また8月がやってきた

 今日は7月31日。今年もまた8月がやってきた。以前にも8月は特別の月だということを書いたことがあるが、毎年同じことの繰り返しにしても、私にとっては、8月はやはり特別な月である。

 もともと子供の時から、8月は夏休みで学校を離れ、海水浴やお祭り、花火、旅行など多彩な行事が続く上にお盆があり、一年の中でも特別な月であったが、それらを超えて強烈な印象を作ってしまったのは「あの戦争」である。

 もう78年も昔のことになってしまったが、今もつい昨年のことのようにさえ思われる。私の九十五年の生涯を振り返ってみても、あの敗戦の衝撃は今も鮮明で、その前後で私の人生の歴史はプッツリと断絶しているようなものである。

 1945年、昭和20年の8月初めは、江田島海軍兵学校生徒だった。7月25日の呉の大空襲で帝国海軍の全滅を見たのに続いて、8月6日の広島の原爆を体験し、9日には長崎の原爆投下を知り、いよいよ”最後の決戦”、本土決戦で、神州不滅の国のため、天皇陛下のために命を捧げなければとの思いを強くしたのだった。

 それが15日のいわゆる玉音放送で裏切られたのは大きなショックであった。いきなり亡国の悲劇の中に放り込まれ、それまで生きてきた根拠を全て奪われ、茫漠とした行くえも分からぬままに、江田島から大阪に戻り、急激に変わった人々の行動についていけず、絶望から虚無の中に放り出された生活の始まりだったのである。

 敗戦を境に私の人生ははっきりとその前後で別れてしまった。天佑神助もなく日本は敗れ、神も仏も消失してしまった。私には最早、何者も信じられなくなった。死んで靖国神社へという虚構が許せなくなった。8月はもともとお盆があり、先祖の供養が行われてきたのだが、敗戰で神や仏に裏切られた私には、墓場に並んだ戦死した兵たちの墓標に哀れを感じさせられたことも忘れられない。

 また、戦後間もなく母と食糧の買い出しに行った時のこと。8月14日、敗戦の前日に大阪砲兵工廠の大爆撃で一人娘を失った母親の「戦争がもう1日早く終わっていたら」と涙した声がいまだに耳に残っている。

 それから続いた何年かの戦後の惨めな混乱期。闇市や、それに群がるヤクザや暴力団、ドンゴロスの袋を担いだ買い出人、特攻帰りに、松葉杖の傷痍軍人戦災孤児、浮浪者、靴磨き、売春婦、アメリカ兵に群がり「ギブミーチョコレートとねだる子供たち、浮浪者狩り、栄養失調に餓死者等など。あの惨めな光景が敗戦と結びついて、8月になると未だに蘇ってくる。

 戦後の時代が落ち着いてきてからは、甲子園の高校野球や花火大会、夏祭りやお盆、地蔵盆なども8月を彩る行事が復活してきたが、花火を見ると空襲の夜が思い出されて花火を見れない年月が続き、夏空にムクムク立ち上がる入道雲が広島の原子雲を思い出させたことが何年続いたことであろうか。

 8月も後半頃になると、毎年のように戦後の虚脱状態や虚無感が思い出され、その頃になると、法師蝉が決まって鳴き出し「もう夏も終わるぞ、しっかりせよ」と急き立て、夜にはそろそろ虫の声が聞こえ始める。海辺に出ると、もう土用波が高く打ち上げ、海水浴客の絶えた広い砂浜に犬が一匹遠吠えしているような風景に、寂寥を感じるようになって、8月も終わることになっていた。

 こうして毎年毎年同じような事が繰り返されてきたが、やはり、78年前の敗戦のショックは、今も昨年のことのように思い出され、もう死ぬまで消えることはないであろう。

 やはり私にとっては8月は今も特別な月なのである。