黒川検事長の退職

 森友学園問題以来、安倍内閣の守り神的役割を果たしてきた黒川検事長がとうとう辞職した。安倍首相がわざわざ閣議決定までして定年を延長し、検事総長につけようとし、世間から非難されると、姑息な方法で、法律まで改正して、後付けで合法化しようとしたことに国民の怒りが爆発したのは当然であろう。

 コロナのパンデミックで非常事態宣言の出ている最中である。安倍内閣のコロナ対策が初めからあまりにも遅く、自粛を要請しながら補償があまりにも少ないので、多くの人たちが生活に困窮したり、不安を抱えている最中に、まるで火事場泥棒のように、こっそりと公務員の定年延長問題と抱き合わせて、検察人事を好きなように変えようとしたからである。

 コロナの特別措置法のためにデモは出来なくとも、仕事が出来なくなって困っている多くの人たちがTwitterで声を上げ、デモに換えたのである。何でも700万以上のTwittがあったそうである。

 そんなこともあって、政府はとうとう法案を引っ込めざるを得なくなったのである。当然、焦点を当てられた黒川検事長も身を引かざるを得ないであろうと思われていたが、この人が賭けマージャンをしていたことが暴かれてということで辞職した。

 世間では検事長とあろうものが賭けマージャンをして、免職でなく、訓戒だけで、退職手当を7,000万円も貰うのはけしからんという声がもっぱらであるが、私は賭け麻雀の話は政府筋と検事長の合作の下手な作り話ではないかと疑っている。

 どう考えても、自分が世間から注目の的となり、その問題が頂点に達していることが自明な時期に、それも検察のトップの地位にある者が、わざわざ法に違反していることを承知で、この時期に、しかも報道関係者と賭けマージャンなどする筈がないであろう。マージャンをしたのが検察法案改正審議中の5月に入ってから2回ということだそうである。

 以前からマージャンのアディクトだったとも報じられているが、マージャンは好きだったのであろうが、賭けマージャンの常習犯であったとすれば、問題の人物であるのだから、もっと早くに誰かがすっぱ抜いていたに違いない。黒川氏が世間の注目を浴び出してからの期間はもう長いし、政治がらみのことなので、誰にもそれが分からなかった筈がない。

 そうとすると、これは黒川氏の弱みに付け込んで、黒川氏が強制されて5月の賭けマージャンをさせられたのではなかろうか。黒川氏にはこれまでの長い政権との関わりがあるので、何らかの弱みを握られている可能性も高い。政権側もこれまで持ち上げてきた黒川氏を、何もなかったかのごとくに、素直にこっそり辞表を出させて辞めさすわけにはいかないであろう。

 おそらく、辞め方をどうするかが議論された結果が賭けマージャンの一件となったのではなかろうか。ひょっとしたら、賭けマージャンを利用して検察側に圧力をかけ、あわよくば、検事総長に責任を取らせて辞めさせるために利用しようと考えたのかも知れない。黒川検事長が辞めるなら、黒川検事長に反対していた検事総長をも辞めさせて新たに出直そうというのが政権中枢の考えだったのかも知れない。

 森本学園問題の時と同様、安倍首相は利用出來る時はさんざん利用して、もうダメだと思ったら情け容赦もなく切り捨てて、自分の保身に走る人なのであろう。

 以上は全て私の推測にすぎず、当たっているかどうかわからないが、検事長の賭けマージャンの新聞記事を見てまず頭に浮かんだ疑問であり、SNSを見ていると、同じようなことを書いている人もいたので、私だけの邪推とも言えないようである。

久しぶりの箕面の滝

 80歳を超えて毎日仕事に出掛けなくなってから、毎月必ず一回は箕面の滝まで行くことにして来た。私は箕面小学校の卒業生でもあり、箕面の山は懐かしい故郷のような所なのである。

 朝一番の阪急箕面線に乗って行き、箕面駅を5時10分位に出発し、滝まで往復して、箕面6時14分発の電車で帰り、池田の駅から走るようにして家まで帰り、7時25分から始まる10分間のラジオ体操の途中に間に合うのが定刻であった。

