電車で居眠りをしていて目が覚めた時に、周囲を眺めて、ふと思った。同じ電車の中の風景なのに、昔と比べると、すっかり様子が変わってしまったものだなあと。
第一に乗っている人の姿がすっかり変わってしまっている。最近の日本人は皆背が高くなった。昔は背が高いと言えば、ガイジンさんと決まっていた。日本人で電車のドアに頭が使えるような人は滅多にお目にかからなかったものであった。
私は身長160cm足らずだが、我々の世代では、小さい方には違いないが、決して極端に小さい訳ではなかった。同じくらいの背丈の人は幾らでもいて、ある時、友人と何人か一緒に並んで歩いているのを見た女房が、あなたの頃の人は皆このぐらいだったのねと言ったことがあった。
ところが、最近はもうどこへ行っても、背の高い人ばかりである。ひところは「近頃の若者は背が高くなったな」などと言っていたが、今や戦後生まれがもう後期高齢者になる時代。殆どの日本人の背が高くなったと言っても良さそうである。女性でも電車のドアに頭が使えるような人さえ多くなった。
もし戦争で死んだ人がひょっこり生き返ったら、最早ここが日本と思えないかも知れない。今でもテレビなどで、江戸時代の時代劇などやっているが、本物の江戸時代とはもう全く違った世界が演じられているのではなかろうか。昔の日本人は痩せて小柄だが、引き締まった感じの体格だっただけでなく、顔もお多福ように、目が細く頬骨が張り出し、鼻ぺちゃなのが普通であった。体形だけでなく、服装も違えば、行動様式や文化もすっかり今とは違っていた筈である。
江戸時代まで戻らなくても、私の若かった戦中戦後の頃と比べてみても、今は全くと言っても良いほど、違った世界になってしまっている。日本の都会の光景や人々の姿もすっかり変わっている。1960年頃でさえ、まだ日本には超高層ビルなどなかったので、初めてニューヨークの摩天楼を眺めた時には、絵葉書と一緒だなと感激したものだし、私の子供の頃には、自宅で冷暖房や、蛇口からお湯が出るなど考えられもしなかった。夏は裸で団扇で涼むぐらい、冬になれば肩が凝るほど厚着をして、火鉢と炬燵にしがみついているのが普通であった。
自家用車などないから、よく歩き、よく自転車で遠くまで出かけた。引越しなどの時には、牛車が来て、大きな荷物を鉄道の駅まで運び、そこで貨物列車に積み替えたものであった。大都会では市電と市バスが主な交通手段であった。隣の家に人力車が止まったら、病人が出たサインであった。医者がよく往診に人力車を使っていたからであった。大阪の近郊の箕面でも、未だ汽車に乗ったことがないという友人もいた。
服装も子供や青年は一様に、黒の詰襟の学生服制服で、夏服、冬服は6月と10月の初めに一斉に着替えられたが、小学生の袖口は乾いた鼻汁でテカテカに光っていることが多かった。大人は労働者と会社員の身分差が服装の上でもはっきりしていた。会社員は決まって背広のネクタイ姿、労働者は制服か仕事着か。皆一様で、今のように背広姿にズック靴でリュックを背負ったサラリーマンなどありえなかった。
また、日常生活の場では、上と下、屋内屋外の違いがはっきりしており、家でなくても建物へ入れば、靴を脱ぐのが当然で、上履きというものがあった。電車の床に直接物を置いたり、ましてや床に座り込むなど考えられなかった。駅の周りなどで屯ろして座り込む高校生なども、昔は尻を下ろさず、蹲踞姿が普通であった。
食べ物は必ず一定の場所で座って食べるもので、映画「ローマの休日」でオードリーヘップバーンが歩きながらアイスクリームを食べる場面にびっくりさせられたものであった。当時の日本では「行儀が悪い、親の顔が見たい」と言われたぐらいの作法であった。ましてや、電車の中で食べたり、飲んだりなどは全くのご法度であった。
化粧などもこっそりするもので、電車の中でなど、公衆の面前でするのは娼婦ぐらいと考えられていた。米国などでもそう考えられていたようで、車内で化粧をしていて、隣に座っていた外国人に娼婦と間違われて声をかけられたという話を聞いたこともある。
そんな世界しか知らない昔の人間が突然今の街へ出て、電車に乗ったりするとどうであろうか。それこそ「今浦島」である。先ずは、皆が一斉にスマホ見ている姿に驚くことであろう。一体皆何をしているのか不思議でたまらないであろうし、背の高い太った人ばかりに囲まれて圧倒されてしまうのではなかろうか。今はやりのカタカナ略語ばかり聞かされれば、言葉さえ通じないかも知れない。
電車の中でついうとうとして、朧げなな昔の夢を見ていて、ふと目が覚めて、急に現実に引き戻されれば、1世紀にも足らないうちに、世の中の姿というのはこんなにも変わるものかと改めて気が付かされたのであった。