ブルシットジョブ

 昔の日本の生活を支えた稲作は村中総出で、お互いに助け合って田植えをし、刈り取りをして、やっと成り立つ重労働であったが、最近は田植え機やコンバインなどの機械化が進み、稲作は兼業で平日は他で働き、週末だけの農業で成り立たせている人も多いようである。

 他の分野でも資本主義的大量生産、大量消費によって、今や人々は物質的には豊かになり、有り余るほどの物に囲まれて暮らしている。昔なら百人が一日を費やして作られた物も、今では一日に一人で作られてしまう。こう効率が良くなると、残りの九十九人はどうしているのかという疑問が湧く。

 勿論、新たなものが発明され、新たな需要や労働が生まれ、それだけ世の中も豊かになり、それに伴った仕事も生じるので、皆が遊んで暮らせるわけではないが、効率化も止まることを知らないので、人々は昔よりも働かなくとも生活出来るようになっているはずである。

 資本を集め、人を雇い、経済が拡大すれば、社会全体が豊かになるということから、大恐慌のさなかの1930年、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは「孫の世代の経済的可能性」という講演の中で、「100年後には1日に3時間も働けば生活に必要なものは得ることができるようになるだろう」と予言した。

 しかし、実際にそれからおよそ100年経った現在はどうだろう。今でも、長時間労働や過労死が問題になる程、人々は働き過ぎなければならない現実が問題になっているではないか。人々が好んで長時間働いているわけではない。長時間働いても、なお生活が苦しいのが問題となっているのである。

 何かがが狂っているとしか考えられないではないか。3時間働けば回る社会にいながら、命を削ってまで長時間労働をしなければならないのは何故であろううか。そこにこそ資本主義社会の矛盾が現れているのである。

 勿論、資本主義社会は、自転車操業の競争社会なので、新しいものを次々と開発し、新しい儲け口を作り出さねば維持出来ないので、常に新たな働き口も作られるが、効率も良くなるし、大量生産で余った剰余人間を満たすほどの仕事の需要を作ることはなかなか難しい。

 最近のAIやロボットによる代替が進み、2030年には最大8億人の仕事がなくなるというケインズの予測もある。そんなところから、私たちが社会を営んでいくために必要な仕事=エッセンシャルワークはすでに一日3時間も働けば十分にまかなうことが出来るはずである。
 従って、資本主義的な無駄な競争による資源浪費の仕事をやめれば、人類は十分ゆとりのある労働をすることが出来、残りの時間を、休養の他にも、アートやスポーツ、相互援助その他の社会サービスなど、趣味と実益を兼ねたゆとりのある生活に充てられ、社会の発展や人々の幸福にも役立つことであろうが、現実との乖離は大きい。
 更にここで、わざわざ社会に何らの価値も意味も齎すことのない『無用の仕事』を作ってやっているといわれる人たちもいるという。
 デヴィッド・グレーバーはそういう無用の仕事を「ブルシット・ジョブ=クソどうでもいい仕事」といい、ブルシット・ジョブとは、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じているもの」と定義している。

どのような仕事かといえば、彼は以下のような五つ種類を挙げげている。

1. 取り巻き[flunkies]

誰かを偉そうに見せたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事。例えば、受付係、管理アシスタント、ドアアテンダント

2. 脅し屋[goons]

雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素を持ち、そのことに意味が感じられない仕事。ロビイスト、顧問弁護士、テレマーケティング業者、広報スペシャリストなど、雇用主に代わって他人を傷つけたり欺いたりするために行動する悪党。

3. 尻ぬぐい[duct tapers]

組織のなかの存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事。たとえば、粗雑なコードを修復するプログラマー、バッグが到着しない乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフ。

4. 書類穴埋め人[box tickers]

組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事。たとえば、調査管理者、社内の雑誌ジャーナリスト、企業コンプライアンス担当者など。役に立たないときに何か便利なことが行われているように見せる。

5. タスクマスター[taskmasters]

他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシット・ジョブを作り出す仕事。中間管理職など。

 日本でもこうした同じような、ブルシット・ジョブにあたる仕事をしている人も多く、こうした作られた需要で余剰人員の一部がカバーされているのであろう。しかも、こうした人たちは高級取りなのだそうである。エッセンシャル・ワーカーと言われる人たちが、過重労働にも関わらず薄給であるのとの対比も、現代の資本主義の象徴と言えるのではなかろうか。