資源の浪費

 戦前の生活と今の生活を比べてみると、今は今で多くの問題を抱えているが、昔とは比較にならないぐらい便利になり快適になった。

 昔の人達は厳しい環境の下で、先人から受け継いできた知恵と技能を使い、自然の掟に従い、自然と一体化して、厳しい労働をしながら生活を守り、発展させてきたが、戦前の生活の中にはまだまだ、そうした伝統的な生活様式が残っていた。

 ところが、日本でもこの100年ばかりの間、西欧的な資本主義的経済発展の時期が続き、世の中はすっかり変わってしまった。大規模な開発、大規模な生産、大規模な消費、それに伴う大規模な廃棄や自然の破壊などが急速に進み、人々の生活はすっかり変ってしまった。

 日常生活を見ても、国中で、多くの人たちが、冷暖房から、洗濯機、掃除機、調理器、テレビ、パソコン、ケイタイ、その他多くの電気器具、情報機器、健康器具などから車まで備え、戦前とは比べようもない快適な生活が送れるようになった。

 しかし、今ではそれすら飽和状態となり、最早、工夫を加え、強いて人工的な需要を作ってでも売らなければならない時代となり、「止まれば転ぶ資本主義」で、無理やり工夫して、人工的な需要を掘り起こしてでも進められるに至っている。

 その結果が今や「人新世」と言われるぐらいに地球に変化を刻みつけ、地球温暖化や大気中のCO2濃度の上昇、海洋汚染などを引き起こし、やがては人類の生存にさえ影響を及ぼしてくることが恐れられるようになって来ている。

 これまで大きいことは良いこととばかりに自由な競争の下で、資源の有限性の中での大量資源の開発、大量生産の推進、競争に伴う大きな無駄、それに伴う必然的な廃棄物の無限の拡大、それらをを無視してきた資本主義体制の結果が遂にデッドエンドに近くなって来ているようである。

 手近な無駄だけ見ても、例えば、毎朝配られてくる新聞の広告の多さ、新聞本体の広告も近年やたらに大きく多くなったし、右から左へ捨てられる折り込み広告も配達人泣かせの重さである。

 テレビも広告だらけだし、SNSなども広告で成り立っているようなものである。その広告も殆どがなくても良いような健康商品や生活関連のアイデア商品のもの。それも似たような商品の競争。その背景にある同じ商品の幾つもの製造会社の競争である。広告の競争にも勝たなくては売れない。売れなければ廃棄される商品も多くなる。

 売るためには作ったものの包装なども工夫して販売ルートに乗せ、他社のものから個別化して広告しなければならない。同じ化粧品をはじめ特売用として瓶詰めにして出したが売れなかったので、小分けしてファンシーな容器に入れて高い値段をつけたら飛ぶように売れたという話もある。

 こうした製造、販売、消費に伴う無駄の結果が端的に現れるのが廃棄物である。近年の廃棄物の多さは目を覆いたくなるような量である。家庭のゴミだけ見ても昔と比べれば驚く程多くなっている。食品の残渣などは増えたと言っても少量であるが、その包装用や液体容器などのプラスチックのゴミが大量である。これだけでも海のプラスチックゴミの問題を充分に想像できるぐらいである。もちろんその他のゴミも多い。

 それでもアメリカなどでは、ゴミ収集車の大きさも違うし、出されるゴミ箱の大きささも日本とは比べ物にならない。当然出されるゴミの量も多い。地球全体での生活関連廃棄物の問題だけでも、人間社会の今後の発展の足枷にもなりかねない。

 それでも、こうした家庭用のゴミの量は知れている。それよりはるかに大量のゴミや産業廃棄物が出され、今や後進国へ輸出さえされているのである。生産物が多ければ、当然廃棄物も多くなるのが資本主義の大量生産の必然なのである。

 競争社会の資本主義的生産にあっては、需要に合わせた生産は不可能である、他人より少しでも良いものを、少しでも大量に作って、少しでも安く売るために、必然的に無駄も多くなるし、廃棄物の増えるのもやむを得ない。

 今やそれが循環の枠を超えて環境を破壊し、地球を人類の住めない天体に変えていってしまいそうなのである。現代人が生きている間は何とかやりくりがついても、その先の地球の運命はわからない。人類の子孫の生活に責任を持つかどうか、現代人が問われているところである。