三島由紀夫死して50年

 三島由紀夫楯の会を作り、市ヶ谷の自衛隊基地に乱入し、東部方面総監を人質にして立てこもり、自衛官を集めて演説をし、決起を促したが受け容れられず、自殺した事件から、早くも50年が経つ。有名な作家であっただけに、この事件は衝撃的であり今も忘れられない。

 この50年を記念して、テレビで、三島の言説などの録画が流されていたのを偶然見たが、中に敗戦のショックを受けた後、全てが崩壊したのに、山河がそのまま残っているのが不思議な感じがしたというようなことを言っていたのを聞いて、私の当時を振り返させられた。

 私もどこかに書いたが、戦後、兵学校から帰って、疎開先の河内長野で周囲の景色を眺めた時に、国が滅び、私にとって全てが失われてしまったのに、山野はそのまま残っているのを見て、中国の古人が「国破れて山河あり」と言ったのは、こういう事だったのかとつくづく思ったものであった。

 また戦後に、あまりにも急激に変化した人々の行動を見て、三島は嫌悪感を感じたと言っていたが、私も「鬼畜米英」「天佑神助」「天皇陛下の御為に」「最後の一兵まで」が一夜にして戦後の混乱、民主主義、利己主義などへと変わった戦後の人々の変貌ぶりに心底腹が立っていたものだった。

 三島は私より3年上だから、敗戦の時はちょど二十歳だった筈である。従って、私より強く戦前の天皇制の大日本帝国に絡め取られていたのであろう。従って戦後のニヒリズムを彼も私以上に感じていたことであろう。

 ただ私が死のどん底まで落とされても、何とか立ち直れたのは、それまで他の世界を全く知らなかったために、戦後に現れた民主主義や社会主義共産主義などが新鮮で、素直に受け入れられていったからであろうか。3歳年上の私と違って、戦前の世界を多少とも知っていて、判断力もあった三島は、敗戦の絶望をもう少し客観的に見ていたのではなかろうか。

 そこから人々のあまりにも軽薄な急激な行動の変化に対する嫌悪感は、私以上に強かったのかも知れない。それが大日本帝国天皇制社会へのノスタルディアを引き起こしたのではなかろうか。しかしそのベースはニヒリズムで、初めから45歳ぐらいで死のうと考えていたのではなかろうか。

 あとは、それをどう自分なりに納得のいくように色付けをすることにあったような気がする。ボディビルをして体を鍛えたり、楯の会を組織したりしたのも、全てニヒリズムの果ての死への前奏曲であったような気がする。私も戦後のニヒリズムに陥っていた頃は、42歳まで生きていたら十分だと思っていたものである。

 以上は私の単なる印象であり、私は三島について考えたことはなかったし、小説も金閣寺と塩騒ぐらいしか知らない。世間に知られた彼の行動も右翼的で、私の関心外だったので、彼について深く考えたこともない。むしろ意識的に避けていた方である。

 三島由紀夫については、多くの人が随分沢山の事を書き、また話しているので、そちらの方を見て戴きたいが、ここでは、たまたま三島の喋っていた断片を聞いて、戦後の反応が似ていたことを感じたので記しておこうと思っただけである。