのではないだろうかということらしい。

 前回に書いた私の場合もどうやらこの老人的超越に当てはめても良いような感じがする。神秘性や不思議さなど宗教的なことは一致しないが、広大で永遠とも言える時空の宇宙をどう捉え、先祖や次世代とも繋がりをどう認識するかは人により異なるが、この自然をそのまま認め、自己中心性が減り究極、無為自然に生きるということを見ると、多少のズレがあるにして老人的超越に当てはまるものと考えても良さそうである。

 ただし、このように感じるようになったのは90歳も過ぎてからだということも付け加えておきたい。

 

人はパンのみにて生きるにあらず

 聖書の教えとして有名な「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉は誰でも知っているでしょう。これは一般に「人は物質的な満足だけでなく、精神的。文化的な満足もなければ、生きていけない」と解釈されており、私もそうだとばかり思っていた。

 ところが、新聞にキリスト教の人が書いている記事を見ると、それは誤解なのだそうである。それによるとこうなんだそうである。

 悪魔が断食をして空腹だったイエス・キリストに「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と誘惑したらしい。もちろん誰にも石をパンに変えることなど出来るはずがない。しかし、キリストは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだという、旧約聖書の言葉を引いて反論したのだという。

「パンばかりに固執してはいけない。神の言いつけに従っていれば、自ずとパンも与えてもらえるだろう」というメッセージなのだそうである。要するに、神を信頼することの大切さを説いたものだと言われる。

 しかし、無神論者の私には神の言いつけに従っていれば、自ずとパンにありつけるとは到底思えない。歴史を見ても、キリストを信じながら飢えて餓死した人がどれほどいたことであろう。キリスト教の人に言わせれば、信心が足りなかったからだとか、神が試練を与え賜った

のだとでも言うのであろうが、やはり生きるためにはパンが必要だし。石をパンに変えることは誰にもできない。

「人はパンのみにて生きるにあらず」は誤解であっても素直に解釈して、人が生きるためにはパンで空腹を満たすだけではなく、一般教養や芸術なども必要だというように解釈したいと思う。

 それに飢餓を知らない今の人たちには理解しにくいかも知れないが、人は最低限、パンがなければ生きられないことも知っておくべきであろう。パンさえ満足に得られない政治状況には声をあげ、文化や芸術の貧困に対しては「人はパンのみにて生きるにあらず」とも叫ばなければならないであろう。

老年的超越とは?

 もうこの夏が来ると満年齢で言っても92歳になる。よくここまで生きて来たものである。

  17歳で戦争が終わって、突然変わった混乱の世の中に放り出され、闇夜の中を徘徊せざるを得なかった戦後にはニヒリズムに陥り、それを引きずって生きていた。その頃、頭によく浮かんだのは、広遠な宇宙の中での矮小な人類の存在であった。

 人類が如何に相争って栄えたとしても、永遠とも言える宇宙の存在から見れば、人類の歴史などほんの一瞬の出来事に過ぎない、戦争に勝とうが負けようが、文明が進もうが滅びようが、人類そのものが時が来れば必ず滅びてしまうのが必然である。そんな中で、その人類の中での、またその一滴にも当たらないような個人がどう生きようが死のうが、何の変わりもないというような思いであった。

 現実から逃避したデカダンスニヒリズムであった。精神的に虚無に追いやられた若者の必然的な結果だったのかもしれない。若い時には自殺も考えたぐらいで、そんな考えを引きずって生きていたので、42歳の厄年まででも生きていたらもう充分だと思っていた。

 それが、世の中が落ち着き、仕事が出来、家族が出来て、現実に立ち向かわざるを得なくなり、日日の生活に追われている間に、いつしか42歳は瞬く間に過ぎてしまい、60歳で定年になった。それでも、まだ元気だったし、家族もいるし、仕事もあれば、働くのが当たり前のように惰性のまま働き続けているうちに、いつしか70歳、80歳を超えてしまった。その頃になると周りの友人も次第に消えて行って、気がついたらもう90歳ということになっていたわけである。

