片目の老眼でも悪いことばかりではない

 まだ現役の50歳代後半の頃、左目の黄斑に浮腫が起こり、ストレスが原因だが、これは通常片眼だけにしかおこらず、両眼に来ることはないと言われて安心し、そのままにしていたが、それはそのまま治らず、浮腫が繊維化してしまったのか、、未だに中心暗点として残り、左目でものを見ると真ん中は見えず、周りが歪んで見える。視力もどんなに方向をずらすようにして見ても0.3~0.4ぐらいしか見えない。

 その上、歳をとって軽い近視も老眼もあるので、実質的には老眼の右目だけで見ているようなものである。しかし、それでも右眼は健全で、視力も裸眼で0.8ぐらいあるので、日常生活で困ることはあまりない。家の中では読書や新聞を読むような時以外は眼鏡なしで過ごしている。

 そんな具合で、あまり困らないだけに、知らないうちは、若い時と同じように行動しては、道で躓いたり、階段を一段踏み外したり、チェーンの存在に気づかずに引っかかったりしたようなことが時として起こった。

 また、いくら探しても見つからない老眼鏡が、目の前の机の上にあるようなこともおこった。片目で見ているようなものなので、立体視が効かないので、机の上の同色の眼鏡ケースが見えなくて、探し回っても判らなかったのであった。

 それでも眼の問題を自覚するようになるにつけて、自然とそれに合わせて行動するようになるので、次第に慣れて、日常生活にはさほど不便を感じることもないものである。むしろ見えないからこそ経験出来るようなこともあるものである。

 毎日のように通る最寄りの駅に通路に、事務所か何かの入り口の近くに木を植えた植木鉢が置いてある所があるのだが、その木の佇まいが、遠くから悪い視力で見ると、丁度、人が少し手を前下方に出して、扉の鍵を開けて入ろうとしている姿に似ていているのである。少しばかり薄暗い通路なので、余計にそうなのかもしれないが、初めの頃は通る度に、いつも人がいると勘違いさせられたものであった。

 また2−3日前には近くの道路の突き当たりが三叉路になっている所で、そこへ近づきながら行く先を見ると、人が立っている。白いシャツに黒っぽいズボンを履いている。道を横切ろうとしているのかと思ったが、一向に動く気配がない。誰かを待って道端に立っているのかとも訝ったが、近づいて見ると、動かないはず、人かと思ったら立て看板であった。

 目が悪いとこれに似たようなことがちょくちょく起こる。暗いと当然余計に見誤りやすいが、ただの看板や標識などより、人に見える方が楽しいものである。

 そんなことを繰り返していると、人がものを見て何かと認識する時の仕方の参考にもなって面白い。人は決して対象物を正確に理解してから認識するものではなく、何か物を見たら、自分の記憶と照らして、大雑把に形を把握した時点で、まず記憶にある近いものと照らして認識するもののようである。

 立体視がまずいので、先日は何かの蓋に斜めに切れ込みが入っていたのだが、それがなぜか、細い柄のついた小さなブラシのように見え、こんなところになぜこんなブラシがあるのだろうと不思議に思い、取り上げようとしたら途端に幻影が消えて、ただの凹んだ切れ込みになってしまったようなこともあった。

 社会的に仕事をしている時であれば、見間違いは失敗や、時には事故にさえつながる恐れもなしとしないが、家の中での老人の暮らしの中では、目が悪いための見間違えは思わぬ楽しみを与えてくれることもあるものである。そのうちに認知症になって思わぬ幻影に驚かされることになるのかも知れないが。

 何気なしにここまで書いたが、以前のブログを遡ってみたら同じように、視力の悪いことに絡んだ話が出てくる。年を取れば、健康だと言っても目や耳、その他の些細な障害は避けられないようなもので、そんなトラブルと一緒に暮らしているのだということを感じさせられる。