ストのない国

  作家の多和田葉子さんが2月16日の朝日新聞にベルリン通信としてベルリンのストライキの様子を書かれていた。

「町中を走るトラクターに驚いていると、今度は長距離列車のストが始まり、やっと列車が動き出したかと思うと、今度はバスや地下鉄ガストを行い、空港でもセキュリティで働く人たちのストが起こり、・・(中略)・・物価が上昇しているのだから給料も上げてもらわなければ生活できない、という声が聞こえてくる」と。

 ところが日本ではどうであろうか。もうこの国ではウクライナの戦争反対、ガザでジェノサイドを止めろとか、自民党の政治資金問題、戦争反対、憲法を守れ、賃上げ、その他、政治的なデモはあるが、働くものの組織的なでもはもう長い間ほとんど行われなくなってしまっている。

 戦後には日本でもストやデモなどは始終行われていたものである。占領軍に止められた全国的なゼネストもあったし、安保条約改定反対の大規模なデモで大群衆が国会に押し寄せ、死人まで出たことさえあった。

 また、三池炭鉱のストライキも有名であったし、国鉄や私鉄のストも年中行事の如く行われていた。阪急電車がストで電車が動かないので、川西まで歩いて川西池田から蒸気機関車の引っ張る汽車で大阪まで出た思い出もある。あらゆる産業分野でストは行われていたし、公務員や学校の先生、病院まで、ストライキがあるのが日常生活の一コマでさえあった。

 ところがいつ頃からでであろうか。ストの話など殆ど聞かなくなってしまった。過日のそごう・西武のストが61年ぶりの例外的なものとして報じられたぐらいで、それも「今回のストライキはイメージ低下になりかねない」「今回のストライキは利用者離れにつながりかねない」などと批判的な報道が目立った。まるでストライキが資本主義世界での社会的対話の一つであることを知らないかの様であった。

 そうかと言って、現状で、労使がそれほどまで矛盾を抱えていないわけではない。それどころか、国際的に見ても給料は上がらず、低賃金で値上げのないこの国で、政府までが賃上げの旗を振らねばならないほど、国民生活の逼迫が明らかなのである。

 それにもかかわらず、最近はストの話を全くと言ってよいほど聞かない。もうこの国はストのない国になってしまったのであろうか。ストはない方が良いのだろうか。この国の労働者は最早ストをするだけの活力も勇気も失ってしまったのであろうか。

 本来、ストは労働者が資本家との矛盾を解消するための主張の現れで、民主主義に不可欠な要素なのである。選挙だけが民主主義ではない。選挙では金の力が大きく働く。資本家と労働者の基本的な矛盾は選挙だけで解消される様なものではない。相互の矛盾の具体的な問題については、話し合いや、それで折り合いがつかない場合には、権力を持った資本者側に対して、労働者は団結してストライキに訴えて圧力をかけることによって、対等な主張を掲げられるものなのである。

 しかし、最近の社会における労働者の働き方の変化により、多数の人が共同で働く現場が減り、個人的な労働形態が増え、事務的労働が多くなり、労働者がバラバラにされ、競争を強いられて、協力出来る背景を奪われたことなどもあり、労働者がお互いに孤立化させられ、自由に意見や文句を言い、デモをして反対の意思表示をしたり、ストをして団体で話し合ったり、抗議したりすることが困難にされてきていることなどが問題である。

 社会に民主主義が成立するためには、民主的な選挙だけでは足りないのである。日頃の民主的な話し合い、それが困難な時にはデモやストによる直接的な意思表示が出来て、初めて民主主義は成立するものである。

 現に欧米諸国では今年になってからも、ドイツでも上記以外にも、医師の知遇改善のストライキも行われているし、フランスではストのよりユーロスターの運行が停止し、スペインのAmazonやイギリスの若手医師のスト行われてそうである。アメリカでもあちこちでストがあり参加者は50万人を超えたと言われている。

 それを思えば、このデモやストのない日本はもう民主主義を止めてしまったのであろうかと疑いたくなるこの頃である。個人の力は弱くても、誰でも団結して力を得て主張し、対等に話し合えるのが民主主義であることを思い出すべきではなかろうか。

 日本の若者よ頑張れ!と言いたくなる。