 90歳を超えると、流石にそんなスピードで歩くのは困難となり、途中の休憩所で一休みして行くようになった。それに、一昨年と、その前だったかは、二年連続の台風の被害で、長らく滝道が閉鎖され、滝まで行けない時期や、回り道しか行けないことなどもあった。

 それでも行ける時には、欠かさず「月参り」「滝詣で」だなどと言って、月に一度は必ず滝まで行っていたし、秋には紅葉観賞に、もう一度ぐらいは余分にも行っていた。

 ところが、昨年10月の末ぐらいから、比較的急に脊椎管狭窄症になり、休み休みでしか歩けなくなり、滝行きが難しくなってきた。それでも、正月には娘が来たので、3人で途中で休みを入れながら、何とか滝まで行ったし、2月には途中まで行った所で、そこから先は工事で通行止めになっていたので、引き返して来たのだった。

 ただ、その後は今の新型コロナ(Covid19)の流行で外出自粛となったので、それと歩行の問題が重なって、3月、4月はとうとう何年振りかで、滝行きが途絶えてしまっていた。

 しかし、5月になって、足の調子もいくらか良くなってきた感じがするし、21日にはコロナの特別措置法の外出制限も解除されたので、気候も絶好だし、ここで何とか滝行きを復活させたいものだと思い、5月23日早速出かけた。

 特別 措置法が解除された最初の土曜日だったこともあり、思いの他の人出であった。長い間家に閉じ込められていて、気候も良くなったので、誰しも広々とした緑の景色の中で、胸一杯綺麗な空気を吸って、ストレス解消しようと思ったのではなかろうか。

 箕面の駅から滝までの登り道はシルバーカーを押しながら行き、帰りの下り道はノルディックのダブル・スティクスで往復したが、片道2.8キロの滝道を、いずれも途中一回休んだだけで済み、久しぶりの箕面を楽しめただけでなく、歩行にも大分自信がついた。

 この日の滝は水量も多く、勢いよく落ちる白い滝と、それにかかる紅葉の葉の緑が美しく輝いていた。昨年暮れあたりから作業していた一の橋の袂の橋本亭も完成していたし、台風の爪跡もかなり緑で覆われて、渓流に沿った春の楓の緑が美しく、河鹿の鳴くのさえ聞かれた。ただ、行き交う人達が皆マスクをしている姿だけが、これまでに見たことのない異様な景色であった。

 コロナの流行もこのままでは済みそうもないし、マスク姿の人々も当分続くであろうが、久し振りの箕面の滝行きはやはり気持ちが良かった。今後も出来るだけ月一の「滝詣で」は続けたいものである。

 

 

 

 

世界が崩壊した時

 1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。

 私は17歳であった。戦争が終わり、唐突に世界が変わり、有形無形を問わず、周りを含めて私の全てのものが失われて、呆然とする中で、人々が踵を返すように急に方向を変えて歩き始め、余りにも急なことで、ついて行けず、待ってくれとも言えず、どうしたら良いかも分からず、ただ呆然と立ち尽くしているよりなかった体験は今でも痕跡を引っ張っている。

 それまでの世界では、豊葦原の千五百穂秋の瑞穂の国という神ながらの国に生まれ、現人神の大元帥でもある天皇陛下の臣下として、君に忠、親に孝の教育勅語を守り、この神国に生まれた幸せに感謝して、天皇陛下の御為には、一致団結、挙国一致して一命を投げ打ってでも、ご恩に報いねばならないというのが、”正当な”国民の良識とされて来た。

 生まれた時からそれまで、当時の普通の国民として育てられたので、この”正当な”良識を小学校の時からずっと教えられて来た。他の世界の経験が全くないので、忠実な生徒として、言われるままに疑いもなく、全てを信じて成長して来た。まだ物事を批判的に見るには幼な過ぎた。こうして、ようやく青年期に達しようとした時に、突然その世界がなくなってしまったのであった。

