錯覚の楽しみ

 歳をとるとともに次第にあちこち悪い所が出てくるのは致し方ない。長い間生かして貰ったおまけの様なものである。

 それでも足腰が悪くて歩けないとか、認知症で物事の判断が出来ないようなのは困るが、五感の衰えぐらいは徐々に進んでいくものだから、急に生活に支障を来たすものではない。年寄りの必然だと受け止め、諦める方が賢明である。そう開き直ったら、見えにくい、聞こえにくい、臭わないなども、嘆くことはない。これまで知らなかった経験をさせてくれるもので、その気になれば結構楽しめるものである。

 先ずは視力に関するものである。私はまだ現役の五十歳代後半の時に、左眼で物を見ると、視野の中心が暗く小さくなり、物が歪んで見えるようになり、ストレスによる黄斑の浮腫のためだと判った。ただこれは殆ど片目で、両眼に来ることは先ずないと言われて安心したことがあった。

 失明の恐れがないなら、この異常を楽しまなければ勿体ないと思うと、これまでに経験したことのないものの見え方が面白かった。その頃の日本人はまだ背が低く、六頭身ぐらいの人が多かったが、向こうから来る女性を左目だけで見ると、顔に焦点を合わせることになるので、顔の部分が小さく見えるので、皆八頭身ぐらいに見えるではないか。それに中心暗転というぐらいで、顔がぼやけるので皆美人に見えるのである。女性とすれ違うごとに、右目を閉じて八頭身美人を楽しませて貰ったものであった。

 また平行線とは何かについても考えさせられた。それまでは何処まで行っても交わらない二本の直線と思っていたが、黄斑に浮腫が起こると、そこの細胞間の距離が離なれ、いわばバラバラにになるので、その一つ一つの細胞に当たる光線の量がそれだけ少なくなることになるので、結果的にそこだけが縮んで薄暗く見えることになる。平行線もその部分だけ相互の距離が短くなり、そこだけ歪んで見えることになる。ということは何処まで行っても交わらないのが平行線であって、二本の線の間の距離は問題ではないことがわかるというものであった。

 そんな経験があったためか、歳をとって左目の黄斑浮腫は中心暗点になってしまい、右目の視力も落ちて見え難くなったが、それなりに歪んで見え難くなった視野をも楽しんでいる。

 初めの頃、いつも通っていた駅の通路の事務所の入り口に植え込みの木の鉢が置かれていたが、遠くから悪いわが目で見ると、その枝振り等から、てっきり誰かが扉の鍵を開けて部屋に入ろうとしている姿に見えて、近づいてそれが裏切られたのが面白く、以来、そこを通るごとに、その視覚の錯誤を楽しんだものであった。

 そのうちにあちらでもこちらでも、似たような経験を繰り返すことになり、今ではその錯覚を楽しむのが、特に薄明かりの早朝の散歩の時などの楽しみになっている。

 駅の近くの道路の端に郵便ポストがあるのだが、いつも通る毎に赤い服を着た女性が遠くから歓迎してくれることになるし、近くの橋を渡る時にはどう見ても川岸の岩の上に座って魚釣りをしている人が見えるのだが、実は岩に引っかかった大きなゴミであったりする。水辺の白鳥だと思ったら、白いプラスチック袋だったりもする。

 早朝など河原を散歩する人も結構いるが、遠くからでは人と白い標識の区別はつき難い。人だと思ったら標識、標識だと思ったら人。区別はしばらく見ていて動くかどうかで決まる。

 河原の球場のベンチでこの朝早くから誰か座っていると思ったら、白い標識だったり、何処かの玄関先に犬がいる、通りの先の家の門に人が立っていると思っても、近づいてみるとゴミであったり、標識であったり、樹木であったりする。

 手の込んだところでは、道端で誰かがうずくまった格好で何か作業をしているとばかり思っていたら、オートバイが止めてあり、エンジンカバーの部分の白い所がうずくまって仕事をしている人のシャツに見えていたのであったり、家の玄関周りの垣根で人が何か玄関周りの手入れでもしているのかと思ったら、近づいて見ると、白い何かの標識が三枚貼られているのが、屈んで作業している人物に見えたのであったりすりする。

 また左目が悪いので、普通は右目だけで見ているようなものなので、立体感が乏しいことになる。そのため距離感に欠け、遠近感が分かり難い。近くの物と遠方の物が重なって見えると、どちらも同じ距離にあるかのような錯覚に囚われる。木立を通して見える道路標識の高い大きな横棒が道路横に聳える丘と重なって混然と見え、「あれ、あんな所に山に登る階段が出来た」と驚かされたり、高速道路の光の列の先が遠くに見える山への登山道路に見え、ロマンを掻き立てられたりすることになったりする。

 地上の光が多くなったせいもあるのだろうが、最近の暗黒の夜空を見上げても、私にはもう満天の星は長らく見えたことがない。月が二つと金星だけしか見えないが、時には飛行機の光りが金星と紛らわしいこともある。金星か飛行機かを確かめるのも面白い。飛行機も遠くを飛んでいて進む方向によってはあまり動かないので、金星かなと思う時もあるが、しばらく見ていると位置が変わるので飛行機だとわかる。

 目だけではない。匂いや香りがわからなくなり、耳もいつしか聞こえが悪くなり、近くの他人同士の会話が聞き取り難いし、テレビも近くへ行かないと音声がはっきりしない。

 ただし、あまり長くなるので、稿を改めて、別のところで記すことにしたい。