 ここへ来るまで、忙しさにかまけて、直節関係する現実の世界の中での思考や応対に追われ、広い人類の歴史や宇宙との兼ね合いで自分の位置付けなどにはあまり思いを巡らす機会も少なく過ぎてしまった。ところが、90歳も過ぎたこの頃になると、次第に嫌でも残りの人生が短いことを意識せざるをえなくなり、死が近づくとともに、自分の命や運命だけでなく、自分を取り囲む人類や世界、さらには広大な宇宙の時空の中での人類、その中での自分の存在の位置付けなどが頭に浮かび上がってくることが多くなった。

 戦後の時代に囚われていた、大きな宇宙の時空の中での人類、その中での自分の存在の矮小さが再び戻ってきたような感じである。何十年ぶりかの久し振りの宇宙への回帰とも言えるかも知れない。ただ戦後のニヒルな焦燥感で見た宇宙ではなく、今は宇宙の無限の時空の中での客観的な人類の位置づけを静かに認め、自分の存在を客観的に眺めようとする立場だと思いたいが、結局は同じかもしれない。

 自分が死んでも、人類の歴史、地球や宇宙の歴史は続く。大きな宇宙の時空の中のちっぽけなほんの一瞬に過ぎない人の一生、それを客観的に見ながら静かに受容しようとするものであるとしたい。逃避と諦観の違いだけかもしれないが。

 何となくそんなことを感じていたら、老人的超越Gerotranscendenceという言葉に出くわした。老年病学の領域で使われているようで、スエーデンのTornstamと言う人が言い出したものらしく、日本でも研究者がいるらしい。それによると、超高齢期になると、物質主義的で合理的な世界観から, 宇宙的,超越的,非合理的な世界観へと変化すると言うもので、宇宙的意 識,自己意識,社会との関係という 3 つの領域に分け られるという。

 この宇宙意識の領域では、自己の存在や命が過去から未 来の大きな流れの一部であることを認識し、過去や未 来の世代とのつながりを強く感じるようになる、とし ている。また,時間や空間に対する合理的な考え方が 変化し、最終的には宇宙(cosmos)という大いなる 存在に繋がっているという認識を持つこと、死と生の 区別をする認識も弱くなり、死の恐怖も消えて行くこ と、などを指摘している。

 また、自己意識の領域では、自己中心的傾向が弱まるのに伴い,自分へのこだわり、これまで培ってきた自分の人格や身体的な健康に対するこだわりが低下し、あるがままを受け入れ、自然の流れに任せると言われる。

 社会との関係の変化では、過去に持っていた社会的な役割や地位に対するこだわりがなくなること、対人関係についても広い関係が急激に狭くなっても、その 中で深い関係を結ぶようになること、そして,経済面, 道徳面での社会一般的な価値感を重視しなくなるこ と、などの特徴があるとされている。

 私の世界に対する意識も、この老人的超越の傾向があてはまるのかも知れない。同じ高齢だからと言っても、それぞれに違った長い人生の間での生活環境も歴史も人様々なので、世界観も当然色々であろうが、高齢者として似たような傾向が出てくるのかも知れない。

 ただし、私は超越的とも言える宇宙の時空の中での自分の位置づけを意識するだけで、宗教的で非合理的な世界観とは明らかに違うし、時間や空間に対しては今も合理的に考える点では明らかに異なる。従って私の感じ取り方が果たして老年的超越にあてはまるかどうかは定かではない。

 ただ90歳を過ぎて私が思うのは、広大無辺である時空の中でほんの一瞬であったにしても、無数の人類の一員として貴重な命を生かせて貰い、いろいろなものを見せて戴き、経験させて貰った宇宙に感謝したいということである。

取り残されて行く

 父は94歳で亡くなった。父は早くから兄弟などに死に別れ、親族も殆ど残っていなかったところに、この歳になると友人、知人にも殆ど先に死に別れていたので、寂しい葬儀であった。その時思ったのは、人間には死に時というものがあるとのだなということであった。まだ周りに幾らかでも友人などが残っている間に死んで、「あいつもとうとう死によったか」と言われる間に、見送られて死ぬ方が良いのではなかろうかと。

 そう思ったのも、もう三十年も昔のことである。今や自分がその歳になってしまった。幸か不幸か、まだ元気である。しかし、周囲の昔からの友人、知人は次々と消えていってしまう。

 ごく最近も、クラス会の世話をしていた友人がなくなり、後をどうしたものかと他の友人から相談の電話があったのが一週間ぐらい前のことで、その友人から一昨日の夜にまた電話がかかってきたので、てっきりその続きの話かと思ったら、今度は共通の友人が亡くなったが、知っているかという知らせの電話であった。