 人によって成長の遅速はあるが、十代の後半は批判的なものの見方が発達する時期である。私は少し奥手だったのかも知れない。また、もう少し年長であれば、大正デモクラシーの痕跡ぐらいは知っていたであろう。私にとっては公式に言われることが全てで、当時の表層的な政府指導の時代の流れに完全に乗せられていたのであろう。皆で一緒に旗を振って、時に流れの後ろにぶら下がって付いて行っていたようなものであったのだろう。こっそり反対のことを教えてくれる人は誰もいなかった。

 突然の時代の急変は恐ろしいものである。私からすれば、すべてのものが突然自分を裏切って自分の全てを否定するのである。正は悪となり、悪が正となったのである。そういう時の人々の動きを見ると、これほど興味深いものもない。敗戦直後には、大勢の国民が自暴自失している中で、宮城前に集まって涙を流し天皇に謝っている人もいたし、自決した者もいる。そうかと思えば、急に隠匿物質の横流しをしたり、闇市での一儲けに動き出した人もいる。

 昨日まで鬼畜米英、撃ちてし止まん、神州不滅、天佑神助、神風が吹く、天皇陛下万歳などと声高に行っていた人たちが急に押し黙り、どこかへ姿を消してしまった。それまでの独裁的な軍国主義から急に民主主義に鞍替えした人や、神に頼ってキリスト教徒になった人もいた。じっと秘匿していた元々の信念を表出した人もいたが、時代の変化に合わせて自己を急変させた人もいた。時代の変化にうまく乗れた人、乗れなかった人の違いも大きかったが、時はそんな人々の思惑とは関係なく非情に進んでいった。

 戦争の終わった晩秋に、何かの用で母校を訪ねたことがあった。教師たちが職員室でストーブを囲んで談笑していたが、一人の教師が言った。「儂なんか修身て教えたが、あんなこと今やっていたら生きていかれへんわ」と。横にいた皇国史観を教えていた真面目な歴史の教師が沈黙の中で、みすぼらしく、見るだけでも哀れであったのが印象的であった。

 また何かの機会に、キリスト教会の牧師と言い合ったことがあった。「先ず神を信ぜよと言うが、たった今裏切られて神を失ったばかりの人間に、なぜ神を信じられるのか」と反発したのだったが、「先ずはこれを読みなさい」と言って聖書を渡してくれた。家に帰って、ひっくり返って読み出したが、最初のページからアブラハムの子の何とかがどうだとか名前ばかりが続き、「こんな阿保らしいもの読めるか」と投げ出し、以来無神論者になった。

 こうして神も仏も失って、自暴自棄になっていた頃、思ったのは、人類の運命、地球の運命、宇宙の運命であった。自分がどう生きようが死のうが、この国がどうなろうと、人類がこの地球に現れてからせいぜい何万年、いろいろな歴史があっても、地球の歴史から見れば短いもの。ましてや宇宙の歴史から見れば取るに足らない時間に過ぎない。そんな時空の中で、地球の存在に限りがあれば、それに乗った人類も必ずいつかわ滅びる運命にある。

 そんな中で国や人々の争いなど、どうなろうと小さな問題に過ぎない。ましてや個人がどう生きようと、国がどうなろうと、無限の宇宙の時空にあっては問題にもならない。何も先の見えないこの世の中で、果たして生きている価値があるのだろうかなどと、ニヒルな思いに頭が一杯になっていたことがあった。

 そんな中で、あまり意味のないちっぽけな人々が、自分の欲だけでどうしてあんなに動けるのであろうか、何も信じるものもなく、何故そんなにあくせくするんだ。人は皆必ず死ぬのだ。こんな世の中で生きている意味があるだろうかと自殺を考えたこともあった。英単語のカードを作って一所懸命に勉強する友もいたが、どうしてこの時代にそんな勉強が出来るのか不思議に感じたこともあった。勉強しても意味がない。生きていても意味がない。

 そんな状態では、当然勉強など出来るわけがない。授業には殆ど出ず、友達に議論をぶつけたりしながら、悪友たちと組み、タバコを吸い、どぶろくを飲み、闇市を放浪して毎日を送っていたようなものであった。

