スマホ時代の風景

 もうこの頃はどこへ行ってもスマホを持った人ばかりである。昔は電車に乗ったら新聞や週刊誌を読んでいる人が多かったが、最近は電車の中で新聞や本を読んでいる人は滅多に見かけなくなってしまった。

 その代わりがスマホである。電車の中では、座っている人も立っている人も、殆どの人がスマホを見ている。電車の中だけではない。ホームで電車を待つ人も、通りを歩く人も、自転車で走る人までが皆スマホを見ている。どこかの商店に入っても、何処でもと言って良いぐらい、スマホ片手にお金を払っている。もうどこへ行ってもスマホを持つ人ばかりと言っても良いぐらいである。赤ん坊までがスマホの動画であやされている始末。今や、もうスマホなしでは暮らせないかのようである。

 仲間たちの情報交換にとどまらず、天気予報からその日の予定、備忘録、電車やバスの時刻、目的地への道順、行き先の情報取得、家への伝言、買い物の予約や支払い、昼食の店の検索、食べ物の選択から会計まで、会合の場所や時刻、内容の打ち合わせから変更、土産の検索や店の所在、旅行や催し物のプラン、予約、切符の購入、音楽や集会その他、何から何まで全てのことがスマホを通してなされることになる。

 もうスマホなしでは一日も暮らしていけない感じさえする。95歳になった私でさえ、スマホのお世話にならない日はない。毎日のメールやインスタグラム、Twitterなどはパソコンで見るが、天気の具合から、時計の代わりの時刻、毎朝の座禅の時間の管理、その日のニュース、歩いた歩数、医師会や医療界の動向や連絡、娘などとの連絡、孫たちの動静、買い物の予定、検索、等等、色々とお世話にならない日はない。

 しかし、歳をとると目も悪くなるし、手指の動きももたつく。間違いながらボトボトと叩くキー操作だけでも時間を取られ、スマホもパソコンも操作に時間がかかる。次から次へと送られてくるメールを見て処理していくだけでも、たちまち1時間や2時間はあっという間に経ってしまう。

 何だかパソコンの操作に貴重な時間を取られているような気がして不満だったが、アメリカから久しぶりに来た孫が、スマホを操作しているのを見て、その速さにびっくりさせられた。孫は長いネイルをつけているのだが、ネイルで叩いているのか指先で叩いているのか見ていてもわからないぐらいに早いスピードで文字を打ち込み、画面をさっさと変えるではないか。スマホを使いこなすにはあれぐらいの速さがないと、フルに使いこなすのは無理なのだなと思わざるを得なかった。

 この頃は日常の殆ど全ての情報がスマホを通じて得られるので、スマホの情報に多くの人が左右されているように思われる。先日奈良からやってきた知人が池田で食事をする候補地として、池田の街から少し離れった所のレストランをあげるので、そんな所をどうして知っているのかと思っていたら、外国から来た別の知人もその店をあげたので驚いた。どうもGoogleの池田のレストラン案内にその店が上位に乗っているのがその原因のようであった。

 そういえば、池田の駅の近くでも、外観は別に変わりもしないのに、ある一軒のラーメン屋にだけいつも人が並んでいる。梅田でも同じビルの中に多くの店が並んでいるのに、ある店だけが行列が出来て賑わっているのに、同じような隣の店には殆ど人が入っていないようなことを時々見かけるのも、Googleか何かに店の広告によるものなのであろうか。

 興味深かったのは、アメリカから来た孫が、大阪の南で、ラーメンの上にソフトクリームが載っているという変わったものを食べて来て、写真まで撮っていたので、どうしたのか聞いてみると、日本に来る前に、アメリカで大阪にこんな変わった店があることをスマホで知ったので、大阪へ来た時にわざわざ探して、それを食べに行って来たのだそうである。

 この3年間コロナのおかげで、私は殆ど、大阪へ行っていないので、大阪に住んでいる私より、スマホの情報に詳しいアメリカの孫の方が、私より大阪の観光地や食堂の事情に詳しいのかも知れない。

 ちっぽけなスマホ一つで、我々が長い間に人伝てで得た情報や、時間と経験の上で身につけてきた情報よりも、多くて便利な情報が得られる時代のようである。