8月15日は敗戦の日

 1945年8月15日は雲ひとつない暑い夏の日だった。

 もうその頃は、日本国中が空襲によって殆ど灰燼に帰し、国民の食料もままならず、当時私は海軍兵学校の生徒であったが、帝国海軍の軍艦はほとんど全滅し、日本の空の制空権も奪われ、本土決戦を覚悟しなければならないところまで追い詰められ、その上広島長崎の原爆投下、ソ連の参戦で、もはや不滅の神州も風前の灯であった。

 正午に天皇玉音放送があると言うので、教官も生徒も、全員が校庭に整列して、例の放送を聴いた。当時は今と違い、レコードに録音したものの放送であったので、雑音が多くてはっきりとは聴き取りにくかったが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」などの文言からも敗戦の詔書であることははっきりした。

 すぐ後で、校長が訓示した。その中で「我々はとんでもない過ちを犯してしまった。申し訳もない。今は陛下のご聖断に従うよりない。しかし、遠い将来、どうか若い諸君の時代にはこの屈辱を何とか取り戻して欲しい」と言うような内容のことを話した。

 その場は平静にそのまま終わったが、血気盛んな青春の生徒ばかりである。それも心からの決死の覚悟で国のため、天皇のために、自ずから命を投げ出して戦おうとしてきた若者たちである。内心穏やかであった者はいなかったのではなかろうか。

 天皇の命令には絶対服従、上官の命令は朕の命令と心得た生徒たちは少なくとも表面的には変わりなく、玉音放送の後も、それまでと変わりない生活を続けたが、毎日の決まったスケジュールが終わり、全員が就寝前の自由な時間になると、1号生徒の中から、止むに止まれぬ声も出てきた。「帝国海軍はあくまでも戦う。貴様たちは故郷へ帰っても、最寄りの特攻基地へ行け」と日本刀を抜いて檄を飛ばす者も出てきた。

 それでも流石に帝国海軍のエリートたちである。生活が乱れることもなく、構内の秩序のいささかも乱れも起こらなかった。こうして、8月の25〜26日頃に、兵学校の解散と共に生徒たちはカッターに分乗し、ランチに曳航されて広島の宇品まで行き、そこから徒歩で広島駅まで歩き、無害貨車に乗って夜汽車で各地へ運ばれた。呉の空襲や広島の原爆も見てきた後である。これまでの完全な負け戦を感じていた。

 広島ではまだ生々しい原爆の惨状を見、無蓋貨車で真っ黒になって大阪に着いてからは、我が家がどうなっているのか心配して家路を急いだ。家族は疎開して南河内の田舎の家の離れの蚤屋敷と言われたところで難を避けていたが、全員無事で安堵したのであった。

 江田島でだったのか、帰ってからであったのか、思い出せないが、敗戦の日の状況なども次第にわかってきた。宮城(皇居)前の広場で跪いて天皇に謝る大勢の人達がいたことや、そこで割腹自殺した人もいたそうである。それまで神国を信じ、天皇のために死のうと思っていた人にとっては、もはや行き場がなかった。

 しかし、表面的には合わせていたが、客観的にものを見ていた多くの大人達は次第に自由になり、それぞれに保身を考えて動き出していた。占領軍がやってきたら男は殺され、女は犯されるなどと、日本軍の中国における残虐行為からの類推の噂話も広がっていたが、アメリカ軍が日本に上陸、全国にアメリカ軍がジープで占領していく過程は思いのほか静かに進んだ。もう武器もない普通の日本人には戦う意志も手立てもなかったからであろう。

 私は世の中の急変について行けず、生きる目的を無くしてしまい、しばらくは、ただ茫然として日を送るよりなかった。私の内面でそれまでの世界が全て雪崩を打つ如くに崩壊していくのを、ただあれよあれよと見ているしかなかった。

 昨日まで国の論調に合わせて、鬼畜米英、撃ちてし止まん、神州不滅、神風が吹く、最後の決戦、本土決戦、天皇陛下のためには命を投げ出しても・・・などと叫んでいた人が、急に黙って、何も言わなくなったり、買い出しや闇市に精を出したりするのを見て、無性に腹が立ったものであった。

 こうしているうちに8月が終わり、9月になって戦艦ミゾリー号上での降伏文書の署名で日本の降伏は確定し、戦後のアメリカの占領軍がやってきて、占領の時代となって行ったわけである。

 日本人よりはるかに大きなアメリカ兵達が、皆、日本にはなかったジープに乗って、あちこち接収して行くのを見て、体格から見ても貧弱で、装備もはるかに遅れたいた日本が「あんな相手とよくも戦ったものだ。あれでは勝てるはずがなかった」とつくづく思わされたものであった。