 そしたら、昨夜はまた違う関係の友人の奥さんから電話があり、その友人が前立ガンで亡くなったという知らせであった。次々と死亡の知らせが続く。

 中学時代から仲の良かった友人たちも、80歳を過ぎて例年のクラス会が亡くなってからも、残っている十数人ぐらいが時々集まって、コーラスを聞いたり、一緒に食事をしたりしていたが、それも一人減り、二人減りして終わりを告げ、最後に残った二人も一人が一昨年亡くなり、一人は認知症で施設に入ってしまった。

 振り返ってみたら、どんどん死んでいってしまったものである。大学生の時、同じグループで一緒に行動することの多かった6名も、今では誰も残っていない。卒業して同じ教室に入った仲間も一人が認知症で残っているだけで、後は皆いつしかいなくなってしまった。学生の頃よく一緒に遊んだ友人たちも それぞれの生き方をした末に、皆いなくなってしまった。

 高校の時によく行動を共にしていた友人たちも、今はもう誰もいない。海軍兵学校で4ヶ月間、寝食を共にした仲間も、ずいぶん長く交流を続けていたが、もう今はすべて過去の人になってしまった。 仕事で一緒だったりした縁で、一緒に旅行したり、飲みに行ったりと、色々な交流のあった気の合った人たちも、同世代の人達に限ればもう誰も残っていない。思い出だけが時々顔を出す。

 年賀状だけの付き合いだけになって続いていたような人たちも、名簿による死亡の確認で抹消されて行く人が次第に増えていって、名簿が抹消線で埋まってしまったページさえ多くなってきている。抹消線の下から古い懐かしい名前がのぞいていたりする。

 また比較的近隣に住んでいる同世代の大学関係の仲間たちが丁度80歳の時に、8人ばかりで、毎年池田の料理屋で集まることにしたのだったが、別れ際に「元気だったらまた来年」と繰り返しているうちに、一人減り、二人減りして、そのうちに料理屋もなくなり、3人だけとなって解散したが、その後、残った2人も逝ってしまった。

 何だかんだで周りの皆に先に逝かれて、一人後に取り残されていく感じもする。85歳を過ぎると死ぬ人が多くなり、90を超えると残った人も順次消えていくことになる。人には寿命があるものだから仕方がない。ここまで生きれば良かったと思うべきであろう。

 もうそろそろ死んでも良いのではと言われているような気もする。

 

 

 

 

最低の総理大臣

 新型コロナがパンデミックになって、出来るだけ自宅に留まろうと首相が国民に呼びかけた時に、首相が自身も自宅に留まっていることを宣伝するためにか、SNSに自分が自宅で愛犬を抱いて寛いで、コヒーを飲んでいる写真を出して、多くの国民の顰蹙を買ったことはまだ記憶に新しい。

 これは、もっぱら今井補佐官の入れ知恵かと言われているが、ここらでStay Homeの模範を示したらPRにもなるのではということで、わざわざ演出したものであろうが、あの写真を見て、この人はもともと首相は無理な人物だと思わざるを得なかった。何故なら、新型コロナで休業を強いられ、生活にも困る人が沢山生じているところで、無理に出歩かないように要請するのである。政治家でありながら、そういう人たちの生活感覚がわかっていないからである。

 恐らく、奨めた補佐官も一流ホテルの支配人の息子なので、本人にも、悪気があってしたのではなく、自分の個人的な感覚で、首相が見本となって家庭で寛ぐ様子を見せて、国民の皆さんも出来るだけ家庭で寛ぐようにしましょうという見本にしたらと考えたのではなかろうか。

 しかし、同じ家庭に留まるといっても、安部首相が家庭で寛ぐのと、多くの国民が新型コロナの流行のために、止む無く自宅に留まらざるを得ないのとでは雲泥の違いがある。コロナのために仕事が出来ず、休まざるを得ないが、収入がなくなり、明日からどうすれば良いのか困難に突き当たっている人にとっては、家でゆっくり寛ぐどころか、生活の困窮にどう対処すべきか切羽づまった感じでいるのである。