 当時同じ年頃で自殺するものも結構いた。私もその近くにいた。ただその頃私を救ってくれたのは、いささかの好奇心が残っていたからではなかろうか。自殺が心に持ち上がって来た時も、自殺しかけて途中で「待てよ。もう少し周りの様子を見てからにすればが良かったのではないか、ひょっとしたら違った景色が観れるのかも」と後悔するかも知れないというような気がして思い留まったのであった。

 こういう時代には国がないに等しいのだから、誰も人々を守ってくれないし、助けてくれない。今で言えば、全て「自己責任」でそれぞれに工夫して、勝手に生きていくよりなかった。政府は天皇をはじめとするその中枢だけをなんとか守ろうとして、それ以外はもう頭から斬って捨てても良い覚悟だったのではなかろうか。

 戦後の闇市傷痍軍人や浮浪児、売春婦に暴力団などの運命に思いを致す。これらの人たちはその後どうなったのであろうか。戦後も多くの人たちが飢餓や伝染病、暴力などによって命を失い、多くの人たちが恥辱にまみれながら生きてきたことを忘れるわけにはいかない。

 

 

最後の決戦とは

 今は昔、戦争中の話、それも既に敗戦の色濃く、大日本帝国がもはや最期まで追い詰められてきていた頃の思い出である。

 教育とは恐ろしいものである。何も知らない白紙の子供にとっては、どんなことでも教育されれば、まるで乾いた砂に水が滲み渡るように入っていく。それが全てなので、他のことは全く知らない。

 そんな状態の16歳の子供は、教えられるままに、豊原葦の千穂秋の瑞穂の国は万世一系天皇が治める神国を信じていた。その大日本帝国の掲げる大東亜共栄圏や八紘一宇の理想を妨げる米英両国に対する聖戦には、恐れ多くも天皇陛下の御為には醜の御盾となって、一命を投げ打ってでも戦わねばならないと真剣に考えていたのだから、今から思えば笑止に耐えないことであった。

 旧制度の中学校の4年生の夏、クラスでも一番小さな子たちのグループである第4班で、運動神経も鈍く、ひ弱で、およそ軍人向きとは言えない私が、親にも内緒で、海軍兵学校の入学試験を受けたら合格してしまった。

 後からそれを知った親はどう思ったか知らないが、時代は反対出来るような世相ではなかった。「お前が海軍に行くようになったら日本もお終いだな」と漏らしたのが、当時としては許容される限界の言葉であったのであろう。学校も急迫しつつあった戦況下で勉強どころではなく、春から勤労動員でアルミ工場へ行って飛行機の燃料タンクの仕事の手伝いをしていた。

 そのうちに年が変わり昭和20年となると、3月の大空襲で東京、名古屋、大阪、神戸と一晩おきぐらいに、大都市は次々と皆焼け野が原になって行き、学校も我々の学年だけが4年で卒業ということのなったが、卒業式も出来なかった。

 そして4月初めには江田島へ行って海軍兵学校へ入校した。早速、制服などの支給があったが、夏の制服は本来の白は目立つというので、カーキー色に染められており、シンボルの短剣は輸送の途中で空襲で焼けてしまったそうで、配られなかった。

 入学後しばらくは、それでも正規の授業があったが、次第に戦況が悪くなり、分隊ごとに生活を共のする生徒館を間引きして半分にし、ベッドを二段ベッドに改造し、やがては兵学校ごと山に横穴を掘って地下壕に移そうとしていたらしく、壕へ入って、鑿で爆破用の穴を掘る作業などをしたこともある。

 カッターの訓練や棒倒し、水泳訓練などは出来たが、乗艦実習は空襲や機雷を恐れて瀬戸内海で夜間に1日ぐらい行っただけ。あとは海軍なのに、陸戦の訓練、第4匍匐や爆雷を以って敵の戦車のキャタピラに突っ込む訓練などもした。そのうちに校内で腸チフスが発生して、若い医官が大勢やって来て、検便や隔離その他の騒動もあった。

