アメリカは民主主義の国か?

 最近新聞でも、SNSでも、米国の仲間は民主主義国家であり、中国やロシアは覇権主義国家だなどと言い、自分たちの自由と民主主義が人類にとっての普遍的な価値だと主張しているが、アメリカは今でも本当に民主主義の国と言えるのであろうか?

 こんなことを言うと、何をいうのか、アメリカこそ民主主義の総本山ではないかと思っている人も多いに違いない。しかし、民主主義は人類共通の普遍的な価値観であるが、民主主義を自称するアメリカには、資本主義的な自由はあっても、社会的な自由には欠けるところが多いし、民主主義のもう一つの基本的な要素である平等があるかと言えば甚だ心もとない。

 アメリカの自由民主主義は建国当時の植民者たちから始まり、広い未開の大地を前にして、それぞれの人々が自由に西部へ開拓して行った歴史の上に作られていったものである。そこでは、民主的で自由だったのは入植していった主としてアングロサクソン系の白人たちであり、彼らはもともと個人主義的で自由を重んじるが、それは原住民や黒人奴隷などの自由を奪った上での自由であり、人間の平等には全く気を配らない人たちであった。それを自由民主主義と呼称してきたのだということを忘れてはならない。

 民主主義が普遍的な人類の価値であり、個人としての人は誰しもその自由な人権が守られるべきであるが、社会を構成しているすべての人々にとっての民主主義は、自由が全ての人たちの社会的な自由を保障するものであるとともに、自由は平等の制約下にあらねばならないことが当然である。強者の自由が弱者の自由を奪うことがあってはならない。

 民主主義の内容はフランス革命以来、自由と平等の理念を持つものとして考えられてきている。共産党宣言などにはじまる社会主義革命や社会主義社会への展望は、この平等を旗印として生まれたものであり、平等の下での自由、人権尊重、弱者救済があってこそ民主主義が成り立つものである。博愛も強者の弱者に対する恵みではなく、全ての人の相互援助であるべきである。

 時代が変わり、資本主義社会が極端に進み、資本家と労働者に社会が分裂し、男女同権や人種差別が問題となった現在の社会では、万人の自由の保障は小さな政府による社会政策により失われ、強者のみの自由となり、社会的な自由を保障する平等が失われ、民主主義は成り立たなくなっているのである。社会的な自由が平等の下に成立してこそ民主主義であり、平等を無視した自由主義は民主主義とは言えない。

 フランス革命後に、独立宣言後のアメリカを訪問したフランスの貴族出身のアレクシ・ド・トクビルも、アメリカの身分制のないことや、政教分離など、人々の平等化の波を押しとどめることは出来ないことに感嘆したが、平等の台頭が個人の自由を侵害するのではないかと危惧したそうだが、その後のアメリカの人種差別や、経済格差の拡大でもみられるように、自由で平等な個人からなる民主主義の困難なことをを予見していたのであろうか。

 世界の歴史を見ても、平等を求める人々の声は大きくなるばかりである。平等を欠いた自由な民主主義は弱肉強食の未開社会と同じではなかろうか。個人の思想・信条の自由や政治活動の自由などの人権の尊重とともに、万人の社会的に平等な権利が備わって初めて民主主義と言えるのではなかろうか。

 それを踏まえた上で現在のアメリカを見れば、国民の資産の格差は極端で、上位50人の金持ちの資産額の合計が下位半分の約1億6500万人の資産の総額とほぼ等しいところまで来ている。しかも格差は年と共に増え、そうした一部の金持ちが富を独占するばかりでなく、政治的、経済的な権力をも独占し、社会的な保障政策も乏しく、人種差別、強圧的な司法制度等によって大多数の人々の生活は圧迫され、社会は分断されて、およそ民主主義とは反対の事実が広く繰り拡げられていることがわかる。

 富を独占したごく少数者の自由であり民主主義と言えても、それを社会の大多数の人たちにとっての民主主義と言うことは出来ないであろう。民主主義が人類共通の価値観だと言うには、自由よりも平等で公平さが優先する民主主義を打ち立てねばならないであろう。

 騙されてはならない。世界の人々が求めるものは、強者だけの放埒な自由民主主義ではなく、「人々がその能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」弱者を含めた全人類の平等で、相互扶助に支えられた、社会的に自由な民主主義の獲得であろう。