新聞でちらと見ただけだが、30代後半の女性がやっとの思いで妊娠して良かったと喜んだのも束の間、念の為にと出生前診断を受けたところ、ダウン症の疑いがあると言われて、さあ大変。
せっかく妊娠出来たのだから、このまま妊娠を続けて何とか普通の子供を産めないものか、運を天に任せようかと思う反面、ダウン症の可能性が高いと言われた以上、このまま妊娠を続けて、本当にダウン症の赤ん坊が産まれて来たらどうしよう。自分でやって行けるだろうか、これはもう大変な未来になるぞ、お先真っ暗で、心配のあまり寝ることも出来なくなってしまったそうである。
この検査は新型出生前診断(No Invasive Prenatal Genetic Test (NIPT)と言われる検査で採血だけで簡単に出来るので、広く行われるようになってきたが、あくまでこの検査はスクリーニングテストで、確定は羊水検査ですべきだが、こちらは危険も伴う検査なので、簡単に出来る NIPTが一般的な検査になっているようである。
この女性も NIPTの後、説明も受けたのであろうが、ダウン症が有名なトリソミーと言われる性染色体異常で、一生治らない特異的な顔貌をした、知恵遅れ等の発達障害で、他の身体的障害を伴うことも多いということを知っていたために、ダウン症児を抱えての自分の生活を考えると、どう考えても生活が成り立たず、あまりのことにどうしたものか思い悩み、人工妊娠中絶するより仕方がないとの結論に達して、中絶を求めて他の病院に受診した。
ところが事情を話したところ、もう一度検査を確かめたほうが良いのではと説得され、より確実な羊水検査をも受けたところ、異常のないことが確かめられ、人工妊娠中絶を取りやめ、やがて正常な赤ん坊を出産することが出来たという話であった。後からあの時中絶しないで良かったとつくづく述回したそうである。
我が家の近くでも、時々もうかなり大きくなったダウン症の子供に付き添って歩く母親るし、町の発達障害児の施設のダウン症の子が一人一人付き添いがついて街を行くのを見たこともあるが、その世話は横から見ているだけでも大変である。ましてや、母親ともなると、いくら社会的な手を借りようと、現状では、終わりのない日常生活の中で、細かい所はどうしても直接世話を焼かねばならないだろうし、社会的な周囲との関係や配慮も大変だろうし、自分の生活との両立は並大抵のことではないであろう。
現在のように人々がバラバラになった自己責任の個人主義的競争社会では、親や兄弟など家族がダウン症の子のために、どれだけ犠牲を払わなければならないであろうか。冒頭の女性の悩みもよくわかる。ダウン症に限らず、似たようなケースの家族の被る被害は言葉で言い表せるものではなかろう。
そうかと言ってダウン症などを早期に発見して、早期に除去するのが最善の方法であろうか。生まれて来る赤ん坊は百人百様である。先天性の異常や色々なハンディを持った赤ん坊も当然生まれてくる。それを出生前に早期に発見して早期に除去することが人類社会にとって本当に良い方法であろうか。ナチスの行った精神病者の殺害などが思い出される。
生まれて来る赤ん坊は母親個人のものであろうか。今ではダウン症の子を産んだ母親は運が悪かった、産んだ以上は母親が責任を持って育てるべきだということになっている。そうだと、この競争社会では大きなハンディを背負わされることになるので、出生前検査で早く見つけ早く処理しようということが罷り通る。
しかし生命を始めたばかりの段階で欠陥があるからといって除去してしまうことが倫理的に許されるべきであろうか。確かに妊娠中絶は女性の権利として許されるべきものであろう。しかし、本来人間は社会的なもので、人は皆で社会を形成して生きているものだという人間本来の世界から言うと、全ての赤ん坊は社会として育てていくべきで、赤ん坊の個体の優劣や特徴によって生死まで区別されるべきものではないだろう。
社会のありようによって、全ての赤ん坊は全て社会の責任で育てて行くべきものであるとすれば、ダウン症などの大きなハンディを持った赤ん坊も社会全体として保護し、育てていくべきではなかろうか。社会の仕組みさえあれば、現在の人間社会では理論的にはそれも十分可能であるが、問題は社会体制がそれを困難にしていることである。
社会にそれを支える体制さえ出来れば、個人としての母親がたまたまダウン症の子を妊娠したとしても、冒頭の母親のように悩むこともないであろう。しかも実際にダウン症の子を産んだとしても、母親が普通の子を産んだのと同じ負担で済まされるに違いなかろう。
人が社会を構成して生きているのであれば、当然どんな赤ん坊も社会が全体として責任を持って育てるのが当然で、そう言う社会にしていくことがダウン症の子を救うことになるばかりか、多様性の尊重こそが人類の発展の基礎であり、それを許容することが人類の発展につながることをも知るべきであろう。