 ラジオのニュースなどは、相変わらず大本営発表で、どこそこで敵の戦艦や航空母艦などを轟沈や撃沈などと繰り返していたが、戦況はどう見てもわが方に不利、やがて沖縄の地上戦も終わり、「沖縄では皆は最後までよく戦った。将来沖縄の人々には特別のご配慮を」という電文が最後になった。

 どう考えても日本は不利である。ラジオが言うようにアメリカの軍艦をいくら撃沈しても、アメリカの軍艦は次々と出てくる。太平洋の島から日本軍が転進したと思ったら、すぐ後からもうアメリカの飛行機が飛び立ってくる。呉の沖で艤装中の天城という航空母艦があったが、アメリカの飛行機が「松の木が枯れて航空母艦が姿を現した」とビラを撒いていったこともあった。

 その頃からラジオなどでは「最後の決戦、最後の決戦」と繰り返すようになった。それと同時に神州不滅、天佑神助、神風が吹くなどという。「変なことをいうな。最後の決戦なら日本軍がアメリカに攻め込んでからのことではないか」と思わずにはおれなかった。

 日本国中焼け野が原だし、軍艦は皆島影に隠れて殆ど動かない。本土決戦に備えてと言っていたが、実際は重油がないから動けなかったのであろう。そして、7月末には呉の大空襲があり、真珠湾攻撃どころではない、壕へ避難していて出て来て見れば、江田島の湾内にいた連合艦隊の旗艦になっていた重巡の大淀も巡洋艦利根もともに沈んでいたし、あちこちの島影に隠れていた軍艦も殆どが沈んでしまっていた。皆浅瀬に係留されていたので、沈んで水を被っていても、艦橋や煙突、マストなど、上部はそのまま無様な姿を現していた。

 もうこうなると、誰が見ても、どう見ても勝てるとは思えない、しかし神州不滅の日本が負けることは考えられない。大人だったら、心の中では負けると分かって最後の決戦といったのであろうが、私には負けるという言葉がなかったのである。誰も面と向かっては負けるとは言えない環境であった。勝つとは考えられないし、そうかと言って負けるとは考えられないジレンマ。結論は「どうにかなるだろう」ということしかなかったことを今でも覚えている。

 そして8月6日がやって来た。雲ひとつない気持ちの良い朝であった。朝の自習時間で皆静かに本を読んでいた。突然ピカッという閃光が走ったような気がしたと思ったら、次いでガタッと地面が揺れたような感じとともに、ドンという地響きのするような音がした。空襲かな。一寸違うようだし、何だろうと思って、皆が教室から飛び出して遠くを見ると、原子爆弾による原子雲がむくむくと上がっていくところであった。

 初めは新型爆弾で、日本軍が台湾で使ったので、その報復だなどとの説明があったが、やがて原子爆弾だということが判り、今度空襲があればこれを被って逃げろと、目の部分だけをくり抜いた白い布の袋を配られた。閃光による被害を防ごうとしたものであったようである。

 こうして、どんどん追い詰められて、とうとう負けるという言葉を聞いたのは天皇玉音放送を聞いてからであった。校長が「我々の時代には大きな間違いをしてしまった。どうか君たちの世代で何とかそれを取り戻して欲しい」というような話をされた。それでも元気の良い上級生の中には日本刀を抜いって「帝国海軍はまだ戦う、貴様たちは故郷に帰っても、最寄りの特攻基地へ行け」と檄を飛ばす者もいて、私も半ば同調していた。

 こうして兵学校も解散となり、それぞれ出身地へ帰ることになったが、これでやれやれ大阪へ帰れるといった気持ちとともに、それまでの支えがなくなってしまい、ただ呆然とするばかりであった。途中で宇品から広島駅まで原爆の被災地を歩いた時の経験も忘れられない。惨めな惨めな敗戦の記憶であった。私の中ですべてのものが失われていくのを感じた。