 そういうところに呑気に愛犬を抱いて家庭で寛いでいる姿を見せて「私も家に留まっています。皆さんも出来るだけ家にいましょう」と言われたのでは、腹の立たない人の方が珍しいであろう。そういう庶民感覚との乖離が分からなくて、こんな映像をわざわざ見せる人には政治家の資格がないと言っても良いだろう。ぼんぼん育ちの首相には自分の思想がなく、庶民の感覚とのずれが大きい。

 コロナ対策にしても、中国での爆発的な感染が報じられているのに、4月に予定されていた習主席の来日の予定もあってか、春節の中国からの観光客を歓迎すると発表しているのを初めとして、日本での感染発生に対する感度も鈍く、連日のように宴会を続けた後にやっと対策を発表、それでもオリンピック開催をめざして出来るだけ小さく収めようとして、感染拡大の発表を抑えていたようで、オリンピックの延期が決まった途端に感染者が急増し、結局全国的な特別措置法を出さなければならなくしてしまっている。

 こういう感染症パンデミックが起こったような時こそ、首相が先頭に立って政治力を発揮し、国民に直接話しかけるなどして、国民の不安に答え、人気を獲得するなど、政治家の出番なのに、日本の首相はあまりにも情けない。イギリスやドイツなどの首相の演説を聞いていて情けない気がしたのは私だけではあるまい。

 日本の首相はコロナ対策を国民に呼びかけるのにも、官僚の書いた文章をプロンプターで読むだけで、自分の言葉で喋らないから、聴衆に響かない。おまけに、一般教養に欠けるので、プロンプターを読み間違えたり、市井 云々 目途など漢字の読み間違えが起こるし、やたらと決まった言い回しばかりを繰り返し、返って評判を落とすことになる。

 しかもコロナ対策も全てが遅くて貧弱である。外国に対してはいい顔をして大金を出すのに、内に向かっては、自粛に対する補償さえ渋り、眼前の対策よりコロナ後の経済回復時の対策に力を入れるような誤りまで犯している。補償に関しては、初めは肉券だの魚券を配るなどとの荒唐無稽な話まで飛び出し、個人に対する補償も散々揉めて、やっと全国民に10万円の給付をすることになったなど、種外国の補償に比べてあまりにも遅く、見劣りがする。 

「アベノマスク」も似たようなもので、マスク不足で国民が困っているので、政府から配れば喜ばれるだろうという言葉に乗せられて、利権がらみの業者に600億円とかいう大金を払って欠陥品の多いマスクを掴まされて、紆余曲折を経て、未だに多くの国民には届いていない。こういうものは緊急に応じてこそ意味のあるもので、もう巷にマスクが余り出した頃に配られても誰にも喜ばれない。税金の無駄使いだと非難されるだけである。

 金持ちのボンボンが権力まで持つものだたら、怖さを知らず、オリンピック誘致の時などでもわかるように、平気でハッタリをかましたり、見え透いた嘘を平気で言う。そこへ権力に物を言わせて、私利私欲に無頓着、外には良い顔を見せも、内弁慶でずる賢くて周囲に忖度させて悪事を隠して追及を逃れようとする。

 その結果が、これまでの数々の疑惑事件となって露わになっている。森友学園加計学園 桜を見る会 などの数々の疑惑は時とともに増えるばかりである。それでもコロナの危機を利用してまで何とか憲法改正への道筋をつけようとして色々工作してきたようである。

 そうした国民を無視した上での悪行の積み重ねの上に、挙げ句の果てが自らへの追求の手を逃れるためか、検察幹部人事にまで介入して三権分立の民主主義の根幹まで歪めようとして来ているのである。

 今回の検察庁幹部の定年延長の特例など、あまりにも見え透いた無理筋を国家公務員法に紛れ込ませて、新型コロナの問題で混乱しているどさくさに紛れて国会に提出するなど、まさの火事場泥棒と言われても当然なやり方で通そうとしてきたのである。

 国民が怒るのも当然である。素人から見てもあまりにも自分勝手な姑息なやり方である。法案に対する国民の反対の声はこれまでになく大きくなって来た。内閣支持率も急に落ちている。政府は法案をとりあえず引っ込めざるを得なくなったようである。まだ油断は禁物であるが、もうここらあたりで安倍首相にはお引き取り願わなければ、この国は本当にめちゃくちゃになってしまいそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

