私と音楽

 私が子供の頃はおよそ音楽とは関係のない環境の中にいた。小学校でも中学校でも、音楽の時間と言っても、楽器に触れることはなく、ピアノやオルガンの伴奏に合わせて歌を歌うだけであった。

 当時はピアノはまだ高級品で、小学校でもオルガンだけで、ピアノのない学校も沢山あった。琴や三味線などは女性の習い事で、普通には楽器の類は普通の男が扱うものではなかった。男の音楽は詩吟を唸ったり、歌を歌ったりするぐらい。楽器も笛や太鼓、それに法螺貝や鼓、鐘ぐらいのもので、洋楽器もせいぜいハーモニカぐらいであったろうか。

 小学校や中学校でも音楽の時間はあったが、歌を歌うだけで、声変わりを知る頃の中学時代には高い声が出ないので苦労したことを覚えている。ヴァイオリンなどの洋楽器は音楽の教科書に説明があって絵が載っている程度でl実物を見ることすらなかった。

 勿論当時でも、も音楽学校もあったし、軍隊の軍楽隊もあり、音楽の好きな人の中にはピアノやヴァイオリンなどを習う人もいたが、まだごく少数の人に限られており、一般社会では洋楽はまだ特殊な世界の部類であった。

 そんな社会に育ったので、音楽の時間は付け足しのようなもので、人々の関心も薄かった。我が家でも、父が買ってきたヤマハのピアノがあったが、姉が少し練習していたぐらいで、戦争と共に殆ど見向きもされなくなっていた。

 私も子供の好奇心から、時に鍵盤を叩いたりした覚えがあるが、私に出来たのは、二本指で「レドレミソミレミソラソ・・・」と「君が世」の小節をどうにか叩けるだけであった。戦争の激化と共に、このピアノも疎開した時に、その村の小学校に寄付し、お米一斗に化けてしまった。

 しかし、音楽についての思い出で、一つだけ今でも覚えているものが一つある。父に連れられて何処か広い屋敷のようなところの庭で休んでいる時だった。どこからか聞こえて来た当時言われていた西洋音楽が気に入って、帰宅してから、そのレコードがたまたま家のレコードのアルバムにあるのを見つけ、何という曲だったか忘れtしまったが、何度も繰り返して聴いたことがあった。

 しかし戦争に向かう時代には音楽といえば、軍歌や国威高揚の歌をうだけで、少年時代を過ごしたので、音感はさっぱり鈍く、戦時中に敵機の爆音を聞き分けるためと言って、ピアノで和音を聞き分ける訓練もあったが、さっぱり分からないままであった。

 戦後も混乱する世の中で、音楽どころではなかったが、音楽の好きな友人がいて、焼け残った女学校の講堂で開かれた辻久子のコンサートへ一緒に行ったことがあった。それがきっかけとなったのか、戦後は落ち着いてくると共に音楽会へはしばしば行くようになった。

 昔の黒い壁の朝日会館での、労音や学音などの安い音楽会、朝比奈隆の関響の演奏会などに繁々と通ったものであった。しかし、まだ戦後の荒れた世の中が続いていたので、音楽に浸る度に、現実世界とは全く別世界へ来たような感じがして、世の中がまだ荒れて困窮している人も多いのに、こんな贅沢な時間を経験しても良いのかという気持ちがしてならなかったものであった。

 こうして音楽を聴く方には関心も深くなり、惹きつけられるようになっていったが、子供の時から全く楽器には触れて来なかったし、音楽に対する基礎知識もなく、何か楽器を習う機会にも恵まれなかったので、自分で楽器を扱う方は全く不器用で、自ら習おうという気にもならなかった。

 それまでハーモニカなどをいじったことはあったが、さっぱりうまく弾けないので諦めて、楽器からは遠ざかっていた。結婚して子供がで出来た時にピアノも買ったが、子供には習わせても、自分では練習しようという気にもならず、時にピアノの前に座っても、弾けるのは時代錯誤の「レドレミソミレ・・・」しかなかった。

 ただ驚かされたのは、子供が当時流行っていた「鉄腕アトム」の音楽を、教えてもいないのに、自分で真似してそれらしく弾くことであった。音楽というのはこういうものなのだとつくづく思わせられた。楽譜があって、それに従って弾くものではなく、教えられなくとも、耳から入った音の記憶を頼りに、それに似た音をたたき出すものだなと。

 もう大人になってしまってからは、とてもついていけない。ハーモニカさえ吹けないし、楽器の演奏はは諦めるよりないようである。学生時代の友人でヴァイオリンやマンドリンを練習している者もいたが、私にはとても無理なことであった。どうも私には音に対するセンスが発達しておらず、指を器用に使う運動神経にも欠陥があるようである。

 子供たちが学校に行くようになると、いつの頃からか、レコーダーと言われる吹奏楽器を買わされ、授業でも皆で合奏するようになっていた。私に出来ないことを全ての子供がやっているのを聞いて、父親参観日に学校へ行った時に、先生に訪ねたことがあった。「多くの色々な子供がいるだろうから、中にはどうしてもレコーダーを吹けない子もいるでしょう。そんな子にはどうするのですか」と問うと、何と先生は「皆、適当に吹きますよ」と答えられてびっくりしたものであった。

 それからもう何十年も経ってしまっているが、とうとう私には楽器は無理であった。歳をとれば、運動神経も衰える。仕事の関係からも、タイプライターからワ~プロ、パソコンと、早くからずっと使ってきたが、とうとう未だにブラインド・タッチの標準的なな指の使い方が出来ないまま、ずっと一本指で操作しているぐらいだから、今更、ピアノはおろか、どんな楽器も無理である。

 ところが今年の初め、アメリカから帰って来た娘がレコーダーを二本買ってきて、女房と私に練習してはという。ヴェートーベンの第九の歓喜の歌のさわりの一部分が優しいから、それから吹いて練習したらという。

 楽器を吹くことは、年寄りの嚥下障害防止などにも役立つとも言われているので、ほんの一部分だけを練習することにした。初めはどうしてもまともに音も出なかったが、珍しさも手伝って毎日やっているうちに、指の捌き方も、息の吹き込み方も少しづつ慣れて、何とかそれらしい音が出るようになったので、毎日繰り返すようにしているが、こんな短い一部分だけでも、なかなかうまく出来ないので、なかなかそれ以上には発展しない。

 もう諦めて、上手に吹けるようになることは目指してはいないが、誤嚥防止などに少しでも役立てればと思い、今も毎日食事の後に、ほんの一二回だけ、吹くようにしている。

 コロナのおかげで、この三年間、音楽会へも殆ど行けなくて、クラシック音楽も、時に古いCDなどで聴くだけになっているが、自分では出来なくても、音楽は聴くだけでも楽しいものである。