電車に乗っている時や、喫茶店などで寛いでいる時には、つい周りにいる人の外観や、顔、服装などを自然と観察することになるが、人々の身なりや行動も時代とともに、知らないうちに随分変わって行くものである。
私の子供の頃は、まだ女性は殆どの人が着物姿で、男性は着物と洋服の端境期とでもいう時代で、都会でも、外では洋服だが、家に帰れば着物に着替えるといった人が多かった。、それに伴い、下駄や草履がまだ広く用いられており、下駄屋さんが何処にでもあり、靴は外出用で、家では下駄ばきが普通であった。田舎へ行くと、まだ子供が筒っぽの着物を着て、裸足で通学するのさえ見たこともあった。
戦前はまだ身分制の名残りがまだ残っており、仕事や地位の違いで服装も違っていた。会社員は背広姿で、軍人の軍服が幅を利かせていたし、学生服など制服姿が多かった。その他でも、百姓さんは百姓さんの格好、商人は商人、工員は工員の出立ちと、身なりからその人の生活が想像出来ることが多かった。主婦は着物にエプロン姿が多かった。
それに衣替えの伝統がまだ残っており、季節により一斉に夏服になったり、冬服になったりしていた。7月1日の朝には、俄かに会社員から警察官、駅員、学生まで一斉に白い夏の服装に変わっているのに驚かされ、夏の到来を知ったものであった。
制服は夏は白、冬は黒と決まっていたが、一般の人々の服装もそれに見合った色の変化で、いずれも地味なものが好まれた。女性の着物も例外ではなく、普段着は地味な色のものが多く、派手な色の服装は抑圧され、社会全体が同じような地味な格好であった。
戦後の社会の激変に遭遇しても、身なりや外観は急には変わらず、同じような傾向が続いていたので、当時、我が家へ来たドイツの青年が、日本には色がないと言ったが、成る程なあと思ったことを覚えている。朝の通勤時間帯などで、多勢のサラリーマンが延々と続いて地下道を行く姿は、まさに鼠の大群が地下の配管を行く姿を想像せしめたものであった。
そのような社会からアメリカへ行った時の衝撃は強かった。急に入った別世界では、見る人々の外観は背丈も横幅も随分違っていたし、人種も多様だし、服装や外観、行動も派手で、大きく変化に富むのに驚かされたものであった。
ところが、最近になると、この国でも、背の高い人が増えたし、肥えた人も多くなり、ばらつきが大きくなるとともに、人々の服装や行動パターンも、いつしか昔より随分バラエティに富むようになってきた。
学生の黒い制服姿がめっきり減ったし、会社員でも、今や背広にネクタイは営業マンか幹部職の人ぐらいで、あとはノーネクタイが当たり前となり、楽な服装で出勤するサラリーマンが増えた。女性の服装もワンピース、ツーピースといった昔の定番が減って、バラエティに富む姿になり、派手な色の服装は女性だけでなく、男でも多くなってきた。
外観だけ見ても、一目では男か女か判らない人さえ最近は多くなった。女性でも背の高い人が多くなったし、殆どの人がスカートでなくパンツ姿である。日本の女性の多くは胸もそれほど大きくないので目立たない。それに対して男の方も優しい顔をした人が多くなり、長髪で、服装も派手になった。男女の見分けが靴の大きさぐらいでしか出来ないこともある。
その上に、最近は老人も多くなり、服装もより変化に富むようになった。元気な前期高齢者に属する人たちが多いが、勤務時代と違い、自由に服も選べるので、好みに合わせているのであろう。山へでも行きそうなカジュアルな格好をして、リュックを背負った人などが多い。多くは運動靴を履いている。そう言えば、会社へ行くのにリュックを背負った人をもよく見かけるようになったが、阪神震災の後からのことである。
今では昔のように、10月になったから皆が一斉に冬服に着替えることもなく、外と内の区別も少なくなり、自分の好みで服装を選んでいるようである。 今年は10月になっても30度の日が続いたこともあって、なお半袖シャツや短パン姿まで見られ、通勤時間帯でも、上着なしのシャツ姿や、カジュアルな服装の人たちが目についた。女性の姿は勿論それ以上に色々であるが、スカート姿がすっかりマイノリティになってしまった。
靴も、流石に下駄や草履は殆ど見かけなくなったが、昔多かった革靴が減って、スポーツ靴が幅を利かせている。背広にズック靴の人まで結構いるのには驚かされる。杖をついた老人、車椅子、白杖、その他の身障者などがよく見られるようになったのも近年の特徴であろうか。
人々の身なりや服装などは、毎日見慣れてなかなかその変化には気がつかないものだが、長い間には、知らないうちに随分変わってしまうものである。たまたま昔の家族写真などを見ると、知らない家族の写真であっても、写っている時代の身なりや服装、それに全体の雰囲気で、その時代が懐かしく思い出されるものである。