世の流れに遅れると

 最近、LGBTや人種、障害者に対するる差別やセクハラ、パワハラ、学校でのいじめなどが問題になることが多くなり、メディアでも頻繁に取り上げられるようになってきた。

 一昔前には韓国人をはじめとする外国人に対する人種差別、偏見や蔑視、セクハラなどは当たり前の様な社会であったし、LGBTや障害者たちは疎外され、社会から無視されるのが当たり前と言っても良い有様であった。

 この国は男社会で、女は家系図にも名前さえ載らず、ただ女とのみ記載されていたし、女は内助の功などと言って、男の主人に仕えるもので、家事や下働きをすればよく、学問などは不要とされた。その上、男は妾を持ったり、廓通いをするのが甲斐性があるとされたりもしていた。

 学校や職場でも、上下関係がうるさく、上のものが下のものに体罰を加えるのは普通の行為で、それが教育だとさえ言われてきた。学生でも上級生が下級生をいじめても当然のことの様に判断されていたので、今でいうパワハラやいじめは悪いことだという意識さえ薄かった。

 しかし時代は変わるものである。男女同権も戦後の憲法で明記され、民主化が進み、女子の社会進出も進み、社会が変化するとともに徐々にではあるが、男女同権が実質的にも定着し始め、弱者の人権がも重んじられる様になってきた。

 ただ、法的に人権が重んじられ、男女同権となっても、社会の習性は急には変わらない。掟と習性の間にはどうしても乖離が生じるものである。男女同権といって、最近では乳児を抱いた父親も見ることも多くなったが、実質的に家庭で男女同権が守られているかというと必ずしもそうとも言えない。パワハラやいじめについてもそれらが良くないことだとわかっていても昔からの習慣は徐々にしか変わらない。

 この実態と法や社会の決まりとのギャップがひどくなった場合に、それが事件となって社会的な問題となるのである。以前なら職場の上司が部下の女性を手籠にしても問題にならなかったであろうし、上司や先生が部下や生徒に暴力を振るったとしてもありうることとして容認されるのが普通であった。スポーツ界では先輩や指導者が選手を殴るのは教育や指導とさえ捉えられていた。

 ところが民主の時代が進み、男女同権や人権思想が徹底されてくると。昔は当たり前のことであっても今や不当なことで罰せられるべきことになるのである。最近の多くのセクハラ、パワハラ、いじめなどの事例を見ていると、時代の変遷をつくづく感じさせられる。

 芸能界のジャニーズや松本人志のセクハラ問題、自衛隊での女性隊員へのセクハラ、宝塚歌劇団のいじめ、次々と問題が明るみに引っ張り出されてきているが、Me too運動があったことでもわかるように、まだまだ多くの事例が出てくるであろうし、隠れた事例もそれ以上に多いであろう。最近でも就職活動中などのセクハラを4人に1人が経験しているともいわれる。

 セクハラ、パワハラ以外でも、時代の変遷とともにこれまで隠されていた矛盾が破裂して、旧来の老弊の暴露、懲罰などの起こる現象は至る所で見られるものである。医者と製薬企業の関係などの産業界の取引においても、従来は長年の馴れ合いで、隠れた不当な接待、賄賂、取引などが慣習として続いてきた例も少なくないが、これらもある時点で事件として明るみに晒されることになり、罰せられ正常化されてきた様なことも多い。

 さらには、現在問題となっている自民党の政治家の裏金問題も、昔はそれが当然であっても、本来正当でないものは、時代の変遷とともにいつかは問題となり、社会的に排除、制裁を受け、抹殺されていくのが当然の道筋であろう。

 考えようによっては、この様な問題は人類社会の文明化、発展過程の欠かせない現象の一つとも言えるのかもしれない。そう捉えれば、人類の終末期などと言われている昨今であるが、それでも人類がまだまだ自分たちの社会に潜む欠点を正し、発展していくワンステップを示すものということも出来るかも知れない。