 戦後も長い間、天高く伸びていく入道雲を見ると広島の原子雲を思い出し、花火大会の中へ行くと3月14日の大阪大空襲の空中から降ってくる焼夷弾を思い出したものである。

 

 

 

 

 

コロナ時代の河川敷公園

 我が家の近くには猪名川という一級河川が流れている。丁度、山地から平野に流れ出たあたりになり、あと平地を大阪湾に流れて行く途中といった所で、両側を広い堤防で囲まれた中をそこそこ蛇行しているので、堤防の中にもかなり広い河川敷があるので、そこを利用して何面もの野球場やサッカー場、それに児童公園などが作られている。

 川の西側はもう兵庫県であり、伊丹空港から伸びた高速道路が東側から川を斜めに横ぎり、西側を川に沿って北上し、北には美しい高速道路の吊り橋状の塔が高く聳えている。川を横切って阪急電車の鉄橋が架かっており、川の西側にはJRの宝塚線が走っている。阪急電車の鉄橋の北側には呉服橋、中橋、絹延橋、南側には中国道の橋や軍行橋といった橋がある。

 少し南方よりの東側に伊丹空港があり、そこから飛び立つ飛行機が次々と上昇し、やがて旋回して伊丹の昆陽池あたりで雲間に隠れていくのが眺められる。川には所々に小さなダムがあり、それぞれに違った景色を作っている。流れに沿って、あちこちに自然に育った木々があったり、季節によって色々な野の花も咲いている。場所によっては植えられた桜並木が続く所もある。

 川には鳥たちも多くいて、烏や鳩、雀ばかりでなく、最近は椋鳥が多く、その間を鶺鴒が飛び、鶲もひょっこり顔を見せる。また流れの中には季節によっても違うが、鴨の群れが泳ぎ、白鷺が飛んで行くと思えば、青鷺がじっといつまでも獲物を待っている。たまに黒い鵜の群れがやって来たこともあった。鳩の餌をやる人を時々見かけるが、先日は空を舞う鳶に餌をやるためにじっとベンチの前に立っている人を見かけた。

 河川敷の野球場やサッカー場も大いに利用されているようで、週末には10面近くあるのに全て利用されている盛況である。また今年はどうなるかわからないが、これまでは、毎年夏にはこの河川敷で花火大会や野外の音楽ライブも行われ大勢の人で賑わっていた。

 そんなこんなで、もう今では開発し尽くされた都会の周辺には、他にこのような広いオープンな感じのする空間が少ないので、この河川敷は平素でも結構人を惹きつける魅力があるようで、近隣の人たちに色々利用されている。私たちにとっても、丁度手頃な散歩道にもなるので最近のように家にいることが多くなった生活の中では、始終利用することになっている。

 堤防の上まで上がればもう車も来ないし、景色は良いし、空気も気持ちが良い。気持ちの良い風に吹かれて、つい何処までも歩いてみたいような気になる。堤防の上は色々な人が利用している。近くの人が朝の散歩に歩いているし、犬を連れている人もいる。犬を河川敷の広場で走らせている人も見られる。私のようにシルバーカーを押して散歩している人もいる。堤防は一番はっきりとした一本道なので、ランニングしている人、サイクリングをしている人も多い。中には自転車通勤をしている人もいる。

 こうした景色は以前からずっと続いているが、最近は新型コロナの影響で多少変化がみられるようである。花火大会や音楽のライブは別としても、日頃利用されて来た野球場やサッカー場も閉鎖ということになっているのか、週末でも試合はなく空っぽのままである。勝手にやってきた人がキャッチボールをしたり、ノックをして打撃の練習をしたりしている。

 堤防の上の道では、ラニングする人やサイクリングの人が確かに増えているようである。散歩する人も時間により変わるが、以前は散歩していて出会う人は殆どが単独の老人か、老人のアベックで、若い人は殆ど見かけなかったが、最近はまだ現役世代の夫婦のアベックが増えたのが特徴的である。コロナで夫婦が一緒にいることが多くなったため、狭い家の中でずっと一緒にいるストレス解消のために出て来たのだろうか。中年世代のアベックが増えたことは良いことのようにも見えるが、コロナ離婚という言葉もあるぐらいなので、実際はどうなのであろうか。

