PatientでなければPatientになれない

 女房が頬部のシミの組織を調べてもらったら、悪性像があるというので、市立病院の皮膚科で手術して、その部分を摘出してもらった。2〜3センチ経ぐらいの皮膚をいじるだけの外来での小手術に過ぎなかったが、とりあえず付き添い人として病院に行った。

 たまたま見つかったいわゆる皮膚のシミのがんは、一般にあまり転移などで問題になるることもないので、あまり心配もしなかったが、やはり万一のことでもあった時の連絡のためもあるので、家族が誰か一緒に病院へ行き、待機しておく必要があるようであった。受付や診察室の待合で長らく待たされ、手術中は手術室の前でずっと待っていた。

 医者として医療者側から見る医療と、患者側からみる医療はまた異なるもので、良い悪いは別として、患者側からすれば、全てが受動的な側にばかり回るので、大事なことは待つこと、耐えることばかりである。

 英語で忍耐強い意味の形容詞のpatientを、そのまま治療を受ける患者に当てはめてpatientと呼ぶようになったのはいつの頃か知らないが、辛抱強く待ち、辛抱強く耐えている患者をそう呼ぶようになったのか、あるいは患者に辛抱強く我慢しろという意味なのか、どちらかは分からないが、いつの頃からか、医療にかかる患者をpatientと呼ぶようになったらしい。

 辞書を引くと、Paientの名詞の欄には①患者②受動者とあり、次いで、稀にと言う注釈付きで③辛抱する人、受難者と書かれていた。やはり医師に全面的に任せ、受動的に任せて、耐え忍ぶのが患者であり、Patientなのであろう。

 今回は、私は付き添いだったので、直接痛みとか苦痛を辛抱強く我慢する必要は全くなかったのだが、それでも病院という所は何でも全て忍耐強く待つ所であることを実感した。

 受付で待ち、待合室で待ち、診察で待ち、手術の終わるのを待ち、会計で待ち、処方箋を貰うので待ち、更には、外の薬局で調剤の出来るのを待つ、まさにpatientの連続であった。

 今の病院は昔よりはるかに効率良く組織立てられ、患者側の要望にも答え、全てが能率良く合理的に進められるようになっているにもかかわらず、どうしても大勢の患者がいる限り、待たねば仕方がないのが現在の医療である。

 私が医者をしていた頃の患者さんは今とは比べ物にならないぐらい、待たされ我慢させられていたに違いないであろう。診療する医者の方は忙しいばかりで、丁寧に診療すればするほど、次に患者を待たせることになるのをどうすることも出来なかったものである。

 新書版の本を持って行ったので助かったが、待つ時には、いつも以上に時間の経つのが遅いものである。今の病院で、この待ち時間をこれ以上大幅に短縮することは難しことであろうが、やはり待つことが多ければ多いほど、長ければ長いほど、苦痛なものである。

 健康な私でもそうなのだから、ましてや、病気の苦しみや痛みを抱えた人にとっては、恐らく待ち時間は単なる時間以上に苦痛なものであろう。

 待っている間に、ふと思いついた。例え病気になっても、patientでなければpatientになれないのが医療のようである。