強者に弱く、弱者に強い

 5月26日の朝日新聞を見て驚いた。去る5月8日に安倍首相がトランプ大統領と電話で協議をした際、トランプ大統領からアメリカで人工呼吸器を作り過ぎて、余って困っているので買わないかという打診があったそうである。トランプ氏は「いつでも出荷できるから」と上機嫌だったそうである。

 ところが、人工呼吸器は日本国内でも増産を進めているので、日本側は一旦は「不足は起きていない」と答えたそうだが、首相官邸内で再検討した結果、コロナの第2波に備えるということで、まずは1,000台程度を購入することにしたそうである。

 一方、紙面の同じところに載っていたのだが、日本のPCR検査が増えないで困っていることを知った韓国政府が、早くから日本にPCR検査キットの提供を検討していることが知られていた。ところが、こちらに対しては、韓国側は日本側からの要請があればと言っているのに、日本の政府幹部は「米政府からは打診があったが、韓国政府からは申し出がない」と述べて、今のところ韓国の折角の提案には応じていないようである。

 不要な人工呼吸器を買うのと、足りないPCR検査キットを手に入れるのと、どちらが国のため、国民のためになるかは言うまでもない。政府は本当に真剣に国民のために、コロナ対策をやっているのであろうか疑いたくなる。

 日本のPCR検査の少なさが世界から非難の的になっているのに、韓国からだと言って断る理由がどこにあるのか。韓国のコロナ対策は初期からPCRを大量に実施して、流行を物の見事に抑えたとして、世界の優等生とみなされているのである。

 アメリカからはさしあたり不要なものまで、相手の言うがままに買うのに、いくらいろいろな問題を抱えた隣国だからと言って、国民のコロナ対策に役立つ提案をどうして受けないのか。

 日本政府の狭量さと、強い者には卑屈で、弱い者には傲慢な態度に腹が立つとともに、国民として、政府のあまりにもの情けなさを悲しく思わざるを得ない。

アベノマスク

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アベノマスク

 安倍首相が政権発足直後から高々と打ち上げたのがアベノミクスであったが、二年経ったら物価も上がり景気も回復すると言われていたのが、八年経っても回復しないまま、今や新型コロナのパンデミックに巻き込まれて、経済にも大きなブレーキがかかったような状態にまでなってしまっている。その上、この新型コロナに対する対策が、あまりにも遅く、貧弱で、大方の失望を買い、今や内閣の支持率も27%まで落ち込んでしまっている。

 この安倍首相のコロナ対策の一つがアベノマスクであるが、600億円だかの高額な費用を掛けて、4月の初めに各世帯に緊急に直接配布すると期待を持たせながら、2ヶ月経った今なお、配られていない所が多く、我が家にもまだ届いていない。緊急対策であるから、緊急に処理されてこそ意味があるものである。月日が経ち、今や巷にマスクは溢れ出しており、小さな布マスクの評判も良くないので、最早このマスクを期待して待っている人がいるのかさえ疑問に思われる。届いても返納する人さえ出てきているそうである。

 TVなどで見ると、安倍首相だけが今なお律儀にこの小さな布マスクをしているが、周囲の閣僚などで布マスクをしている人は一人もいない。その上、政府の注文で出来上がってきたマスクが汚れていたり、異物が混入していたりで、それを選別するのにまた8億円とかを使ったなどとも言われている。このマスクは洗ったら更に小さく縮んでしまったなどとの話もある。

 政府のコロナ対策は全てにおいて、遅くて、ケチで、不味いと言われている。コロナ流行に対する対策として、劇場や店舗など人の密集する多くの場所の閉鎖などの自粛や要望、指示などはしても、それに対する政府の補償がなかったり、あっても極めて遅く貧弱なのである。紆余曲折を経て決まった国民の一律給付金の申請も、ITの不都合などでなかなかスムースには進んでいない。

フランスでも市民へのマスク配布が行われているようだが、あちらのマスクの方が大きさや形も良く、見た目も立派そうだし、配布も申請すれば速やかに届けられるそうである。

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パリのマクロンマスク

 今やアベノマスクを使っているのは安倍首相だけで、言葉通りの安倍(首相)だけの「アベのマスク」になっているようだし、アベノミクスも「アベノミクスアベノマスクで終わり告げ」というところらしい。もうここらで安倍首相には辞めて貰いたいものである。