 そういえばコロナの時代になってから、家族ずれで河原にやって来て、小さいテントを張って、中で食事をしているような風景もアチコチで見られるようになった。土手の斜面に寝転がって話をしているアベックもいる。学校が休みでエネルギーを持て余しているような高校生ぐらいの子達が4〜5人集まって走り回ったりしている姿もある。「三密を避ける」と知ってはいても、こんな若い子達に家でじっとしてろと言われても無理であろう。

  以前は河原の児童公園は幼稚園の園外活動で利用されていたが、その他にも、幼稚園か保育園の子供を乗せる自転車を何台か止めて、子供を遊ばせながら、親の懇親会か、一緒に弁当を広げて談笑しているような姿も見られたが、コロナの時代になって最近は見なくなった。最近は、明らかに子供の運動不足解消にお母さんが無理やり連れ出してきたような親子連れもある。

  いつも同じように見えても時代の変遷とともに、河原の人々の景色も少しずつ変わっているようである。一番よく分かるのは、河原で休んでいて、空港から飛行機の飛び立つのを眺めていると、今年の初め頃までは10分も間を空けずに次から次へと飛び立っていく飛行機が見られたが、最近はすっかり少なくなってしまったことである。

 今のコロナによる自粛ムードの状態がいつまで続くのかはっきりしないが、こんな静かな公園で見ていても、その影響がひしひしと感じられる。この先どのように変わっていくのであろうか。

新型コロナ時代の老医師

 新型コロナ(Covid19)のパンデミックで、今年の世界は大変なことになってしまっている。流行は世界中に広がっているが、日本でも全国的に広がり、未だ特別措置法で、Stay Home, Sosial Distancingを守り、三密を避けるように言われている。劇場や集会施設だけでなく、多くの商店も閉鎖されている。仕事もテレワークが多くなり、種々の会合や社会的な集まりも中止や延期に追いやられ、経済や社会生活への影響が心配されている。

 感染者の増加で医療崩壊も心配され、介護施設など身体的に寄り添うねばならないような所での感染なども深刻な問題とされている。 医療の現場では、感染防護の設備や器具の不足、病床のやりくり、重症病棟やその設備の整備、人員の確保、コロナ以外の他疾患の医療へのしわ寄せなど、病院や他の医療関係者は大変な混乱を強いられている。そんな中で諸外国では医学生や退職した医師の動員によって人員の不足を補ったりしているようである。

 私も92歳の老人ではあるが、まだ医師である。今は最早満足には歩けない老体であるが、頭はまだしっかりしていると思っている。当然、新型コロナのような病気が流行れば黙って見てはおれない。新聞やテレビの情報には目が行くし、最近はインターネットでいろいろな情報が嫌でも入ってくるので、時間があれば読んで参考にしたいと思ったりもしている。

 新しい感染症なので、このウイルスの特徴や病気の特徴、潜伏期、症状や経過、検査所見、合併症や危険因子、胸部のCT所見、治療法などいろいろな情報を学んだし、世界の感染状態、死亡率などもわかってきた。しかし、どうにも歯がゆく思ったのはPCR検査についてだった。初めから韓国並みに最大限すべきだと思っていたが、なぜか日本ではこの検査がなかなか広がらないのか不思議でならなかった。どうも政治的な思惑が絡んできたようで、政府の対応の余にもの遅さと不味さにイライラさせられて来た。

 医師不足の現状をもあることだし、何か手助け出来ることでもないかとも思うが、最早、現役を離れて長いので、医学知識も古いし、体も若い時のようには動けない。手伝いに行ったとしても、返って足手纏い、邪魔になるぐらいで、何の助けにもならないであろう。ドイツあたりでも、退職した医師に手伝って貰うのは良いが、医学知識は古いし、体力がないので、あまり助けにならないというような記事も出ていた。

