老眼の楽しみ

 歳をとっててきめんに視力が悪くなった。視力表で見ると右目は0.3 、左目は中心暗点があるので、記号が歪んで0.2までしか見えない。普通は片目で見ているようなものである。従って、遠近感にも乏しいので、少し遠くの物は平面的に見え、前後関係がわかりにくくなる。

 それに人並み老眼もあるので、普通の人の半分ぐらいしか見えていないのではなかろうか。薄暗いと、てきめんに見え難くなる。最近はパソコンの画面さえ字が読みずらいことがある。

 若い時には、遠視気味で、視力表で2.0まで見えたので、遠くの物を誰よりも早く発見出来たのが自慢であったが、その成れの果てが哀れな現状となってしまっている。しかし、94歳ともなれば、これも仕方がないと諦めるべきであろうか。

 歳を取っても、今でも本も読めるし、字も書けるし、一人で歳並みの生活も出来ているのだから有難いと思わなければならないであろう。目も悪くなったからといって、悲観はしていない。目が悪いからこその、新しい経験も出来るので、それはそれでまた楽しいものである。

 よく通る駅の屋内の通路に、事務所か何かのドアがあり、その前に植木が置かれていた。それが夕方通る時に見ると、いつ見ても、人が少し前に屈むようにして、ドアの鍵を開けているように見えるのである。初めは近づいて植木だということが明らかになり、「なあんだ」と思ったものだったが、慣れて来ると、成る程よく似ているなと感心して、今度はそれを見るのが楽しみになり、植木がなくなった時には、がっかりしたものであった。

 似たような経験は毎日のようにある。近くを散歩していても、てっきり通りの家の前に猫がいるとみたのに、近づいて見るとゴミ袋だったり、道路の突き当たりの歩道に女性が一人立っているとばかり思って近づいたら、道路の柵に括りつけられた何かの標識と、そのすぐ後ろの店の看板が重なって見えていたことが分かったりする。駅の近くの道路にある郵便ポストも、そこにポストがあることを十分知っていても、薄暗い時に歩いて行く時には、いつも人が立っているように見えるのである。

 またある時は、橋を渡っている時に、欄干から下流の方を眺めたら、岩に佇んで釣りをしている人がいるではないか。「あんなところに釣り人がいるなあ」と一緒にいた女房に言うと、否定されて、大雨で流されて来たゴミや流木が岩に引っかかって、そう見えただけであった。

 そういった間違いがよくあることが分かっていても、よく散歩する河原の道でも、やはり、あちこちにある小さな標識などが、人だったり、人が犬を散歩しているように見えて仕方がないことがある。

 そのような誤認が繰り返されると、つい真偽の程を確かめたくなるが、近づいて確かめるのが一番であろうが、近づけなくても遠くからでも、暫くじっと見ていると、動くかどうかで区別がつけられることも知った。

 そういった景色以外でも、月を見ても、ふたつの月が重なっているように見えるので、ぼんやりするが大きく見える。望遠鏡で見るとはっきり見えるが、急に小さくなってしまう。月に近い光は金星か飛行機か、迷ってしばらく目をこらして眺め続けたこともある。

 また屋内でも、新聞を読んでいて、奇妙なことが書いてあるなあと思ったら、漢字の読み間違いだったことも一度や二度ではない。いつも読んでいる時には漢字を見たら、そのおよその格好から判断しているようで、読み違えると、それに関連した話がすぐ脳裏に浮かぶのか、漢字を見間違えると、その漢字にまつわるストーリーが勝手に瞬時に脳の中で出来て、思わず変なことが書いてあるなあと、びっくりしたりすることにもなる。

 目が悪くなると、想像力がそれを補おうとするのであろうか。悪い目が見た情報を、脳が勝手に演繹して、理解しようとするようである。その間違ったストーリーが思わぬ楽しみを提供してくれるということらしい。

 目が悪いと薄暗い所を通るのは怖い、殊に暗くて不規則な凸凹あるような道は危ない。疲れると足が上がりにくいので、転倒しやすくなり、余計に怖い、階段を降りるのは、必ず手すりに手を添えるようにしている。目が悪いだけに注意も必要であるが、目が悪いための特権としての楽しみもあるようである。