 それならば、もうむしろ、邪魔になるようなことは考えないで、出来るだけ大人しく家にいて、少なくともこちらが感染してお世話になるようなことだけは避けなければと思うばかりである。

 この2月には、脊椎管狭窄症で、もう一度病院へ行こうかと思っていたところにコロナが流行りだして、病院は一番感染しやすい所だと思い、受診を中止したのだった。考えてみたら、それ以来電車に一度も載っていない。散髪へももう2ヶ月以上行っていない。このところ殆どずっと家に蟄居しているようなものである。

 ただ体も適当に動かしてやらねばならないと思い、毎朝ラジオ体操と自分なりのストレッチ運動をし、一日一回は、1時間ぐらい、マスクをつけて、人の少ない河原の散歩などをしている。帰れば必ず手洗いやうがいもしてるし、機会があれば知人にも手洗いなど予防法については説明したりもしている。

 そのような状態で、人に迷惑だけはかけないようにして、今は静かに流行が収まるのを待つのが最善の策であろうと思っている。ただ、しばらく友人や同僚を含め、誰にも会っていないので、いつか流行が収まって再開出来るようになり、この間のことなどを話し合える日が来るのを待ち遠しく思っている。

 

 

結婚62周年記念日

 この5月11日は我々の結婚62周年の記念日であった。いつの間にか、もうこんなに年月が経ってしまったのかと驚かされるが、もう上の娘が還暦を迎えるというから、こちらも歳をとったわけである。

 美人の嫁さんをもらったと羨ましがられ、幸福の絶頂であったのもつかの間、上の子が生まれ、やがてアメリカへ行ったり、帰って来て下の子が生まれ、千里のニュータウンに住んで、家族が揃い、すぐ近くで万博があったりで、明るい時代であった。

 しかし、やがて大学を離れ、病院勤めをしたり、四国へ行ったり忙しくバタバタしている間に、たちまち定年を迎へ、あとは産業医などをしていて、いつしかもうこの歳になってしまった。

 その間に娘たちもたちまち成人し、それぞれの道を歩んで、二人ともアメリカに行ってしまった。そのうちに孫が出来て、太平洋を行き来して、会いに行ったり、来たりしているのも束の間の感じ。孫たちも、いつしかもう成人になってしまった。光陰矢の如しとはよく言ったものである。歳をとる程に時の経過に加速度がつくようにさえ感じられる。

 この長い間、ずいぶん自分勝手な生き方をして来たが、女房がよく出来た人で、あまり文句も言わず、子供の世話から家事一切、周囲との付き合いまで、全て面倒を見てくれたので、何とか上手く生きてこれたようなものである。女房には頭が上がらない。旧式な日本人が残っているので、表面的には何も言わないが、陰ではいつも感謝しているのである。

 92歳になったとはいえ、まで元気だが、昨年秋から脊柱菅狭窄症が起こり、歩くのが少しばかり不自由になってからは、女房にとっては身障者扱い。今まで以上に世話を焼きたがる傾向が強くなってきたようである。今では女房がいてこそ生かして貰っているようなものとも言えよう。

 例年この記念日あたりは気候も良い。ゴールデンウイークという連休にも恵まれているので、毎年何処かへ旅行していたものであった。80代ぐらいまでは、外国旅行にもよく行ったが、最近はもっぱら国内となった。昨年は津軽半島から下北半島を回ってきたのが丁度ゴールデンウイークであった。

 しかし今年は新型コロナの影響で旅には出られず、天気の良い青空を眺めながら嘆くばかり。そういえば今年は3月2日の女房の誕生日に計画した由布院への旅行もキャンセルしなければならなかったのだった。

 そこで、結婚記念日にはせめてもと思い、朝早く少しばかりリッチな弁当を作って、五月山の植物園に行き、まだ誰もいないテラスで、緑の山を背景に色々な花を眺めながらゆっくりと朝食をとり、夕方にはワインで乾杯して、柔らかいステーキのご馳走ということにした。

 もう後何年生きられるか分からないが、二人揃って元気なうちは、残り少ない人生を楽しみながら過ごしたいものだと思っている。